出エジプト記12章21〜28節 「過越の祭り」

石井和典牧師

モーセの成長

 モーセを解放のリーダーとして立てるまで、神さまは80年という年月を使ってご準備を進めておられました。モーセが若い時に持った「イスラエルの民をエジプトの抑圧から救いたい」という思いを40年もかけて実現に至らしめられました。次の新約聖書の御言葉を思い起こします。

 愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。(第二ペトロ3:8)

 私たちが普段あまり見ていない神さまの姿が描かれています。恐ろしく長いスパンで物事を見ることができるのが神さまです。しかし、たった一日をも千年のように重いものにおできになるのも神さまです。

 私たちはあまりにも性急に人のことを、自分のことを判断しすぎです。主のご忍耐というのは40年とか80年とかいう次元です。ですから、私たちがなすべきこと、祈りの中で主がいかにお考えであるのか聞くことです。判断はそれからで遅くありません。簡単に自分に人に、失望しないでください。神さまはご計画をお持ちです。40年、80年かけて人を導かれます。

 だからといって神の忍耐に甘えて、慢心してはなりません。神の御心を悟ったならばすぐに動き出さなければなりません。モーセがすぐに神との対話をもち、自分の体を主の御業のために投入していったように、主の御心を悟ったならば、すぐに動きだすべきです。

嫌がるモーセ

 使命を与えられて、すぐに神さまとの対話には入りますが、実際、モーセは使命を実行するのを嫌がるんです。なぜかといえば、自分が行っても人々は話しを聞かないであろうことが容易に予測できたからです。40年も前に殺人のかどで追われてエジプトを出た一人のおじいさんが突然やってきて、民はその言葉に従うのかという疑問です。確かに、普通に考えたら従うはずがありません。「神の声を聞いた」と言っも、「そんなもの幻聴だ」と言われておしまいでしょう。だから、モーセは二の足を踏むわけです。

 ならば、奇跡を行う力を授けようと神さまはおっしゃり、モーセは奇跡行為者となります。どんな奇跡を行うことができたかというと、杖を地面に投げると、杖が蛇になるという奇跡です。確かに、これを見せられた日にはこれは神の力がここにありと言わざるをえない。

 さらに、手を懐にいれると、その手が重い皮膚病になり、もう一回懐にいれると治るという奇跡も行わせてくださると神さまはおっしゃられました。

 それでも、まだまだモーセは「できないできない」と言います。弁が立たないと人々を説得できないということで、無理だと言い出します。すると、兄弟のアロンがモーセのかわりに語る務めを担うということを神さまはご準備くださいます。徹底的に必要を満たしてくださり、準備と計画をもって主はお望みくださったということが分かってきます。

 神さまは私たちの祈りに応え、具体的に計画のための準備を進めてくださるのです。だから、重要なのは、神がなさりたいビジョンを悟り、その実行のために動き出すのであれば、そこには主によってならされた準備が必ずあり。主の思いは確実に実現していくのです。出エジプトにおける主のビジョンというのはどんなものだったか確認しておきましょう。

主のビジョン

 主は言われた。「わたしはエジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。(出エジプト記3:7―10)

 約束の民が、強いものに圧迫されて身動きが取れない状態になっている。その民が自分の声で祈りをささげ、神に叫びを上げている。その叫び声を私は聞くのであるとおっしゃられるわけです。この神さまの憐れみの心、憐れみというのはヘブル語でラハミーム、ラハミームのもとになった言葉はラハム、子宮を意味しています。母親が子を産む時に痛めるそのお腹のこと。母が子を思う思いで民の痛みを自分の痛みとして感じ、そのままにしてはおけないということです。

 神さまに導かれ、キリストのもとに跪く民は約束の民であることを思い起こしてください。契約の民です。キリストの血によって買い取られ、贖われた。約束の民となっています。ただただ信仰によって。約束の民の叫びを神は決して見過ごしにはされない。いや、むしろ全的な信頼をもって、疑いを挟まず、主に信頼し、祈りを捧げるのであれば、その祈りは一つも地に落ちることはない。すべて聞いていただけます。神の義しさをもって応えてくださるのです。

 エジプトで奴隷状態になり、圧倒的な弱者の立場にありながら、なおここから脱するすべを主は与えてくださる。

 それが、主が祈りに応えてくださるということです。何も状況的に動かせないことを動かすことさえできる。だから、叫び祈り求めるべきなんです。出エジプトのイスラエルの民の姿から、学ばなければなりません。イエス様もこのようにおっしゃいました。

 はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。(マルコ11:23、24)

偉大なるお方

 神が偉大なるお方であることを知ってください。エジプト人が絶対的権威であると信じ、王として、神として崇めていた、天候を動かしたり、様々な奇跡を行うことができると信じていた、その強力なファラオの手から、神は弱い一人の人を救うことができる。一人の弱いおじいちゃんをつかって神は、絶対的強者のファラオから、圧倒的弱者を救い出すことがおできになるのです。これが神の全能の力です。この方の力にこそ頼らなければなりません。この方以外に頼ったとしても失望するだけです。

 ファラオを屈服させるために、また、イスラエルを解放するために起こった10の災い。これはエジプトで力あると信じられていた、偶像を徹底的に否定するための神さまの業です。皆、偶像と関連しています。偶像とは神ならぬものを神とすることです。

 クリスチャンは、大きな、地球を、宇宙を、この世界をすべおさめたもう、全能の父なる神を信じております。しかし、クリスチャンもそうでない人も、神さまをとっても小さく、自分の思いのままにしていることが多いものです。偉大なる神さまを自分の心に従って小さく小さくするのが偶像礼拝です。

 神は、私たちの思い通りにならない。偉大なる神に私たちが従うのです。極めることの出来ない方を、この小さな器で少しずつ知っていくにすぎないということを知る必要があります。

 偶像信仰に陥っていると、祈れなくなります。期待できなくなります。というか、やっぱり思い出した時だけ頼り、あとはどうでもよくなります。

10の災い

 エジプトにおける10の災いと偶像とがどう関連しているのかを見ていきたいと思います。神さまは偶像を打つためにこの災いを起こし、偶像には力が無いことを証明なさいました。

 第一の災いは「ナイル川が血に染まる」というものでした。ナイル川は川自体がエジプト人に神として崇められていました。人々を養い、生かし、生み出す、すべてのものの産みの親と考えられていました。この川を一瞬で血に染め、恐ろしくひどい匂いにすることによって、川に力がないことをお見せくださいました。

 第二の災いは「かえる」の災いです。かえるはお腹が出ていて卵が多いので、豊穣の神として崇められていました。そのエジプト人にとって神であるはずのカエルがうじゃうじゃと飛び回って、騒々しく、汚く、ゾッとする光景を神はお見せくださって、これが神でないことを示されたのです。

 それから第三の災いは「ぶよ」です。エジプト人は子牛を神として崇めていました。子牛につく「ぶよ」までも崇めて、仕えました。なんでも神になるんです。しかし、逆にぶよは災いをもたらすものとなりました。

 そして、第四は「あぶ」です。アブは群れでたかっているということが多かったようです。アブの群れが真っ黒に飛び交っている光景をみて、エジプト人はそこに神秘を見出していました。その神秘の力が神的な力を発揮すると信じていました。しかし、あぶの群れが神ではないことを示されました。

 第五の災いは「疫病」です。子牛の伝染病です。エジプト人が熱心に仕えていた子牛の神が、伝染病で次々と倒れて、これが神でないことを神さまがお見せくださいました。

 第六の災いは「腫物」です。ペリシテ人たちはこの腫物をも偶像にしました。金の腫物の置物を造ったという箇所がサムエル記上6章に記されています。

 第七の災いは「ひょう」でした。農作物の実りを期待できる次期に、突然大粒のひょうが降ってきて、全てダメになりました。神はイスラエルの民にこの世の収穫は神の力によって守られ導かれ、与えられているものなのだということを教えられました。

 第八の災いは「いなご」です。恐ろしい数のいなごがそこらじゅうに満ち、農地が荒れ地に変わってしまいます。神の力で守られていなければ、一瞬にしてすべての収穫が無になることをここでも教えられました。人間の農業技術や能力によって、生活は思い通りになるのだという高ぶりを神は打ち砕かれました。

 第九の災いは「やみ」です。エジプト人は太陽神を拝みました。年間を通してエジプトは雨の少ない場所です。ピラミッドの頂上には穴が空いていて、そこから光が差し込んでミイラのある場所まで光が届くようになっています。エジプト人にとって非常に重要な、神として崇められている太陽を神が隠されてしまいました。太陽は神ではないことを全能の神が示されたのでした。

 第十の災いは「初子の死」です。エジプト人はファラオを神として崇めていました。そのファラオの子どもが死ぬということが起こります。これをもって、ファラオが神ではないということを皆が痛感しました。さらに、信じるものにとっても、信じないものにとっても、命の支配者は全能の父なる神であるということが皆に知らしめられました。

 神が初子を打たれるとき、死の使いたちが家々を通り過ぎて、すべての初子を殺しました。悲痛な叫びがそこらじゅうで起こりました。しかし、死の使いは、かもいと門柱に羊の血が塗られたイスラエルの民の家は通り過ぎました。現代のユダヤ人はこの日を覚えて、過ぎ越す祭りという意味の過越の祭りを守っています。

救いの分かれ目

 10の災いは、エジプト人だけに下りました。イスラエルの民は被害を受けることはありませんでした。イスラエルの民は神に選ばれ、救い出されたものです。選ばれた民が、神の言葉を信じて従ったものを完全に救い出してくださいました。何も害を受けることはありませんでした。もしも信じなかったら、初子を打たれて神の裁きを受けることになってしまったことでしょう。

 選ばれた民が信仰に生きるということが、神の裁きから人を救い出す方法であることがわかります。選ばれた民ももしも主の言葉に従順に従わないのであるならば、神の災いが降るのだということも事実です。

 イスラエルの民とエジプトの民が区別されたのは、羊の血を門柱に塗るかどうかというその一つのことでした。この出来事が私たちに指し示しているのは、キリストの十字架、キリストの血の効力です。受難日、イースターはまさにユダヤの人々が過越の祭りを守る次期と重なります。過越の祭りを、エジプトのイスラエル人だけじゃなく、受難日、イースターを通じて、現代の私たちにも行わせてくださっているわけです。

 あなたがたはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。(出エジ12:24)

 神は十字架によって死ぬべき現代の私たちを救われた。この恵みをもう一度味わい悟る必要があります。十字架の血が私たちにとって救いか、滅びかの分かれ目であるということです。キリストの血にあずかるものは確実に救われます。

 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。あなたがたは、「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」のです。( ペトロ2:9―10)

主の裁きを通して見る主の御心

 裁きを通して見えてくるのは、主がどんなことをお嫌いで、私たち人間にどのように生きてほしいかということが見えてきます。主は10の災いを通して、あらゆる偶像礼拝を潰されました。人間がいつの間にか頼りにしていて、力あるように見えてきて、ますます頼りにするために、自分のコントロールできやすいように形にして崇めるもの。これは人間が作り出したものに過ぎない。崇めるべきは人間が作り出したものではなく、人間を造り出されたお方。

 最後の過越しの出来事で見えてくるのは、命と死の支配者は神であるということです。力あるように見えるこの世の力には何の力もなく、目には見えない、全能の父なる神にこそ、権威と力があり、死さえも支配されるということです。この御方の救いにあずかったもの、キリストの血にあずかったものには、永遠の命さえ与えられます。

 旧約聖書全体を読みますと、いかに信じているものが、信じていると言いながら、信じていないかということが見えてきます。目に見えない全能の神ではなくて、目に見える何かに依存して常に物事を左右されているのが見えてくるのです。それは旧約の民のみならず、私たち新約の民においても同じです。同じところで躓いています。

 しかし、それでも神は一人でもここに義なるものがおるのであれば、その共同体を憐れみ、キリストの十字架の血潮の効力を宣言され、赦しを宣言され、こうやって何度も何度も礼拝へと導き返し、見えない主を見るものが起こされることをお待ちになられています。

 自分でつくった神。勝手に思い込んでいる神。小さく小さくしている神。すなわち、偶像を投げ捨てて、真の全能の父なる神に立ち返りたいと思います。立ち返るものを主が祝福してくださいますように。アーメン。