創世記37章3−11節 「ヨセフの夢」

信徒説教 三木義博

≪初めに≫

 皆さんは「今日見た夢は神様から見せられた夢だ」と思われたことが有りますか。実は私は今から7年前に見たのです。その話をしたいのですがその前に、私達はこの8月、4回に分けてヨセフのことを学び神様のメッセージを受け取ろうとしています。

先週はヤコブが兄のエサウと再会する場面でした。聖書を読んでいますと神様がよく「私はアブラハム・イサク・ヤコブの神だ」と言われています。アブラハムからしますとヤコブは孫でその子供、即ちアブラハムの曾孫がヨセフなのです。ヤコブには12人の息子がおりましてその息子が一人一人族長となってイスラエルの12部族となってゆきます。

このヨセフの話は大変長いのです。そのことは大切な話であることの証拠です。途中38章だけ別の話(ユダとタマル)ですが今日の37章から創世記の終わりの50章までの13章がヨセフの物語なのです。ヨセフ物語の後はその400年後の出エジプトの話になりヨセフ物語は創世記の最後を飾るに相応しい内容です。

ヨセフ物語は是非とも一度読まれることをお勧めします。物語としてとても面白く感動的です。特に45章では、奴隷の身分からエジプトの王様の代理人(宰相)とまでなったヨセフが、自分を殺そうとした兄たちの前で自分はあなたたちが殺そうとしたヨセフです。今迄のことは全部神様が今日の日のためにされたことでお兄さんたちをわたしは恨んだりしていません。と言って泣く場面は何度読んでも泣けてきます。

≪私の見た夢≫

 さて私が見た夢です。それは2010.9.25のことです。その前の夜、私はルカ22章の「剣のない者は、服を売って剣を買いなさい。」のことに思い巡らしていました。その翌朝の4時ごろうつうつしていますと何故か突然「All from glory of God」の文字が浮かんできたのです。驚きました。なぜこのような言葉がしかも英語で出てきたのか?だいたい英語の苦手な私が英語の幻を見ることが不思議でした。でもすべては神の栄光からと訳されるこの言葉をわたしはわけが分からず納得したのです。

不思議なことはまだあります。当時私たち夫婦はローズンゲンの「日々の聖句」を毎朝読んでいました。そしてその日の聖句はヘブル2:1の「わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。」でした。これでびっくりしたのです。「All from glory of God」はやはり神様からのメッセージだと信じました。

ですが私はfromはforの間違いだったのでないかとずっと思っていました。とこが先週の7日の月曜日に民数記を学んでいる時、次の言葉に出合ったのです。

14:20 主は言われた。「あなたの言葉のゆえに、わたしは赦そう。

14:21 しかし、わたしは生きており、主の栄光は全地に満ちている。

これは出エジプト後カナンの地を探ってきた人がヨシュアとカレブ以外、神を信じないで遂には自分たちはここで死んだ方がましだとまで言ったのです。このため神は怒られて人々を滅ぼそうとされました。でもモーセの執り成しでそれを撤回されたときの言葉です。これで分かりました。全地は神の栄光の中にあり誰もこの栄光の中から出ることはできません。この栄光の中で神は祝福もし呪いもされるのです。ですから全ては神の栄光からくるのです。私の夢を皆さんの前で語るに当たり、神が私の7年間の問いに遂に答えて下さったのです。神に感謝します。

私はこの夢以来、私の周りに起こることはすべて受け入れようと思いました。苦難も、辛いことも、神様の栄光から来ているのであって私自身は分からなくてもこの世を旅立つ時、あれは神様の栄光から来たことだったと分かるようになると思います。今思えば神は3年前亡くなった娘の死に対し前もって私に語って下さったのでないかと思うのです、神の栄光の為であったと。このことを私は今日の信徒説教の原稿を書くに当たり改めて思い出したのです。ヨセフの夢も神の栄光から神がヨセフにお見せになられたのです。

≪やっと授かった子供ヨセフ≫

 さて3節でヤコブは息子たちの中でヨセフを一番かわいがったと書かれています。それはヤコブには二人の妻レアとラケルがいまして、レアが姉でラケルは妹です。ヤコブはラケルが大好きでラケルと結婚しようとしましたが舅の計略で姉のレアと結婚させられてしまったのです。そして7年後やっとラケルとも結婚できました。ところがレアには子供が授かりますがラケルには子供が授かりません。そんな時やっと生まれたのがヨセフでした。又この最愛のラケルはヨセフの弟のベニヤミンを産んだ後亡くなります。そのためヤコブはことのほかヨセフを可愛がったのです。

 しかしここで大事なことは子供が出来なくてやっとできることは神様の恵みであり、神様のご計画の子どもであることが多いということです。

アブラハムの息子イサクがそうです。サムエル記のサムエル、バプテスマのヨハネそれぞれ事情は違いますができないと思っていたのに神によって身籠った人たちです。

これらの例が語るようにヨセフは神から特別な使命を帯びた子供であったのです。

≪ヨセフの夢≫

 4節で兄たちが「ヨセフを憎み、穏やかに話すことも出来なかった。」と書かれています。そして7節でとんでもないことをヨセフが兄たちに言います、「畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました。」ととんでもないことを言いました。兄が怒るのは当然です。ヨセフの束が真っ直ぐに立ち兄達の束がヨセフにひれ伏す象徴的な夢だったからです。ですがこれはヨセフの作り話ではありません。神がヨセフにお見せになった夢です。なぜこのような夢をお見せになったのか?私はこれからヨセフに降りかかる災難の時にヨセフがこの夢を思い出し何れ兄たちがヨセフにひれ伏すようにされる神のご計画を思い、耐え得る力とされたと思うのです。

ところが今度は9節10節になってまたまたとんでもない夢を見てそれを兄達だけでなく、父にも告げるのです。どんな夢かと申しますと9節 ヨセフはまた別の夢を見て、それを兄たちに話した。「わたしはまた夢を見ました。太陽と月と十一の星がわたしにひれ伏しているのです。」10節「今度は兄たちだけでなく、父にも話した。父はヨセフを叱って言った。「一体どういうことだ、お前が見たその夢は。わたしもお母さんも兄さんたちも、お前の前に行って、地面にひれ伏すというのか。」当時太陽は父、月は母、星は子どもの比喩として使われていました。これには父であるヤコブもヨセフを叱ります。しかし11節では兄たちはヨセフをねたんだが、父はこのことを心に留めた。と書かれています。これは神を畏れるヤコブはこれがヨセフだけでなく神からの信号でないかと思い心に留めたと考えます。

ヨセフはこの後、父の言いつけで80kmほど離れた場所で羊を放牧している兄たちの様子を見に行きました。ヨセフが来たのを見て兄たちはヨセフを殺そうと図ります。ですが死ぬことなく結果として奴隷としてエジプトに売られてしまうのです。でもそこから主人の夢解きを通して今度は誰も解けなかった王様の夢解きをして宰相、即ち王の次に偉い官僚にまで上り詰めます。このように殺されかかり拾われて奴隷として売られ宰相まで上り詰めたその心の支えは正にこの時の夢を信じてのことではなかったかと想像します。

≪型≫

 ヨセフの生涯は人の目には不幸と映ることが実は神の大きなご計画の出来事であったことを物語の最後に、夢の実現を通して語ります。これは、実はわたしたちに対しても思いもよらない所において、神さまの救い、導きがあることをこの聖書個所は示していると思います。

さて冒頭に私の夢のお話をしました。神様はこんな私のような者にも夢を見せてくださいました。ですから私には神が夢を通して語られることは疑いようがありません。ましてや神が選ばれたユダヤの民にはこの夢の実現と同じことが将来にも起こる預言として示されたのです。

ユダヤ人に与えられた神の歴史観は「歴史は繰り返される」ということです。歴史を型としてとらえ、過去に起こった型は今の現在にも起こる可能性がある。今起こったことは型として将来にも起こる可能性がある。と言うものです。このことは旧約を読むときは大切です。ヨセフが見た夢はエジプトの宰相となった時点で起こりました。この型がヨセフ以降の将来に起こるとするならばこの型は何の型でしょうか?

これこそが主イエスの型なのです。兄弟によって殺されかかったヨセフによってイスラエルの民は飢饉から救われたのです。同じくイスラエルの民が殺した主イェスによって世界の人々に救いが来ました。

モーセもイサクもヨシュアもイエスの型と言われています。ですがヨセフこそは主イエスの型として実に多くが似通っています。それは”磴飽Δ気譴得犬泙譴討たこと。兄弟に嫌われたこと(主イエスは兄弟であるユダヤの民に嫌われ十字架につけられました)。J瓩蕕錣譴凌箸砲覆辰燭海函ぞ来の夢を解き語ったこと(キリストは天の国に就いて語られた)。セΔ気譴茲Δ箸靴燭海函淵リストは殺され復活されました)。κや奴隷、方や死刑囚と言う最低の位置から立ち返ったこと。Ш埜紊浪Δ亮,琉未砲泙任覆辰燭海函等です。神の完全数7の数字による類似です。

≪神の計画≫

今迄申し上げたようにヨセフの型は主イエスにおいて実現しました。それは主イエスこそ神のご計画による救い主であることを証明する出来事でした。そのご計画により現れて下さった主イエスは今度は何を夢として私たちに示されたか、それが再臨とそれによる神の国であります。主イエスは公生涯に入って何を言われたかと申しますと「悔い改めよ。天の国は近づいた」であります(マタイ4:17)。又復活して40日間現れてくださいましたが結局のところ何を語られたかというと使徒言行録1:3には「40日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」と書かれています。主イエスは神の国について話されたのです。

 皆さん、このように神のご計画は旧約聖書の時代より今に至るまで確実に進行し、今は主イエスの再臨と神の国の到来を待つ時であります。1400年間に約40人の人々によって書かれた聖書が、統一した内容であることは驚くべきことです。カトリックの来住(きし)英俊司祭はその著書「キリスト教は役に立つか」の中でこのように言っておられます。「キリスト教信仰に生きるとは、正しい教えに従い、立派な人物の模範に倣うことではない、キリスト教信仰を生きるとは、人となった神、イエス・キリストと、人生の悩み・喜び・疑問を語り合いながらともに旅路を歩むことである。その旅路の終着点は、「神の国」と呼ばれる。」このように語っておられます。実に的確な言葉だと思います。

神の栄光が全地に満ち、聖書に書かれていることが事実なら、その神に背いてどうして神の国に入ることが出来るでしょう。神と和解しなければなりません。

最後にローマの信徒への手紙6:23を読みます。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストによる永遠の命なのです。」神の国に入ることが永遠の命なのです。

主イエスはすべての人が神の国に入れるようにご自分の命を十字架に掛けてまで道を付けてくださったのです。この主イエスの言葉を信じ、ここにおられる皆さんが、また私たちの愛する全ての人が、世界のすべての人が、神の国に入っていただきたく主イエスを受け入れられますようにお勧めし終わります。