創世記33章1〜4節 「兄弟の和解」

共に戦う神

 必死で戦っていたけれども、後から考えるとあの時、主がご一緒してくださって、主が私の戦いを戦ってくださっていたのだと気付く時があります。主が共にいてくださるということ。主イエスが約束してくださっています。マタイ28:19〜。

 わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

 信じ神の民となっているものには、この約束の言葉が必ず守られる。主がご一緒してくださっているのです。それが後から分かるという瞬間を度々経験します。自分が戦っていると思っていたけれども、主が戦ってくださったのだと。

回心

 昨年の11月のイスラエル旅行で、私は自分の誕生日にイエス様の誕生の場所に行くことができました。イエス様がお生まれになった大切な場所をスマホで撮ってみたら、すべてブレブレの写真だった。衝撃でした。しかし、この衝撃を通して、「あなたは見るべきものを見ていない。見えていない。スタンスがブレている。」と神さまから示されました。

 その時から、祈りに献身をし、御言葉のみの生活を自然と形作るようになりました。それまでは祈り中心の生活ではありませんでした。なんとか、小賢しい人間の業で主の業を行えないかと考えていました。しかし、わたしが不従順に不信仰に陥っているときも、主は御覧くださっていて、長い間かけて、回心を与えるための計画を備えてくださっていたことを思います。

 主がそばにおられるという確信から、生活すべてが変わりました。その時だけじゃなくて、徐々に、その確信が強められていっていることを感じます。早天礼拝もついにはじめられて、私一人で祈りの労を執る必要があるかなと薄々思っていたら、一緒に祈って下さる方が備えられていました。ハレルヤ。

 ただただ、主の約束の言葉だけが成ることを信じて参りたい。主の言葉に従順に従い、行って、すべての民をイエス様の弟子にしようとする時に、主の力が働くことを信じます。父と子と聖霊の名によって洗礼が授けられて、教えがなされるときに、主の力によってこの地域や社会が変わっていくということを信じます。マタイ福音書の結論として示されているように、それが主イエスのビジョンです。そして、何より、主イエスが終わりの時まで共にいてくださると約束してくださっているのですから、日々、主のためにこの命を投入して、主のために動き出したいと願います。

試練が必要

 人が回心をするためには、試練が必要です。どうにも思い通りにならない現状というものの前で力なく立ち尽くす時に、神に立ち返るのです。

 試練についての御言葉を学びましょう。汽撻肇蹌院В

 それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。

 試練によって信仰が練られます。試練によって信仰自体が与えられる人もいます。しかし、この試練は私たちを滅ぼすものではない、この試練によってむしろ証明されます。私たちのキリストへの思いが本物であるということを。そして、金よりも遥かに尊いものとして、イエス様が皆様の前に来られたときに、すべての称賛と光栄と誉れとを皆まさに与えてくださいます。

 自分の富でもない、自分の能力でもない、地縁血縁でもない、人脈でもない、名刺でもない。主への信仰だけで生きる人に、主は限りない称賛と栄光と誉れを最終的にはお与えになりたいのです。

試練の中でも

 試練が与えれて、信仰が練られて、その間じゃあ、この世にあるうちはいつも苦しいだけなのか。まさに、この世が地獄であるかのような苦しみを経験しつづけなければならないのか。という問いが浮かんでくるかもしれません。そのことに対する答えが、先程の汽撻肇蹐梁海に書かれております。ペトロ毅院В検

 あなたがたは、キリストを見たことがないに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。

 圧倒的な喜びで満たされて、喜びの中、試練を乗り越えていけます。これがクリスチャンの生き方です。試練を次々と経験するけれども、常に、誰にも奪い去られない喜びがある。クリスチャンなのに、あの人つらそうね、喜びなんかないんじゃないの、と誰に言われても、喜びがある。誰に否定されても否定されない。そういう世界を持っている。それがクリスチャンです。

成長させるため

 ヤコブの手紙を見ると、試練をさえ喜びとせよと記されています。ヤコブ1:2。

 わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。

 試練に耐える時に、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になる。イエス様に似たものに変えられていくということです。誰だって試練や苦しみは嫌です、避けて通りたい。ましてやそれを喜びとせよなど、どういうことなんだ、と言いたくなります。

 しかし、なぜそう思うのかというと試練の意味が分かっていないからです。試練は、イエスに似たものに私たちを作り変えるプロセスです。試練のなかで、神がいったいどのようなお方かを知るのです。

 試練の中でしか、人は神の方に向き直らないのです。悔い改め、悔い改めと言っていても、悔い改めないのが人間です。その人間に試練をお与えになられて、どうにも悔い改めるしかない状況へ主は私たちを導かれます。

ヤコブ

 ヤコブは悔い改めの代表とでも言うべき人です。本日の創世記33章周辺では徹底的に追い詰められた人として描かれています。妻の実家ラバンの家にいられなくなりました。自分の実家に帰れば、兄エサウがヤコブを殺そうと待っています。400人の兵を引き連れて、見つけたら即座に殺す意気込みです。

 しかし、その中でこそ、神さまはヤコブに故郷に帰りなさいとご命令なさいます!創世記31:13。

 さぁ、今すぐこの土地を出て、あなたの故郷に帰りなさい。

 神さまが命じられた行くべき場所が、故郷でなかったら、どれだけ楽だったか。最も問題の深い、恨みの深い、怨念の立ち込める場所がヤコブにとっての故郷でありましたでしょう。そこに帰らなければならないと神が命じられたのです。

人の算段

 ヤコブは策略によって、エサウを贈り物攻めにして、なだめてなんとかこの難局を乗り越えようとします。しかし、そういったものは何の役にもたちません。ヤコブは先に遣いを兄エサウのもとに遣わして衝突が起こらないようにと画策しました。創世記31:5。

 お前たちはわたしの主人エサウにこう言いなさいと命じた。「あなたの僕ヤコブはこう申しております。わたしはラバンのもとに滞在し今日に至りましたが、牛、ろば、羊、男女の奴隷を所有するようになりました。そこで、使いの者を御主人様のもとに送って御報告し、御機嫌をお伺いいたします。」

 こうやってゴマをすって、贈り物をしてなだめようとするのです。

 しかし、思い返してください。狡猾な手法をもって、ヤコブは兄エサウから祝福を奪い取ったのです。今回だって、兄にしてみればまた同じことをヤコブはしようとしているのではないかと思うのが当然です。狡猾な手法で、だましうちをしてくるに違いない。

 でも、ヤコブはこれでうまくいくと思っています。創世記31:21。

 ヤコブは贈り物を先にいかせて兄をなだめ、その後で顔を合わせれば、恐らく快く迎えてくれるだろうと思ったのである。

 しかし、そううまくはいきません。33:1を御覧ください。

 ヤコブが目を上げると、エサウが四百人の者を引き連れて来るのが見えた。

 これは軍隊です。やっぱり、エサウはヤコブを殺すためにやってきたのです。もう二度と騙されんぞという思いであったでしょう。

 絶対に失敗が決まっているという中で、神さまは御自分の業をなさるのです。ヤボク川で一人になったヤコブとレスリングをします。不思議な話です。神の使いが現れて、いやこれは全体を読むと、まさに神さまご自身であったのが分かります。使いと言っても聖書の中では神さまご自身のときがあることを常に覚えてください。ヤコブは言いました。32:31。

 わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている。

 御使いはヤコブとのレスリングの途中、「もう去らせてくれ、夜が明けてしまうから」と言っていますが、これは神を人が直接見たら人間は死んでしまうから、ヤコブを死なせないために、もう夜が明けるから去らねばということです。ということは、この御方は神さまです。

 泥棒的な姿ですよ、かわべりで寝ている人にレスリングを挑むというのは、とくに当時の中東では、泥棒はこういう変な礼儀作法を守ったようです。くみうちをして勝ったらものを全部いただく。なんか笑えてしまいますが、、、泥棒にも礼儀があった。明らかに泥棒のようにして、忍び寄ってレスリングをして、そして、ヤコブは実はいつのまにかこの御方が神さまだったのだということに気付いているのです。

 「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」

 といって、神の祝福を求めています。

聖書の記述のリアルさ

 聖書というのは、本当に私たちの生活そのものを言いあてている神の言葉です。私たちも経験するのです。追い詰められて、必死で格闘して、何で自分がこんな目にあわなければと思っているような出来事が起こって。しかし、実はその時こそ、神さまと格闘し、神さまが共に格闘してくださる時。

 イスラエルという名前がヤコブに与えられますが、イスラエルという名の意味は「神と戦って勝った」という意味。また「神が支配される」という意味でもある。「神が戦ってくださる」というような含みのある言葉なのです。

 何がなんだかわからない現実にもみくちゃにされて、しかし、それでもその瞬間にこそ、実は神と出会い、神が共に戦っていてくださり、神が支配してくださって、神の御業が起こる時である。それが私たちの現実なんだと。

神さまの業

 神さまの御業が起こりました。ヤコブの腿の関節がはずされました。それによって彼は足を引きずって歩かなければなりませんでした。足をひきずるというこの姿がなければ兄エサウは間違いなくヤコブを剣にかけていたことでしょう。

 ヤコブが必死の形相で足を引きずりながら、誰よりも前にでて、自分が犠牲になることを覚悟で、地にひれ伏し、赦しを乞いました。その姿を見て、兄エサウの戦闘意欲は全くゼロとなってしまったのです。足を引きずって必死の形相の弟を見て。主の業でしかありません。

 エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。

ヤコブは祭壇を立てた

 33章の最後を見ると、ヤコブは神の力に感謝し、祭壇を立てました。

 そこに祭壇を建てて、それをエル・エロへ・イスラエルと呼んだ。

 エル・エロへ・イスラエルというのは、「神はイスラエルの神」という意味です。この力ある神こそが、真の神であると彼は感謝とともに献げ物をしました。

 全能の神のちからがなければ彼は確実にエサウの剣の犠牲になっていました。神が試練の中で出会ってくださって腿の関節を外してくださらなければ、彼は死んでいました。しかし、彼は、兄弟と涙しつつ和解することができました。それはすべて全能の神の業です。

 主イエスの名によって勝ち取られた皆様が経験する試練は、すべて神と出会うため、神に似たものに皆様が変えられるため。忍耐を生み出して、キリストの忍耐を覚えさせるためです。どれだけキリストが今まで忍耐されてこられたことか。どうにも悔い改めない、未だに神の力ではなくて、人間の算段によってなんとかしようとあくせくし、その結果心をなくし、信仰をなくしているその人をどれだけ主が忍耐してくださっていることでしょうか。

 何が起こっても、主の業の内、厳しい現実の中でも格闘しながら皆様が主の業を体験できますようにと、主の御名によって祝福いたします。アーメン。