創世記 12章1〜9節 「信仰と旅立ち」

信仰の父、アブラハム

 私たちにとってアブラハムという人は信仰の父です。ガラテヤの信徒への手紙3章6節以下にこのように記されています。

 「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。

 義とされるというのは、義しいと神に認められ、神に受け入れられる。すなわち、救われうという意味です。信仰のみよってアブラハムは救われ、信仰のみによって、異邦人である私たちも義と認められ。アブラハムの子どもたちとなるということです。アブラハムの子どもたちは神によって祝福されます。

 キリストを信じるということだけで神の民とされ、祝福されます。

祝福とは

 では、祝福される、神の民となるということはどういうことなのか。本日はそのことを深めて参りたいと思います。祝福というのはヘブライ語でベラカーです。これは非常に広範な意味があります。「ひざまずく、祝福する、賛美する、敬意を表す」などの意味があります。神さまと人間との関係の中でかわされる行為に関することであるということがわかります。神の前に跪く、神が人を祝福する。また、神から頂いた祝福を誰かに手渡し、祝福する。神さまを讃美する。神さまに敬意を表す、など。ベラカーという言葉は素晴らしい言葉であることがわかります。そして、本当に私が一言で、的を得た説明をしているなと思えるのが、ブルッゲマンという神学者が書いた事典の中の説明です。

 「祝福は、言葉や身振りによって、一方が他方に生命の力を伝達する行為である。」

 祝福で何が手渡されるかといえば、「生命の力」が手渡されるのだというのです。これは、科学的、論理的に説明できる世界ではありません。まさに霊的な世界で起こるできごとです。神さまのご支配されている霊的な次元の話しです。しかし、この生命の伝達が起こると、実際にこの世においても繁栄し、富が与えられ、健康が与えられ、子孫が増え広がっていくということが起こりました。それが祝福されたアブラハムの子孫が経験していることです。神が言葉によって語った結果、神の被造物である世界は、生命で満ちあふれていく。これが祝福の力です。

アブラハムへの祝福

 アブラハムへの祝福の言葉を見ていきましょう。創世記12章1節以下。この言葉は、私にとっても皆さんにとっても決定的に重要な言葉であります。

 主はアブラムに言われた。

 この時はまだアブラムなのです。後に改名されますが、名前がどのような名前かということは大事なことでありました。「名は体を表す」です。アブラムは「父は高められる」というような意味があります。アブが父で、ラームが高めるです。それが後に神さまによって改名されてアブとラーハームで、アブラハムになります。これは、「多くの父」という意味になります。よりこなれた日本語にすると「多くの国民の父」というような意味です。増え広がっていくというイメージがつけられたわけです。

 しかし、今の段階ではまだアブラムです。

 「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。/わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」 

 祝福を受け、地上の氏族はすべてアブラハムによって祝福に入る。アブラハムの子、信仰の子たちによって祝福に入る。国が造られ、名が高められ、アブラハムを祝福する人は、祝福され、アブラハムを呪う者は呪われる。

 これを一言でまとめると、「祝福の源」となるということです。源となるということは増え広がっていくというイメージが常にあります。そして、最終的には「地上の氏族がすべて」祝福を受けるというのです。神から与えられる生命の力をすべての人がアブラハムを源として、得るということです。信仰の民を源としてすべての人が命を得る。そのような民として信仰の民である皆さんは召されています。

選民意識

 先週、ある方と聖書の勉強会をしていまして、一神教の民の「選民意識」が少し気になるということを質問された方がおられました。ネガティブな意味で「選民意識」はあまりよろしくないのではという質問でした。確かに、自分が正しく、他の民はみんな間違っていて、だからその間違った民をとにかくなんとかしなければ、というおのが正義を主張するのみの傲慢さに立った選民意識は争いを生むと思います。

 しかし、聖書に忠実に生きようとするのであれば、頂いた祝福はただただ全ての氏族のために手渡し、すべての人が祝福されるためにあるのだという意識のもと生きるはずです。聖書に忠実ならば。神によって選ばれ、使命を自覚する民として生きる。それが真の信仰者である。そうではなくて、独善的になって、私たちは選ばれてあなた方は選ばれていないということを強調する人は偽物です、という説明をいたしましたところ納得してくださいました。

 選民意識が、国家主義的、民族主義的な内向きな傾向と結びつくとそれは神が願われたものと違い腐敗するでしょう。しかし、選民意識が、神が世界を愛するため、神の思いにたって使命を自覚するため。私は他の民を生かすために神に選ばれたのだという意識は神がお喜びくださるものです。

 聖書の民として召され、教会に集い、クリスチャンとさせていただいた。そうしたら、あとは自分の信仰を維持していくために教会に集っている。。。というようなアブラハムの使命を忘却したクリスチャンになってはいけません。

 この使命を忘れると、内向きな我が教会主義的な教会になり下がってしまいます。

 受けたなら、それを手渡す。神の栄光が高らかに掲げられていく。祝福を手渡す教会として歩むことができるようにと切に祈ります。まず、神さまから頂いた生命を認識して感謝をささげてください。そうして、出て行って自分に与えられているものを他者のために与えてください。

新約のクリスチャンにとって

 新約聖書の時代を生きているクリスチャンにとって祝福、生命の力を受けるということはどういうことなのかというと、キリストの十字架の血潮によって罪清められた民が、新しい命を受けるということです。罪清められた人はどのようになるのかというと、神の神殿となります。コリントの信徒への手紙第一3章16節。

 あなたがたは、自分が神殿であり、神の霊が自分たちのうちに住んでいることを知らないのですか。

 神殿といっても、どういう神殿かというと、「神の霊がうちに住む」神殿です。神の内住を受けるのです。

 もう一箇所、コリントの信徒への手紙第一6章19節。

 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。

 聖霊が我が内におられる。神が我が内におられる。このように確信できた民はどれだけ幸いでしょうか。キリストを受け入れた民には聖霊が注がれます。聖霊の注ぎを信じてください。信仰によって受け止めてください。まだ、そのような聖霊の満たしは私に与えられていないと思われる方は、どうか求めてください。キリストへの信仰があるのならば、主はその信仰に応えて聖霊を送ってくださいます。

 また、もしまだ悔い改めていない、神に見せていないところ、人がいなくなった時に隠れて行っているような罪もすべて主の前に告白し、赦しを得て、すべてを主の支配に委ねてください。聖霊は清められたところに宿るのです。主の血によって清められ懺悔をささげてください。パウロもこのように注意しています。コリントの信徒への手紙第一6章18節。

 みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。

 この言葉を聞いてピンとくると思います。その部分をこそ主に委ねて、赦しを乞うてください。そして、聖霊に満たされるように、切に祈ります。

祝福を受けるものは

 さて、祝福を受け取るためには準備が必要です。アブラハムには徹底的に祝福の民としての準備が与えられていました。その準備とは何かというと「捨てる」という準備です。本日の創世記12章1節に注目してください。

 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。

 アブラハムのこの時の年齢のことを考えてください。75歳です。アブラハムの生涯は175歳でありましたから、ざっくり考えて人生の半ばと言ったらよいのでしょうか。落ち着いて、得るべきものを得た時と言っていいと思います。生まれ故郷と父の家というのは、父や兄弟、親戚など、自分が頼りにでき、必要なものを与えてくれる場所です。75年で成し遂げた人生、すべてを置いて、捨てて、カナンの地に行かなければなりませんでした。地形から考えて、アブラハムがはじめにいたウルのほうがチグリス川、ユーフラテス川の間ですから、肥沃だったはず。また次に移り住んだハランのほうがカナンよりましだったはずです。にもかかわらず、すべてを置いて、神が示す厳しい土地に行かなければなりませんでした。

 アブラハムの人生を振り返ってみると、捨てて捨てての人生でした。

 愛する甥であるロトとも分かれなければならなくなりました。相談でき、心から頼っていた人でした。

 さらに、自分の息子イシュマエルとも分かれなければなりませんでした。イシュマエルというのは、側女の子、奴隷の子でありましたが、アブラハムとは血の繋がった実の親子です。しかし、どうしても正妻との関係がうまく行かずに、この側女を追い出さなければならなくなってしまいました。自分の子どもとの別れです。

 そして、極めつけに、100歳の時に生まれた、正妻のサラとの間の子ども最愛の息子イサク。驚くことに、このイサクをも神に捧げよと迫られました。しかも、自らの手をもって殺めなければならないという恐るべき試練でした。神はその手をストップさせてくださり、イサクの助かりました。しかし、神の前に彼は自分の息子さえ捨てた、そういう筋金入りの信仰者となっていました。まさに、神への信仰だけによって生きた人、信仰の父。世界中の人々がそう確信して疑わないのです。 

 主イエスの言葉を思い起こしてください。マタイによる福音書16章24節。

 わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。

 すべてを捨てて、信仰だけによって約束の地に至る。信仰のみによって生きるということはこういうことを言うのです。信じて捨てる訓練を信仰者は必ず受けます。

肉において死に定められている

 肉において我々は死に定められています。肉の死というのは、この世のもの全てを脱ぎ捨てるということです。すべてを脱ぎ捨てて、主のもとに行くのです。だから、結局は捨てるということがこの人生の結論です。しかし、信じるものには、すべてを失っても残るものがある。永遠の生命です。先程から言っている祝福です。信仰によって与えられる祝福、生命。だから、死のその先がある。主にお会いして、既に内在くださり、ご一緒に歩んでくださった方とお会いするというすばらしい喜びの再会の時が待っているのです。その出会いが喜ばしいものになるか、それとも苦々しいものになるかは、この世にあるうちに主イエスに対してどのように応答して生きたかにかかっています。

三代にわたって

 神さまはアブラハムに約束された約束を何度もお語りになられました。主の熱意が伝わってきます。なんとかしてこの信仰による祝福に預からせたいのです、神さまは。

 アブラハムにも何度もおっしゃられましたが、その子どもイサクにも、ヤコブにも語っておられます。だからこそ、イエス・キリストによる罪の赦しの福音、そして異邦人である私たちへという拡散があったのだということが理解できます。最後にイサク、ヤコブに語られた言葉を皆で確認したいと思います。

 まず、アブラハムの子、イサクに対して。神さまはおっしゃられました。創世記26章4節以下。

 わたしはあなたの子孫を天の星のように増やし、これらの土地をすべてあなたの子孫に与える。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。

 それから、イサクの息子ヤコブに神さまはおっしゃられました。創世記28章14節。

 あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。

 神さまが約束され誓われたのならば、それは決してどんなことがあっても破られることはありません。人間がそれを反故にして滅びるということはありえますが、神が約束をダメにするなど決してありません。

 使徒パウロは、この祝福の約束はイエス・キリストへの信仰に生きるクリスチャンに引き継がれていると宣言しました。

 御言葉に耳を傾け、祈って神の声を聞こうとしているとき、とりわけ主への思いがあつくされているそのとき、聖霊が我が内に内住し、神の生命の伝達が起こっていくのです。信仰によって生きる皆様に、このアブラハムの祝福の約束は適用されるのです。御言葉と祈りを通して聖霊が注がれます。神の内住がおこります。どうか、十分に受け取ることができるように、切に祈り、皆様を祝福したいと思います。

主の呼びかけに応えて、自分を捨てるものに祝福あれ。アーメン。