創世記22章6〜14節 「主の山に備えあり」

恐ろしい試練

 自分の命よりも大切なものは、何ですか。自分の子どもです。これはどんな人の頭にものぼる内容です。聖書の民だからとか関係ないでしょう。しかし、聖書の民にとって、自分の命より大切なものは、子どももそうですが、何ですか。神です。神が私自身よりも大切です。

 究極の問いですが。本日主から問われていることというのは、この究極の問いです。

 あなたは自分の息子をとるか、それとも私をとるか。主はアブラハムに問われました。しかし、これは、信仰の民である私たちに対しても問われている内容なのです。

 こんなこと問わないでください、神さま。そんなのわかっているじゃないですか。両方です!!

 いや、どちらか一方を選べ。

 。。。

 私は自分がもともと聖書の民でなかったから、この問いがあまりにもひどい問いのように聞こえてしまうのかと思っていました。が、よく考えてみれば、これはどんな民にとって究極の問いであり、この問いを実際に神は発せられたのであるという事実。この事実の前に、立つことが大事なのだと気付きはじめました。

試練

 神が与えられる試練は、はじめは逃げたいと思わざるを得ないものばかりかもしれません。試練についてヒントを与えてくれる、新約聖書のヤコブの手紙を読みたいと思います。ヤコブの手紙1章2節。

 わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまで忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。

 試練は人を成長させる。しかも、完全で申し分ない状態に。完全で申し分ない状態というのはどういう状態かというと。創世記1章27節。

 神は御自分にかたどって人を創造された。

 神に似たものとなるということ、これが人として完全な状態です。試練は忍耐を生み、神の似姿となる。神を誰よりもうつすものとなって、神を知るものとなる。神を知り、神の似姿となるための試練。

逃げたい

 わたしは、つい最近まで試練からは逃げたいと思っていました。つらいだけのような気がして。報われないものがあまりにも多い気がして。しかし、神を知り、神に似るためのプロセスを通っているのだということを心から受け止めるようになってくると、試練から逃げるというのはベターではないと思わざるを得なくなりました。せっかく、主を知るチャンスなのに、そこから逃げているのではと。逃げていた時は、あらゆる依存の虜でした。何かに逃げないとやっていられないんですね。

 しかし、逃げたくなるような試練の中にこそ、輝く光、主が待っておられて、私はあなたにとってこういう存在なんだよ。あなただけじゃなくて、世の人たちに対してこういう思いをもっているのだよと教えていただける機会となることを知りました。まさしく主は愛しか持っておられないお方でしかないことを知ります。

 試練に真っ向からぶつかっていくことで、主が知るのです。

 ということで、アブラハムのイサク奉献の出来事も逃げないで向き合っていきたいと思います。創世記22章1節。

 神はアブラハムを試された。

 神が試されたのです。試練は神から与えられます。試練の中で、人は神の似姿にかえられていきます。2節。

 神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。

 厳密に「はい」を訳すと、「はい、ここにおります」と訳すことができます。ただただ主が主体であって、私はここにおるだけです。というアブラハムの祈りの姿勢がわかります。

祈りの姿勢

 祈りをする時に、既に祈りの応えを持っていて。こうなって欲しいと思って祈る祈りがあります。ほとんどはじめはそういう祈りばかりじゃないですか。神に聞く前から答えは決まっている。

 しかし、真の祈りというのは、主に従う意思をもって、主の前にいるという祈りです。アブラハムは信仰の父として、もっとも素晴らしい祈りを私たちに指し示してくれています。「主よ、心の願いをすべて取り下げて、ただあなたに聞き従います。あたながたこれまでの人生すべてをお与えくださいました、主を讃美します。主なしにわたしの人生はありません。家族が与えられたのも、住むところが与えられたのも、今日いただくすべてのものも全てあなたが下さったものです。あなたの守りの内で憩います。それゆえ、私は私のすべてをあなたにお捧げします。」

 とアブラハムは言っていませんが、主への信頼の思いとすべてを主に委ねているという意思が「はい」というたった一言で伝わってきます。

一番聞きたくなかったことを聞く

 アブラハムが神から聞いた内容というのは、どんな内容だったのでしょうか。

 ずばり、一番聞きたくなかった内容でありました。創世記22章2節。

 神は命じられた。

 「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに上り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

 神のお命じ、コマンドです。背くことはできません。一体どんな理由で、愛する子、イサクを焼き尽くす献げ物としなければならないのか、説明は一切なされません。ただ、推測できるのは、これが焼き尽くす献げ物を捧げよということだったこと。ここから意味を引き出せます。

 焼き尽くす献げ物はヘブライ語ではオーラーと言いまして、アーラー(上る)に由来する言葉です。犠牲にされたものが神聖な火に焼かれて、全てが天に向かって行く、その煙に合わせて礼拝者の魂が神に向かって上っていく。そのことを象徴する行為でありました。

 だから、息子をオーラー(焼き尽くす献げ物)にせよということは、あなたの身も心も、いやあなたが自分の存在以上に大事にしている息子を天にささげよということです。

 「身も心もあなたにお捧げいたします」という祈りをしますが。実際、リアルに身も心もお捧げするということは、こういうことなのです。

 焼き尽くす献げ物にするためには、奉納者が犠牲の動物の頭の上に手を置き、動物の首を小刀で引き裂きました。奉納者の罪が人から動物へ移行し、身代わりの死によって罪の赦しが起こりました。その血は祭壇の四隅に振りかけられました。その後、皮をはぎ、各部分に切り分け、内蔵と足は水で洗い、祭壇で焼きました。

 こんなことが人間の身に、しかも息子イサクの身に起こったらと想像しただけで立っていることはできないことでなかったかと思いますが。。。

 しかし、彼は坦々と従っています。22章3〜4節。

 次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、

 三日間歩きました。大体100キロぐらい歩いたと言われています。

恐ろしい黙想

 100キロ歩く中、一言も言葉が記されていません。黙って、黙想を重ねていたに違いありません。自分が願っていることと全く逆の命令を下される神。その恐ろしい命題の前で、アブラハムは延々と思いを巡らしていたに違いありません。「地上の氏族はすべてあなたによって祝福にはいる」というアブラハム契約によって、アブラハムの子孫は増え広がっていくはずでした。しかし、それが今にも頓挫しようとしている。イサクは大体30歳、アブラハムは大体130歳ぐらいです。

 75歳のときに聞いた祝福の言葉を信じて55年生きてきた。しかし、その約束の言葉がどのように成就するのか、もはや自分の予測では全く見えてこない現状が目の前にある。この子が死んでしまったら一体どうなるのですか。そんな問いを抱いたに違いありません。

 アブラハム契約と、イサク奉献とは人間の頭では決して論理的整合性は付けられません。両立することはありえません。祝福の担い手であるイサクが焼き尽くす献げ物としてささげられ、死んでしまったら、祝福は受け継がれていかないのです。

 しかし、彼は信じた。それでも信じた。神の全能に信頼を置いた。自分がどう思うかが先にあるのではなく、神のご存在が先にあることを、神のご命令が先にあること、神のご契約が人生の全てであったこと、人生の主権は常に主にあったことを心深く味わっていたに違いありません。

信仰生活は

 信仰生活は、自分が「こうありたい、こうであるべきだ」という願いと、神が「こうである」と命じられることが違うことを知る歩みでもあるという事を知ります。

 神は時として、わたしが「全く願ってはいない」こと、むしろ「真逆のこと」を願われることがありうるのだということ。しかも、それが非常に大きなターニングポイントとさえなりうるのだということ。

 イサクがささげられたモリヤの地こそ、シオンと呼ばれ、神殿の丘とされて、後に神殿が建ち、その神殿の周辺の丘でイエス・キリストが十字架で屠られ、救いが達成されたのです。この場所を中心に世界は動きました。

 アブラハムの献身が、イサクの献身が歴史の扉を開いていっていることがあとから見ると良くわかります。今も岩のドームが立てられて、世界中の人々の信仰が交差する場所となっています。

アブラハムは何を?

 アブラハムはこの100キロの道のりで一体どんな黙想を重ねたのか。創世記にはアブラハムの言葉は全くありません。しかし、新約聖書にアブラハムの心を指し示す言葉があります。ヘブライ人への手紙11章17節以下。

 信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで、彼はイサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。

 アブラハムは与えられた約束と現実に起こっていることの間にあるギャップ。それを神の全能さ、神の力、神の絶対的な愛によって埋めていただけるはずだとどこまでも信じたのです。

 神の言葉を聞いて、約束の言葉はこうだと、イエス様の言葉はこうだと聞いて、しかし、わたしはそんなミッションを引き受けることは到底できないんじゃないかと思う。特にイエス様が与えられた大宣教命令に従ったり、聖霊が注がれた弟子たちが世界中に出ていってしまうということを聞いたりして、いやいやいや、自分には到底ムリな話です。と思って、自分と関係ない話に押し込んでいるかもしれない。

 しかし、聖書の言葉を聞いて行くと、実際にその言葉があなたに語られている言葉かもしれないのです。それは誰にもわからない、自分で聞くしかありません。しかし、その時、私たちが肝に命じなければならないことは、「できるできない」で判断しないということです。

 アブラハム契約と、イサク奉献は、人間的な論理に基づけば、絶対に両立できないことなのです。「できるはずがないこと」です。イサクが死んだら終わりです。しかし、アブラハムは、とことん主の全能さだけに信頼を置いたのです。信仰とは、主体がこちらにあるのではなくて、力がこちらにあるのではなくて、向こうにあることを信じることです。主体がこちらにあると信じている人は神の力を理解できませんし、依り頼むことができません。だから、出来ないことは出来ないで終わる人生になります。

 しかし、アブラハムのように、主体は神にしかないと考える人には、論理を飛び越えた世界がありうるのだということを受け止めるしかないし、実際それが起こって歴史があることを知るのです。アブラハム契約とイサク奉献は両立しうる神の力によって。

 そう信じたアブラハムには、さらにおどろくことに、全く違う結末が待ち受けていました。

 まるでドッキリカメラのように、天使が現れて、しかも近くに献げるべき雄羊が角をとられて結ばれていて、心のそこからの感謝をもって主に献げ物をすることができたのです。

 聖書には全く書かれていないので、実際はわからないのですが。

 アブラハムは感謝と共に泣き崩れたのではないかと思います。

 神は全てを備えてくださる。神は全てを備えてくださる。主の山に備えあり。主の山に備えあり。と叫んだのではないか。

 アブラハムは、神の声を聞きます。創世記22章16節以下。

 「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。

 アブラハムの発言がこの箇所全体でほとんど描かれないのは、アブラハムが思っていたことが全く成就せず、神の約束だけが成ったことを聖書は証ししたいからです。

 アブラハムは「はい、ここにおります」と言っただけでありました。

 聖書というのは、自分の人生を自分の思い通りに生きたいという人にとっては真に困った書物です。その思いは思い通りになりませんよとハッキリ告げられます。しかし、自分の思い通りではなくても、主のご意思のままに生きたいと願う人にとっては主の約束の言葉が、主の愛が、主がどうしても私たちを天を知っている、天の基準で生きるように、子どもとしようとされていると気付く神の言葉です。

 皆さんの人生においても皆様の思いの実現ではなくて、主の思いが成りますように、そして主の約束の、祝福の子どもとして生きることができるようにと祈ります。アーメン。