出エジプト記 2章1〜10節 「解放者」

約束が成る

 神の約束の言葉は必ず成就します。信仰の父、アブラハムへの約束が実現しました。

 あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数え切れないであろう。(創13:16)

 はじめ70人でエジプトへ移り住んだのがイスラエルの民です。エジプトを出るときには、200万人になっていました。400年の間に70人から200万人に成長するためには、一つの家族に12人以上の子どもが生まれ続けなければなりませんでした。現代的感覚から考えると不可能な気がしますが、神さまはそれを成し遂げられました。約束どおり、イスラエルの民を増やしてくださいました。しかも、予想もしていなかったエジプトという地においてです。

 カナンを与えるよ、そして増えるよ。と、神さまから約束されたら、まずはカナンで定住して増え広がると思うのですが。そうではなかった、まずはエジプトで増えるというのが、神さまのご計画でありました。

 驚くべきご計画です。神さまは、今ある状態から、その環境、賜物、能力、すべて動員して、不思議な業を人間にしてくださるのです。

使命を求める人は

 自分に与えられた使命とはなんでしょうか。そのような問いを持っておられる方がおられます。主の前に行って、自分を主に捧げようとしているから、そういう問いがでてきます。主はその方を御覧になられ、お喜びくださっているはずです。

 使命について思うかたに方にまず見ていただきたいのは、自分のこれまでの人生です。自分に与えられている賜物は何かと深く沈潜して、自問自答と祈りの時を持っていただきたいと思います。旧約の民を見てきました。特に先週はヨセフを見ました。ヨセフの賜物は夢を解く力でした。彼はそれがどのように用いられるのかわかりませんでしたが、その賜物によってやがてエジプトの総理大臣にまで上り詰めました。

 今までの人生と全く無関係に賜物が与えられ、使命というものが与えられるということではないということが、彼の生涯を見ていてわかります。だから皆様のこれまでの人生を用いて、賜物をつかって、想像もしなかった驚くべきことをなさる。

 自分の賜物を自分で認識しながら、しかし、これを神が用いられて不思議な業がなされる。思いもしなかった状態に導かれて、人生が全く変化してしまう。そういう歩みを主はお与えになられます。祈って、深く自分自身の心に沈潜して、祈り続けてください。使命を受け取ってください。

イスラエルの民が思っても見ないところで、思っても見なかった発展を遂げる。しかも、そのために、イスラエルの家族の賜物が大いに用いられた。

時代は変わり変化の時

 エジプトで豊かな生活をしていたイスラエルです。しかし、突然奴隷の身分になります。なぜかというと、記されています。

 ヨセフのことを知らない新しい王が出て(出エジ1:8)

 エジプトが飢饉から辛くも逃れ生き延びることができたのは、すべてヨセフのおかげでした。ヨセフがいなければエジプトは滅んでいたかもしれない。だから、ヨセフへの恩を抱いている人がいる時代は、イスラエルの民をエジプトから追い出すなどといことはエジプトにとって自殺行為であると分かっていたのです。彼らがいるからこそ、神からの言葉をいただけて、エジプトは救われるのであると。

 しかし、ヨセフのことを忘れていくうちに、恩も忘れ、というよりもなぜイスラエルの民と一緒に生活しなければならないのだという疑問も出てきたに違いないのです。

 イスラエルの民のことをヘブライ人とも言いますが、ヘブライ人は次々と子を産み、祝福され、溢れていった。だから、エジプトの民にとっては脅威であったのです。ファラオは国民に言います。

 イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。(出エジ1:9)

 イスラエルの民はエジプトを侵略することなどないわけです。彼らに与えられた土地はカナンだからです。エジプト人にとってイスラエルの存在は彼らの話をちゃんと聞いていたならば全く恐れる必要のないもの。いや、むしろイスラエルを通して神からの守りをいただけるのですから、敵というよりもむしろ仲間、救いの器。しかし、エジプトの王は神さまを見上げることができなかった。だから、イスラエルの民を敵だと思ったのです。

 敵で無いものを敵とし、敵とすべきものを敵とすることができない。信仰に生きる歩みをとめるとこのような人生になります。戦うべきものと戦うことができず、戦わなくてもいいものと戦って人生をすり減らすのです。それが神を捨てた罪人の姿です。神を讃美し、崇め、神の光がその顔に輝く人、目が輝いている人。そうではなくて、恨みや疑い、ねたみそねみ、そういったもので心が支配されてしまう人。

 主に導かれた民は、主の前に讃美する人として生きるべきです。

神のこころ

 エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した。(出エジ1:11)

 虐待することは、どんな理由があれ神の御心ではありません。神はむしろ弱い立場にある人を味方されます。

 あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。…彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きをすべて祝福してくださる。(申15:7〜11)

 神の御心を求めるものは、貧しいものに分け与える。しかし、財は減るどころか、さらに祝福されるというのです。御心は必ず成なります。だから、弱い立場にあるイスラエルの民をエジプトの民は大事にすれば、それをもってさらに主はエジプトを祝福してくださったはずです。

 しかし、エジプトは、力で上から弱いイスラエルを押さえつけたのです。

 しかし、虐待されればされるほど彼らは増え広がったので、(出エジ1:12)

 と記されています。主は弱いものが虐待されればされるほどに、その民に目を留められるのです。しかし、さらにエジプト人はイスラエルを過酷な労働に就かせました。

悪は悪を生み、膨れ上がって行く

 悪は悪を生み出します。悪を放置しておくと、その腐敗が全体に広がります。恐ろしい結末を生み出します。どんな社会であれ、生まれたばかりの子どもが殺されるという社会は、最低最悪な社会です。最低なことが行われました。主の御心に反すると、転げ落ちるように、悪から悪の連鎖を生み出すのです。

 本当は転げ落ちる前に、主に立ち返るのが一番です。信仰生活はとにかくはじめが重要です。はじめに、主により頼むのか、祈りによってはじめるのか。早天礼拝の重要性は驚くほどに大きいです。早天礼拝に来られなかったとしても、一日のはじめを御言葉と祈りで実際にはじめてください。善は善を生み出し、悪は悪を生み出します。人間における最善は、自分が強くなって誰かを力のもとに置いて圧力をかけることではない。

 自分が弱くされることです。自分が、主の前に跪くことです。神の前にペシャンコになって主にすがることです。

主の助けあり

 エジプト王はヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった。「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子どもの性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」(出エジ1:16)

 しかし、主は御心どおりに助けを送ってくださいました。

 助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。(出エジ1:17)

 神を畏れるならばできることとできないことがあります。命は神が生み出され、神の似姿に造られている。神への信仰があれば、あるほどに、その命の尊さへと目が開かれる。生まれたばかりの子どもを、イスラエルの民が恐ろしいという理由によって殺すことなどできない。

 まことの信仰者の姿。右の人、左の人が何と言おうとも、私は神に聞く。神のお命じはなんなのかに従う。ただただ主に従います。こういう心こそが全能の神への信仰です。

 助産婦はファラオさえも恐れていません。当時のエジプトにおいては生殺与奪の権、あらゆる力を有していたファラオに彼らは楯突くでもなく、とにかく主が願われていることを実現するために、恐れずに、神から知恵を与えられて坦々と述べています。

 「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」(出エジ1:19)

 絶妙ですよね。嘘ではないんです。嘘をついたら、義なる神の御心に反します。事実を彼女たちは述べているのです。神さまはこの幼い命を守った助産婦を祝福し、この女性たちにも子宝を恵まれました。

神の時あり

 ファラオは、さらにエジプト全土に命令を出しました。

 「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」(出エジ1:22)

 イスラエルの民にとっては、男の子が皆殺しにされてしまうということは、自分たちの民族としての、家族としての未来が絶たれてしまう、そんな思いにさせられる時であったに違いない。しかし、この最悪の時にこそモーセという解放者が民の中から出てくる時なのです。前回の礼拝で申し上げたように、苦しみの時、悲しみの時、身分が変化し、特に蔑まれた、低くされたと感じる時に、主の業がはじまるのです。

 神は常に時を見計らっておられます。人々の罪がつもり重なり、時となり。またそこに主の民がいることによってそれがベストのタイミングとなり、新しい業が起こる。

 ソロモンが記したコヘレトの言葉にこのような言葉があります。

 何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。(コヘレト3:1)

 悲しみの声が、叫びが、嘆きが、主に向かって祈り響く時、その声に答えて主は解放者を与えてくださるのです。主イエスがお生まれになられたときも、ヘロデ王によって子どもたちの大虐殺が行われた時でありました。しかし、その時にこそ人々の心から救いを求める祈りが響き渡り、メシアがお誕生なさいました。もうダメだと皆が思う時こそ、主の時が満ち、主の業が行われる時だと信じてください。

 苦難は神を叫び求めなさいという神さまからのサインです。もしイスラエルの民が奴隷じゃなくて豊かな生活をしていたら、出エジプトの歴史は起こらなかったかもしれない。エジプトで豊かな生活をしていたら神を探し求めていたでしょうか。

契約関係の重要さ

 イスラエルの民が神に叫んだとき、神はその叫びを聞いてくださいました。神は彼らの先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブと結んだ契約を覚えておられるからです。神さまと約束を交わす関係、契約関係に入るということが重要なのです。

 クリスチャンは洗礼を受ける時にすでに主の前に、自分の信仰を告白し、これを守り続けることを約束しています。また本日も共に使徒信条、日本キリスト教団信仰告白を告白しましました。古代から受け継いできた信仰を告白しています。洗礼を受けた時、三位一体の、父、子、聖霊なる神を信じると告白しています。全能の父を信じ、救い主なるキリストを信じ、キリストの霊が皆様の心に宿る、聖霊の宮となるということを信じると約束しています。

 旧約聖書の中で約束する、契約関係に入るということは、「命をかけてそれを守り続ける」という事を意味します。もしそれが破られたら死んでその償いをするということです。約束をするということは厳しいものでありました。それだけに、契約というものは価値の高い、重い、大切なものとして扱われてきました。

 なぜならここに人生のすべてがかかっているからです。

 主に信仰を告白するといことに人生の全てがかかっているからです。命をかけて信仰を告白し、約束をするものを主は何があっても絶対に、決して見捨てることは無い。そうハッキリと言うことができる。

 イスラエルの民が叫び声をあげれば神はその声に聞いて、解放者モーセをお送りになった。神は叫び声に例外なく必ずお応えくださる。主との関係を第一にするものに。

 しかも不思議な方法で応えてくださる。

 敵であるファラオのもとでモーセは育てられる。不思議です。王女によって拾われて、拾われた先では実の母親が乳母として用いられる。不思議で仕方ありません。しかし、これこそが主の驚くべき恵みの業です。こうやって、神さまは私たちに見せてくださるのです。神は全能の御手を動かしてあなたを救うのだと。

 荒野の40年の歩みが解放者モーセによってはじめられます。イスラエルにとって約束は命がけだと言いました。しかし、その約束を信じきれないのがまたイスラエルの民でもあります。全能の神を信じきれないのです。

 だから、恐れにとらわれ目の前の敵が強そうであれば、その強さに心奪われて、全能の神の守りを疑う。全能の神よりも、制限のある人間の方をおそれる。契約関係にあるのに、神がおられるのを忘れる。

 しかし、それでも神は民をすぐには滅ぼされないのです。度々立ち返る道をご準備くださいます。皆が救われるように、終わりの時は伸ばされ伸ばされ、延期され延期され、現在に至っている。神が立ち返るのを、その時を待っておられるからです。

 どうか、主イエスを信じ、信仰によって神の国に入れられるという福音が耳に届いているうちに、主に聞いて従う道に入って行きたいと思います。

 何年も神の憐れみが注がれ続けておられます。最終的な裁きの時は必ず来ます。しかし、その時が来るまえに、主の前に信仰を告白し、跪き、主が王であることを認めて、その御方に実際に守っていただく歩みをはじめてください。

 主イエスが、神の怒りをご自身に完全に受け止めてくださったこと。十字架の御業この福音が聞こえているうちに、全能の御手を体験しながら歩んでいくことができるように。皆様を祝福いたします。アーメン。