士師記7章1〜7節 「300人で勝てる」

石井和典牧師

士師記の舞台設定

 士師記の舞台は、イスラエルの民が約束の地に導かれ、入植した後の話です。紀元前1375年から1050年ごろまでの話です。1050年頃から王国がサウルという第一の王によって立ち上がって行きます。第二代の王ダビデの即位が紀元前1000年と覚えてください。乳と蜜の流れる土地を征服して、12部族は相続地を与えられた。まだ、王国とはなっていません。この地をどのようにして神の国として統治していくのかというのが彼らの課題でした。しかし、イスラエルの民は、最初の段階から罪を犯してしまうのです。

 神の国を建てていくということは、土地すなわち領土と、民すなわち国民、そして主権を立てていくということです。領土、国民、主権。イスラエルの民には、領土が与えられ、民がそこに集い、そして、主権がどう立つのかという問題がありました。神さまが主権者として立ってくださるときにそこに神の国ができます。民が100%完全なる自由意志で神を王として迎えることが神の国が成っていく条件です。

 しかし、うまくいかなかった。それが士師記が私たちに教えてくれる内容です。この神の主権を信仰の民の自由意志で立てることができなかったのです。神の主権を認めるのではなくて、、、士師記のまとめの最後の言葉を見ると。

 そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。(士師21:25)

 神に栄光を、神に王位を、神に主権を、ではなく民は自分の目に正しいとすることを行ったのです。これが士師記の問題であり、現代の私たちクリスチャンの問題でもあります。

自分の目に正しいこと

 自分の目に正しいことを行うことに何の問題も感じないのが、現代の日本人であり、教育であり、さらにクリスチャンもいつの間にかそう思っている人がいるかもしれません。しかし、私たちは神の目に正しいとうつることを行わなければなりません。それが主の主権を認めるということです。

 神を神とし、全能の主の主権を認めないとどうなるかというと、罪を犯すことになります。すべての罪が偶像崇拝と関係があります。偶像崇拝というのは、神を神としないということです。言い換えると神を自分たちにとって都合の良い神にして小さくする。その結果、神に私たちが従うのではなくて、神を私たちに従わせるということが起こります。

 これこそ偶像崇拝なのです。神さまの啓示によって神さまを知っていくというのではなくて、聖書を通して知っていくのではなくて、自分がこうあって欲しいと願っている神を神としていくということです。これは実はクリスチャンの問題でもあることを皆様はお気づきくださるのではないでしょうか。多かれ少なかれ人は神を偶像としてしまっているということに気付くことが大切です。

 だから、主が主権を立ててくださって、主の御言葉を聞いて従っていくという道をどうしても歩まなければならないわけです。

 神の目ではなくて、自分の目に正しいことを勝手に行うということは、真の神の正しさと力とを信じてはいないということになるわけです。するとそこに神の国が成っていきません。主イエスがおっしゃいました。

 何よりもまず、神の国と神の義とを求めなさい。(マタイ6章33節)

 人が一番に求めるべきものは、神の国です。天に住まうものになるということ、神の民としていただくということ、神に主権を委ねるということです。天に住まうものとなるということは受け入れている、神の民となるということも受け入れている。しかし、主に従う、主の主権に委ねるということを本当にしているのでしょうか。士師記を読む時にどうぞ、「主権を主に委ねる」ということはどういうことなのだろうかと思って読んでいただければと思います。

バアル信仰

 もう一つギデオンの話に入るまえに確認しておかなければならないことがあります。主が厭われる偶像崇拝、すなわち、バアル信仰というものがどういうものだったのかということを知っていただきたいと思います。なぜ、主がお嫌いになられて、これを滅ぼそうとされておられるのかということです。

 バアルという神は、豊穣の神であると考えられていました。雷をその手に持っている神で、カナンの地に雨を降らす暴風の神であると。この雷をもった神に礼拝をささげれば、雨が降り、豊穣がもたらされるのだと考えたのです。イスラエルの民はアブラハム、イサク、ヤコブの神を、どちらかというと、戦いの神であると思っていた傾向があります。というのも、彼らは、戦いで負けたことがほとんど無かったのです。荒れ野を旅していてもそうでしたし、約束の地に入っていくときもそうでした。

 だから、豊穣をもたらす神に対して憧れというか、自分たちが信じていない神には別の魅力があるぞと思っていたようです。

 さらに、バアル礼拝というのは、非常に刺激的でありました。性が用いられるのが常だったからです。雨が降らないのはバアルの神が他の神におさえつけられ閉じ込められているから。だから、どんな方法をもってしてもバアルを解放して雨が降る状態にしなければならない。

 バアルを呼び覚まし力づけるためには、バアルの性欲を掻き立てなければならないと考えました。だから、バアルの前で性的な行為をすることが必要だというのです。さらに、一人とか二人ではインパクトが足りないので、多くの人々が一堂に集い、性行為をしなければならなかった。それで、バアル神殿の中央には銅像が置かれて、その周りではつぎつぎと人々が性行為に浸るというのがバアル信仰の中心的な儀式でありました。

 神殿娼婦と呼ばれる人たちは、その性行為のためにいつも神殿にいる人達で、神官と呼ばれました。正常な精神状態では神官はつとまらないので、麻薬を使ったり、なんでも使ってとにかく性欲を掻き立て、欲を掻き立てたのです。それがバアル信仰です。

 性欲が満たされて、豊穣が与えられて経済と食欲が満たされて、それによって幸いになる。これがバアル信仰が目指しているものです。目に見える次元のことが満たされて幸せになる。現代人が中心的に考えていることと、あまり変わらない。

滅ぼすのは

 約束の地であるカナンに入っていくとき、もとから住んでいた七つの部族を一人も残らずに殺すようにと神さまがおっしゃられたのは、このバアル信仰がイスラエルの民に伝染していくことを神さまが封じ込めようとされたからです。しかしイスラエルの民は、カナンの民を滅ぼすことができませんでした。滅ぼすことができずに、残ったので、この性的に乱れきった偶像礼拝はイスラエルの民を時に魅了し、罪を犯させる原因となってしまったのでした。

士師記のパターン

 士師記には、士師が立てられますが、士師には裁判官の務めもありました、祭司として民を贖うささげものをささげるという務めもありました。預言者として神の言葉を代弁しました。士師は王の代理であって、王ではありません。イスラエルの民が叫ぶと一人の士師を立てて、神の霊が注がれました。

 罪を犯し、偶像礼拝に陥ると、懲らしめとして異邦人が用いられ、攻め込まれる。そこで民は叫び、祈りをささげる。すると士師が立てられて救いが訪れる。しかし、また罪を犯し。と、この円環が続いていく。これが士師記のパターンです。

 6章1節を御覧ください。

 イスラエルの人々は、主の目に悪とされることを行った。主は彼らを七年間、ミディアン人の手に渡された。(士師6:1)

 罪を犯し、懲らしめとしてミディアン人が送られるわけですが。このミディアン人がまたひどい。イスラエルの民が一生懸命種を撒いて育てた農作物を突然やってきて全部かっさらってしまうのでした。

 イスラエルは、ミディアン人のために甚だしく衰えたので、イスラエルの人々は主に助けを求めて叫んだ。イスラエルの人々がミディアン人のことで主に助けを求めて叫ぶと、主は一人の預言者をイスラエルの人々に遣わされた。(士師6:7)

 主は助けをお送りくださり、ギデオンという士師をお立てになられます。ですが、ミディアン人から苦しめられたのは、主からの懲らしめであったのだということをまず受け止めなければなりません。主は人を育てられるお方です。間違ったことをしているのに、そのまま放置される方ではありません。神を父と呼べと主イエスがお教えくださったように、神は父であられます。ですから、子どもである約束の民を成長させるために鞭打たれるのです。その痛みの中で人は本気で主を叫び求めることになります。

 

 神の主権を認めず、神を人生から排除し、自分の力で生きるのであれば、必ず懲らしめに遭います。神の国の住民として生きるように導かれたものが、天に国籍があることを忘れ、天に住まいがあることを忘れ、自分が神の民であることを忘れ、神の力を認めて生きていくことを忘れていると、神は懲らしめを与えられるのです。

 こういう箇所を読んでいますと、ああ、あの時の自分の苦労は神さまから頂いた懲らしめであったなと、思える瞬間がきます。その時に私たちが感じるのは、感謝です。懲らしめを懲らしめとして受けとめることができたときというのは、もうその問題から解放されつつある時であり。神との関係が回復し、主の御前に跪いているときです。

 しかし、懲らしめを懲らしめとして受け止めることができない時というのは、まだまだ、打ち砕かれて、神の前に低くされていないということなのです。まだまだ、懲らしめの時が続く可能性があります。ですから、私たちはこのような言葉を聞くことができている内に、自らの偶像礼拝の実情を認めなければなりません。神を小さく、神を自分に仕えさせることを考えていたことを認めて、主の前に悔い改めをすべきです。

ミディアンとの対決

 ミディアンとの対決において、ギデオンやイスラエルの民が学んだことはなんでしょうか。本日の箇所です。ミディアンの軍勢は13万5千人です。対してイスラエルは3万2千人でした。10万人以上の兵力の開きがあります。全く勝負にならない数の差です。しかし、主は何とおっしゃったでしょうか。

 あなたの率いる民は多すぎる(士師7章2節)

 現代日本人は多数決が大好きですよね。民主主義が万能であるかに勘違いしている人さえいます。しかし、主がおっしゃられるのは、戦いは人の数ではないということです。いや、むしろ少数の主に従う人の中に主のみ心があらわされるということが度々起こるのです。思い出してください。カデシュ・バルネアという場所で、イスラエルが約束の地に入るために偵察隊を出した時のことを、多くの人々は怖気づきました。しかし、ヨシュアとカレブだけが全能の神の力を信じました。主はこの信仰の人ヨシュアとカレブを守ってくださって、約束の地に入れ、この二人を通して信仰の民の歴史は継続されていきました。多いか少ないかではないのです。主に従うかどうかです。むしろ、人間の力は捨てることです。主はこうもおっしゃられています。

 ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。(士師7:2)

 13万5千 対 3万2千 で勝ててしまったら、この精兵こそが非常に強かったということで、イスラエルの民は誇り高ぶってしまうというのです。神の前での誇り高ぶりこそ主はお嫌いになられるのです。

 師の鈴木崇巨先生に「人間が人間を誇ってはいけないんです」と何度も、説教の中で聞き続け、今も「求道者伝道テキスト」の中で、学びを続ける方々と学び、そこでも「誇りをもってはいけません」という言葉を聞いています。

 誇りをもつことができるように、自信を持てるようにって教育されてきたので、一切誇りをもってはいけない、傲慢になってはいけないとは受け入れがたいものです。しかし、聖書は一貫して、何千年もの昔から言われ続けてきたことであったことを思わされています。これこそ、神の言葉なのです。神が力ある御方で、私たちは一切高ぶってはならない。人には力も、誇るべきものも無いです。そう考えて、祈りに全身全霊を向け始めるとき、人は解放されていくし、神の業がその人に起こるようになるのですね。

 先週聞いたモーセの話も思い出してください。あえて遠回りさせて、海とエジプト軍に囲まれる状況にされて、もう人間の力では絶対的に何もできないという状況にあえて主はイスラエルの民を置かれて、そこから救い出すということをもって、神が神であること、全能者であることを知り、神の栄光が現されたのだということを聞きました。

 恐れおののいている者は皆帰り、ギレアドの山に去れ、と。(士師6:3)

 3万2千の中の2万2千がこの言葉に従って帰りました。残り1万人です。さらに、主は言われます。

 民はまだ多すぎる。(士師7:4)

理由は、、、

 そこからまた選抜が行われます。水辺に行って犬のように水に顔をつけ舌で水を舐めるように飲むものを失格としました。手ですくって飲むもの300人の精兵として送り出すことになりました。どうして、このような判断になったのか。色々考えることができます。

 例えば、敵に対して常に警戒感を持っている人、兵隊としてよく訓練されて、人前ですきを見せない人を神は選ばれたのだという解説がなされます。確かに妥当な説明だと思います。またある人は、敵に対して怯えているひとをあえて神は選ばれたのだと、絶対に勝てると信じて信じ切っているような人じゃなくてあるところ不安を抱えているそういう人を選ばれたんだと、あえて人間の弱さが出てきている人を選んだんだと。

 たしかに、色々説明をつけることができるのです。しかし、一つ重要なことは、なぜ選ばれたのかということのハッキリとした理由は聖書には示されていないということを受け止める必要があるのではないかと思います。

 結局、どういう理由でこの人が精兵として選ばれたのかの選別の基準はわからないということです。確かに日本には一事が万事ということわざがあるように、水の飲み方一つ見ればその人の心が何に向かっているか判断できるということができるかもしれません。

 とにかく、神さまがなさりたかったのは、圧倒的少数でありながら、人間の力によらず、神の力だけによって、圧倒的勝利をなし、神がこれをなさったのだとしか言えない。人間の力はこれっぽっちも勝利に影響をあたえていない。ただただ神の力により勝利をしたのだということをはっきりと示すということです。ですから、一番重要だったことは、300人という超少数を選び出すということだったに違いありません。ギデオンは強敵ミディアンに大勝利をおさめます。

 ギデオンに御使いがこう言いました。

 勇者よ、主はあなたと共におられます。(士師6:12)

 神さまがお考えになられている勇者というのは、ただただ神の力によって勝利する人のことを言っておられるのです。実はこの言葉を聞いた時のギデオンは怖気づいていたのです。ミディアンを恐れて丘に上ることができなかった。しかし、弱いギデオンはただ主の力によって勝利し、人間の力が全く役に立たないその場で、主の力に頼るものを主は勇者と言っておられるのだということに気付くのです。

 皆さん、弱い私たちをこそ勇者と呼んで下さる憐れみと愛に満ちたこの御方のところに一緒に跪きましょう。

 約束の民として生きるその道は、ただただ信仰によって、十字架の血潮による贖いを信じ、主の主権を認めるものに与えられています。約束の民として生かしていただきましょう。

 キリストの名のもとに集まる、十字架の血潮の効力を信じて天に生きるものは、日本では圧倒的少数です。主の力が示されるのは、数の問題ではないということを経験させていただきたい。たった一人のキリストから全世界が救われる。たった一人の皆様から日本が救われていく。その様を見させていただきたいと思います。アーメン。