創世記45章1〜8節 「神が主語となる」

石井和典牧師

苦しみと身分の変化

 予想もしなかった苦しみと、身分が変化するような大きなことが起こった時、特にとても低くされたと感じる時、神の業が起こるのだと信じ感謝してください。苦しみを通してでなければ、罪の力から人間が救い出されることはありません。苦しみの中でないと人は神を求めないからです。使徒パウロは言いました。

 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて神があなたがたに望んでおられることです。(テサロニケ第一5:16)

 楽しい時、嬉しい時に喜びなさいではありません。「いつも」喜んでいなさい、なのです。苦しい時にも喜んでいなさい。不当な扱いを受けているときにも。卑しめられていたとしても喜びなさい、なぜなら、キリストがそう望んでおられるから。特に、試練にあっている時に、その時に人は悔い改め。自分の力の無力さを知り、神の前に跪くのです。その時に救われる。神の業が起こり始めます。だから、信じるものにとって苦しみは神の業が起こる入り口なのです。

幼い時に落とされる

 幼い時に負った傷というのは、相当長く尾を引きます。最も信頼できる存在から裏切られたら、なおさらです。創世記に登場しますヨセフは、幼い時に恐ろしいほど深いキズを負った人でありました。兄弟に捨てられ、商人によって売り飛ばされてしまうという経験をした人です。

 傷を負ってしまうと人はどうなるでしょうか。多くの場合、その傷が恨みへと変化します。ずっと傷つけた人の事を思い。その人に縛り付けられて、心の自由を失います。心の自由を失えば、神さまへの思いもどこかに飛んでしまいます。やがて悪い霊に支配され、自分自身の心がコントロールできなくなる。自制を失うのです。するとどうなるでしょうか。人に対していつもやいばを持ち、傷つける人になります。

 ヨセフには恨みの心が全く無かったとは言えないと思いますが、彼の人生の中に神が介入して来てくださることによって、彼は主に守られた歩みをすることができました。

 主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。(創39:2)

 ポティファルというエジプトの侍従長に仕えることになりました。エジプトに売渡された。けれども、ヨセフは新しい道を開いていきます。最後にはエジプトの宰相、すなわち日本で言えば総理大臣のポストにまで上り詰めます。人はヨセフを落としたけれども、神は彼を上げられたのです。

 奴隷として売られてきたものが、そのような立場に立つということはありえないことです。主にとってはそれは不可能ではない。イエス様も言われました。

 人間にはできないことも、神にはできる。(ルカ18:27)

 だから、落とされて惨めだなと感じる時こそが、主によって新たに立てられて、昇るチャンスであるということに気づいてください。主は低くし、また高く上げるお方です。ハンナの祈りを思い起こしてください。

 驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。主は何事も知っておられる神/人の行いが正されずに済むであろうか。勇士は弓を折られるが/よろめく者は力を帯びる。食べ飽きている者はパンのために雇われ/飢えている者は再び飢えることがない。子のない女は七人の子を産み/多くの子を持つ女は衰える。主は命を絶ち、また命を与え/陰府に下し、また引き上げてくださる。主は貧しくし、また富ませ/低くし、また高めてくださる。(サム上2:3−7)

恨みを捨てよ

 ですから、どうか皆さん、相手への恨みを今捨ててください。恨みに執着しているうちは、神を遠ざける結末を生むことになります。心が神ではなくて、人に縛り付けられます。人を憎めば、神様が準備してくださっている祝福を遠ざける結末を招くことになります。

 ヨセフは恨みにしばられる生活はしませんでした。ただ、日々の生活の中に主の御手を見ていました。だから、主はヨセフを守り、ヨセフにポティファルの家の管理をおまかせになられたのです。ポティファルの家はエジプトの異教の中にあった家です。全能の神はすべての人の神です。どんな環境や状況に追い込まれても、神さまはここにおられないんじゃないかと思う環境であったとしても、助けることができるのです。

 環境や状況は問題ではありません。主を求めるかどうか。主の視線を意識しているかどうかです。

監獄の中にいても

 ヨセフは監獄の中にいても大丈夫でした。

 しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手にゆだね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった。(サム上39:21)

 ヨセフを陥れようとするポティファルの妻もいます。しかし、ヨセフを見初めて、ヨセフに信頼する人も現れます。人は人に左右されますが、人に左右されない生き方というのは、主が共におられることをいつも信じる生き方です。

与えられた賜物が花咲く

 やがて与えられた賜物が花咲く日が来ます。夢を解釈できるということがヨセフの賜物でありました。夢に関することが原因で兄弟に恨まれたのですが、しかし、夢を介してヨセフは宰相に上り詰めていきます。

 総理大臣になるのに、夢を解釈する力がはたして関係あるかどうか。そこに因果関係を見出すことはできないかもしれません。物語を読み進めていけば、ああそうかとわかります。しかし、自分の賜物がこのように用いられるなどということは、ヨセフには全くわからなかったことです。皆様に与えられている賜物に目を向けてください。祈ってください。心の奥深くに沈潜して、自分に主から与えられている能力や賜物とは一体なんだろうか思い巡らしてください。皆様の賜物が大いに用いられるその日が来るはずです。それまで、祈りの中に自分自身を置いてください。祈りの中でどうその賜物を用いるべきか示されます。

計画の中での賜物

 ヨセフの人生を御覧いただければ、わかります。神さまにはご計画がおありなのです。エジプトにイスラエルを導いて、エジプトにおいてイスラエルの民が増え広がるということが、あのアブラハムに約束されていたことが実現するその道を、実現されるのです。誰も想像していなかった、エジプトという国においてアブラハム契約を実現しようとされておられるのです。神の計画の中で、ヨセフの賜物が用いられていきます。

 カナンの地が与えられるという約束と、民が増え広がるという約束。アブラハム契約を見ますと、これら2つは分けて考えれないように結びついているように思えます。カナンの地から離れてしまっては、民が増え広がるという約束は実現されないのではないかと思うものです。しかし、主は、驚くべきことに、誰も想像もしなかったエジプトにおいて、イスラエルの民が増えるというご計画を持っておられたのです。

エジプトの計画

 エジプトに移住した時の人数は何人ですか?約70人です。イスラエルの民がエジプトを出た時は何人だと思いますか。男性だけで60万人です。女性と子どもも合わせると200万人ぐらいです。70人が200万人になりました。400年の間の出来事です。400年で70人から200万人になるためには、少なくともひと家族から12人の子どもが生まれ続けなければ実現し得ない数字です。考えられますか、常に12人以上の子どもたちが。。。神さまが約束された言葉が、エジプトという想像だにしなかった場所で実現していました。神さまは、ヨセフのひいおじいさんであるアブラハムに言われました。

 あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数え切れないであろう。(創13:16)

 確かに実現しました。主の言葉は想像できない仕方で実現します。

エジプトの宰相と、小さな家族

 エジプトの宰相となったヨセフと、カナンに飢饉が起き、食糧に事欠き大国の庇護の下で守られないと生きていけない、イスラエルの家族。ついに、ヨセフは自分を捨てた家族と対面する日が来ました。

 ヨセフは気付かないふりをして、色々、兄弟たちに注文をします。ヨセフは出世して総理大臣になっている。ヨセフの方が圧倒的に強い立場にありましたので、ヨセフの思いのままでした。ヨセフが小さな時に見た夢そのものの光景が繰り広げられたわけです。

 聞いてください。わたしはこんな夢を見ました。畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました。(創世記37:6)

 神さまがお見せになった夢がその通り実現いたしました。

 一度目はヤコブの次男であるシメオンを置いて帰らせ、シメオンを返してほしくば、末の弟であるベニヤミンを連れてこいという命令をだします。この時、末の弟はヨセフのようにヤコブに特別に可愛がられていて、エジプトには兄弟たちと一緒に行きませんでした。もう一度エジプトに行き、捕らえられたシメオンを連れ帰るためには、末っ子のベニヤミンを連れていかなければなりませんでした。

 飢饉もひどくなり、どうにもならない状況となり、どうしてもエジプトの穀物が必要だということで、ヤコブは渋々末っ子ベニヤミンがエジプトに行くことを許可します。

 しかし、エジプトから帰る時ベニヤミンの袋にヨセフの杯が入っていました。これはヨセフ自身が仕込んだことでした。濡れ衣を着せて捕らえたわけです。かつて自分が不当に捕らえられて、穴に落とされたことを兄弟に思い出させるためです。イスラエルの兄弟が弁明のために皆ヨセフの前に立つことになりました。

 しかし、その時にこそ、兄弟がまことにヨセフを穴に落としたことを悔い改めて謙遜になっているということがヨセフに明らかに示されるのです。ユダという四番目の子どもが、「自らが犠牲になってもかまわない」という内容のことをいいはじめたからです。

 いやそれ以前にも、ことあるごとにこの兄弟は悔い改めの言葉を口にしています。

 「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかかった。」(創42:21)

 人の人生が前に進み出す時って、このように悔い改めによって謙遜にさせられている時です。悪さをした本人だけじゃなくて、その被害者であるヨセフもこの兄弟の謙遜さによって人生が前に進み出すことを体験するのです。神さまが嫌われるのは傲慢さ、高ぶりです。そういう人を神さまはお用いになりません。しかし、謙遜にさせられて自らの責任や罪を自らに問い始める時、人生が前に進みはじめます。

犠牲によって

 皆の幸いを願って、自分が犠牲になっても構わないとまで思うユダの存在。彼の影響力が驚くほど高められた。神さまがユダを用いられました。ユダの犠牲が、ヨセフと兄弟との和解を達成させました。犠牲によって和解が成ります。

 主イエスが私たちに、真の愛を指し示してくださいました。その愛というのは、御自分を犠牲にして、御自分を捧げるという、犠牲の愛です。犠牲がなければ、私たちは立ち返ることはできませんでした。

 犠牲をささげるということが、旧約聖書にずっと流れているテーマであります。なぜ律法にあれだけ多くの犠牲の献げ物がでてくるのか、それはイスラエル民族を主が教育されるためです。主イエスに気付くことができるように。主イエスがささげた愛がどれだけすばらしいものか気付くことができるように。常に、神の前で罪を犯し、その犠牲をささげないかぎり、主に喜ばれることはない。

 犠牲の羊の血を流すことでユダヤ人は学び続けてきました。

 その律法が授けられるまえに、すでに、この創世記の終盤に、赦しと和解、犠牲の話が出てくるわけです。ユダの犠牲がなければなりませんでした。犠牲というテーマは、徹底して貫かれている。旧約にも新約にも。

 自分の身をさいても、自分を殺されても、あの人を守りたい。それが真の愛であり。主イエスご自身です。

ヨセフに根付いた真の信仰

 ヨセフには真の信仰が息づいていました。大きな視野が彼には見えていました。霊的な視野です。神さまが見ておられるものです。

 神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。(創45:7)

 実はこれまでの出来事というのは、兄弟の争いの出来事というよりも、神が先導されて、神が導かれて、神が私たちをこのエジプトに導くためであったのだ。そのことを見る視野をヨセフは与えられています。神が主語になっていく時、恨みや憎しみが心の中心ではなくなります。

 

 和解する、赦す、犠牲を払う、恨みを捨てる、悲しみを捨てる。ということは極めて信仰にとって重要なことです。

 わたしたちが神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それは嘘をついているのであり、真理を行ってはいません。(第一ヨハネ1:6)

 「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。(第一ヨハネ2:9)

 まず大事なのは救われて自分が神の計画の中にあり、自分の人生は実は主が主導してくださっていて、全ての主語は主であるということを知り、信じること。ここからスタートすることが先決です。ヨセフの生涯に恨みが満ちていないのは、彼はどんな場所に置かれても、主が共におられたことを彼自身が認識していたからです。

 主が共におられると認識するということはどいうことかというと、主と交わりを持っているということです。

 主との交わりは、私たちにとってはなんですか、それは祈るということです。

 主語が主になると、今まで見えていなかったものが見えてきます。大きな視野に立てます。呪いのできごとが祝福の出来事に変化します。赦せなかった人を赦すことができるようになります。

 神の大きな視野の中で生きるときに、その人は全く変わります。主が主語となれば、全く人生が変わります。このヨセフに与えられた信仰にあずかれるように、今日この時から人生が変わるように。皆様を祝福いたします。アーメン。