出エジプト記3章1〜12節 「叫びを聞き、痛みを知る」

石井 和典牧師

見ておられる

 神は、悪人も善人も、主を信頼している人も、そうでない人も。すべての人を見ておられ、見ておられるからこそ、それぞれに適切な働きかけをしてくださっています。

 神を知ってから、「見られている」存在となった。これが主キリストの福音からいただく恵みの一つ。主がどういうお方かを知ることにより、私たちの考えが変わり、行動が変わり、人生が変わっていきます。すべての変化の源は、「主を知る」ということです。

 宗教改革者カルバンが書いた「ジュネーブ教会信仰問答」の問一には、「人生の主な目的は何ですか。」とあり、答えは「神を知ることであります。」と記されています。

 教会に導かれて、これを知ることが出来たのは絶大なる恵みです。人生が変わってしまうからです。

 神を知ることが人生の目的。神を知ると、人は救われる。神を知ると人は変わる。神を知ると、キリストに似たものに変えられていく。神を知ると、神の働きを体験するようになる。神を知ると、目が開かれて今まで視野に入っていなかったものがみえるようになる。おびただしいほどに、「神を知ると、、、」という言葉は続けることができる。まさに人生そのものです。

 教会を通して経験できることのすべてが「神を知る」ということと関係が深くあります。

心のはからい

 旧約聖書の詩編139篇に次のような言葉があります。

 主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じておられる。(詩編139:1−2)

 今日、起きてから何回、座り、何回立ったでしょうか。わかりません。。。自分が忘れてしまっていることもすべて、主は見ておられる。心の中で計ったこともすべて知っておられる。だから、キリストはこのようなおすすめをされたのです。

 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。(マタイ6:6)

 人に見せるために祈ったか、人に見せるために奉仕したか、人にみせるために語ったか、自らを誇るために信仰的な態度をとったか、人に見せるために善人を装ったか。これらすべては、心の計らいを知っている主には全部見えている。

 このような神の姿を知ると、恐ろしくて主の前に立てなくなる。なぜなら、明らかに神を崇めるということよりも、自分が崇められるように。自分が人からほめられるように、自分が楽をできるように、自分が被害を受けないように、常にすべての価値基準が自分に向かっていたことを発見せざるを得なくなるし、自分のために神への信仰心さえ使って、見栄えの良い自分を装う自分に気付くから。すべてを見ておられる主に気付いたら、もう跪き、主の赦しを乞うしかなくなります。

モーセの人生

 モーセの人生は「主が見ていてくださる」ことを気付かせるわかりやすい話なのです。私たちはここから学ばなければなりません。生まれる前から主が見ておられたんだということを。モーセは生まれる前から、主が守っていてくださいました。主はエジプトの敬虔な信仰のある助産師を立て、ファラオよりも全能の神を畏れる心を助産師に与え、この人を通してモーセの命が守られていきます。敬虔な助産師がいなかったらモーセの命はない。生まれる前から守られていたのです。

 モーセの命を助けるために親御さんたちは、最後の決断、とばかりにナイル川に子どもを流して、わざとファラオの娘に拾わせるようにする。歴史に「もしも」はありませんが、「もしも」全然目にとまらずただただ流されるだけだったらどうだったでしょうか。川は、子どもが命を落とす場所です。最も危険な場所です。主の守りが無かったら、モーセの命があったかどうかわかりません。

 しかし、ベストタイミングで王女はモーセを拾い上げるのです。

 さらいえば、王女がひどい人格の人だったら、王女ということでのぼせあげて、奴隷であるヘブライ人の子どもを育てるなんて、高貴な私には考えられませんなどと言っていたら、モーセの命は無かった。すぐに、ファラオの手に渡されます。ファラオはヘブライ人の子どもを次々と殺していました。

 しかし、ベストタイミングなのです。主が見ているからです。起き上がるのも、座るのも見ているから、こういうことがおできになるのです。

40年の王宮生活

 モーセは40年間、王宮で生活していたと言われています。しかし、ある時、自分と同じヘブライ人がエジプト人に打たれてひどい仕打ちを受けている姿を見て、義憤に燃えます。奴隷、弱い立場にあるものを思いのままにしている不義なる状況を見過ごしに出来きなかった。エジプト人に殴りかかり、打ち殺してしまいました。

 豊かな王宮生活をしていたモーセのどこに義憤に燃え上がり、虐げられている人をほおっておけないという思いが眠っていたのか。というぐらいに、驚くべき行動に出てしまったのでした。これを通して、自分がヘブライ人であり、ヘブライ人に対する特別な思いに生きていること、さらに言うのならば、自分が必ず人生を通して実現しなければならないことに気付かされたとも言える。後になって気付くのですが、もう神による布石は置かれていたと言ってよろしいでしょう。

 この時、殺人を犯して逃げ惑わなければならなかったので、この時には自分の使命には気付いてはいませんが、不義に対する義憤に怒り狂う自分の姿。王宮で生活していたことをすべて捨てても、それでもヘブライ人を助けてしまった自分の姿。もうこの姿から将来のモーセの姿がおぼろげながら見えてきます。彼の使命がどこにあるのか、示されていました。

 もちろん、不義を行ったモーセは裁きを受けなければならない。40年間、王宮での生活を捨て、荒野で生活をしなければならなかった。羊飼いの生活は貧しかった。しかし、この40年間の生活で、彼の柔和さと謙遜さは磨かれ、民の導き手として、特に神への執り成し手として大いに主に用いられることになった。

 この40年間の隠居生活がなければ、彼の鼻は高いままだったかもしれない。王の子として生活する恵みを経験し、底辺とも言うべき荒野での生活も経験し、さらにエジプトの荒野を導くものとして、その周辺の知識もよく獲得し、すべてモーセが経験したことが、生かされ使われ、解放者として必要なものを80年という年月の中で培われて、そして、やっと80年の時を経て、神は80歳のモーセに召命を与えられたのです。

 座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。(詩編139)

思いがけない

 神の召命というのはいつも思いがけない方法で、あっと驚くような方法で、想像もしていなかった出来事を通して与えられます。神の働きをされている方は、よく言います。「こういう働きをするなど考えてもいなかった」と。人間が考えつきもしないような方法で神は導きを与えられるのです。モーセにとってミディアンでの隠居生活は、はじめは惨めなものだったに違いない。人を殺してしまって、自責の念に潰されそうになりながら、必死に自分のこれまでのことを隠しつつ、人からの信頼を得るために日々の仕事に勤しむ。信頼を得、家族得、やっと生活も落ち着いて来たと思った。

 その時、神からまた生き方を全く変えよとのお達しが届くのです。

人生は旅路

 人生は旅路です。神のもとに到達するまで、次から次へと思いもよらないことが起こる冒険の旅路です。アブラハムにおいて起こったことは、私たちにも起こる。故郷を捨て、神が示す土地に行きなさいと突然言われる。あなたを祝福し、あなたを通じて祝福を受けるひとが現れるからという言葉を携えて。しかし、自分が住み慣れていた場所は離れなければならない。安住の地だと決めた場所に定住できない。

 神の国に生まれ出るその時まで、成長と旅立ちの日々。住み慣れていたところから抜け出す。このイメージというのは、ただ場所のことだけを言っているのではありません。冒頭で触れました。神を知る。ということ。これこそ、冒険以外のなにものでもないことを知ってください。自分の殻を破り続けなければならない。

 今まで神が見ているということを知らないで、好き放題やってきた人が、これを心の底から受け止めて、常に主の守りと、主の御手を確信するようになったら、全く違う人生がはじまってしまうのです。全く違う人生はそれこそ冒険そのものです。主を知るということは冒険なのです。新しいはじまりです。

80歳から冒険

 80歳からの冒険です。80歳から冒険などさせるな。というおしかりをいただきそうですが。神さまがそれをモーセに実際にさせたんですから。私たちが見ていない神さまの姿がここにもあります。

 神さまを知ってください。

 80歳から新しいことをさせるのが神です。そんな無茶な。。。と言わないでください。

 あのモーセの人生ははじめから無茶ばっかりじゃないですか。そもそも、私たちが生かされて守られてきたのは、はじめから無茶ばっかりです。科学者に言わせると、今わたしがわたしとしてこの世に生まれ出る確率は4兆分の1というような奇跡らしいです。

80歳のモーセに神が見せるもの

 80歳のモーセに神が見せたものが、また面白いです。燃える柴を見せました。しかし、燃え尽きないのです。柴は普通に考えたら、一度ボワッと燃え上がって、キャンプとかで火をつけるのに非常に役立って、楽しい嬉しい道具ですが。あれ一瞬で何処かにいってしまいますよね。消えてしまうというか、燃えカスになってしまう。しかし、その一瞬で燃えカスになってしまうものが、燃えカスにならずに燃え続けている。いや、もしかしたら、もう燃えカスの状態になっているのにまだまだこうこうと燃え続けているのかもしれません。とにかく、燃えるはずもなかろう状態にあるものが燃えて、燃え続けていく。それが神の業なのであると80歳のモーセに神さまはお見せになられたのです。

かつて燃えたけれども、、、

 かつて燃え上がった。あれだけの志をもって、頑張った。ふぅ。もう私の人生には、燃え上がる瞬間なんていらない。燃える気力もない。と思っているその人が、今日この御言葉と出会ってしまったのです。

 見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。(出エジプト3:2)

 心ある方は、悟ってください。なぜこの箇所が残され今あなたが読むように仕向けられたか。時を使って、主がベストのタイミングでこの箇所と出会うようにと思っておられ。聖霊の宮である皆様を、神の炎によって燃え上がらせるためです。皆様は聖霊が宿る宮です。神の神殿です。このモーセに見せられた燃え尽きない炎が宿る宮です。

 あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちのうちに住んでいることを知らないのですか。( コリ3:16)

 かつて皆様が義憤に燃えていたことはなんですか。苦しむ人の姿をみて、このことのために動かなきゃと思ったことはありませんか。モーセは40年前に思ったことを今思いだしているのです。それはモーセのみならず、神さまが感じておられた痛みでした。

 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、(出エジ3:7)

 虐げられ、弱められ、打たれ、犠牲にさせられていたイスラエルの民の叫びを神さまはモーセと共に聞いていて、40年前のあの出来事を思い起こさせるようにして、使命の言葉を与えるのです。

 皆様の心が誰かのために叫んだ経験はおありではないでしょうか。その心を主は燃え上がらせられるのではないでしょうか。本気で人のために涙したことがあるんじゃないでしょうか。その人を皆様を使われて神は救うのではないでしょうか。皆様の内に響く良心の声を聞いて、主にその本心をおささげしてください。主が道を開いてくださいます。

 今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。(出エジプト3:10)

 主イエスは私たちの叫びに耳を傾けてくださり、神を知らないでもがいていた私たちの叫びを聞いてくださいました。絶対的な赦しを十字架であたえてくださいました。皆様の命は天において保証されている。ならば、私たちが叫びを聞いて出ていく時なんじゃないでしょうか。耳が開かれ、行動力があたえられ、御国の世継ぎとしての働きができるように、主の御名により祝福します。アーメン。