サムエル記上3章1〜14節 「聞くしもべ」

石井 和典牧師

キーパーソン、サムエル

 リーダーがどんな人であるかに共同体は非常に大きな影響を受けます。サムエル記上に出てきますリーダー、士師、祭司でもあるエリ。この人はあまり良いリーダーとは言えません。なぜなら、信仰共同体イスラエルにとって最も大切な「信仰」をしっかりと伝えることができなかったからです。

 信仰の基本は「主を知ろうとする」心です。カルヴァンの書いたジュネーブ教会信仰問答にも、人生の目的は主を知ることであるということが第一の問いにまとめられていました。何よりも第一にその信仰を伝えるべき子どもに対して、彼は「主を知る」ことの恵みを伝えることができなかったのです。人生の一番大事なこと、一番大事なことを、一番大事な人に伝えることができなかったのです。

 サムエル記上2章12節。

 エリの息子はならず者で、主を知ろうとしなかった。

 ならず者というのは、英語の聖書にはスカウンドレルと書いてあります。「悪党」という意味です。主を知ろうとしないとなぜ悪党になってしまうのでしょうか。エリの息子たちは祭司でした。祭司というのは、神さまの思いを聞き、神さまの思いによって動くべき人です。神と人とを結びつける人です。にもかかわらず、神さまがどう思うかということよりも、自分の欲求を満たすことが先になってしまっていたのです。神を知ろうとしなかったからです。

 民が神さまのためのいけにえに、と持ってきたものを横取りしたのです。祭司にはにいけにえの一部を食べることが、祭司の仕事にあたるもの恵みとして許されていました。しかし、もっとも良い部分、すなわち油は神さまへの献げ物として焼き尽くして天に上げなければならなかったのです。

 でも、自分が食べたいからと、油を神さまのためにとっておかずに、油を自分のものとしました。

もし、主を知ろうとする人だったら

 もし、エリの息子たちが主を知ろうとする人だったら、神さまにささげるべきものを横取りなど考えなかったでしょうし、ささげものの一部を食べることが許され満足な食生活を送ることができていたはずなのです。感謝に生きることができたはずなのです。しかし、感謝ではなくて、貪欲がその心を支配してしまいました。まことの支配者である神を知ろうとしていなかったから、別のものに支配されてしまいました。

 主を知ろうとしないと、結果的に、主の目からみて悪党とならざるを得ないということを知る必要があります。神を知ろうとしないと必然的に罪を犯します。神を知り、神の支配の内に生き始めないと、神以外のなにものかに人は支配されます。

じゃあ、みんな悪党じゃないか

 神を知ろうとしないとみんな悪党。そんな厳しいことを言い始めたら、みんな悪党になっちゃうじゃないか。とおっしゃるかたもおられるかもしれません。その通りです。みんな悪党だと聖書は教えてくれます。

 では、どうなのか。わたしたちに優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてある通りです。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。(ローマ3:12)

 主を知ろうとしないと、隠れたことさえ見ておられる神さまが見えなくなります。そうすると、祭司をしていても、とにかく問題にならなければ、ズルをして隠れて神に捧げるべき油をも食ってしまえということになってしまう。しかし、神は隠れたことをこそ見ておられるお方であるということを、神を知ろうとする人には示されます。

 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことをみておられるあなたの父が報いてくださる。(マタ6:6) 

エリが不徹底であることを示す事件

 リーダーであるエリが、大事なことを教え、導くことができなかったことによって、ある時大きな事件が起きてしまいます。それは、イスラエルのシロという場所にあった神の箱が奪われてしまうという事件です。神の箱というのは、その上に神さまがご臨在なさるものでありました。それがペリシテ人という異邦の民に奪われてしまいます。

 というのも、ペリシテ人との戦いの中で、とにかく神の箱を持っていけば、勝つことができるとイスラエルの長老たちが考えるようになったのです。しかし、神さまはそのことをお命じになっておられませんでした。リーダー、士師であり祭司であるエリはこの長老たちの行為をとめることができませんでした。

 神さまがお命じになられているわけではない。単に自分たちがこれを持っていったら勝てるというような安直な考えで好き勝手するんじゃないよ。と言うべきであったのですが、エリは言うことができませんでした。

 なぜでしょうか。エリは神さまの言葉を聞く祭司でありましたが、実際には常に神さまにお伺いを立てていたというわけではなかったということでしょう。常に祈りによって物事を決めていくという人ではなかったということです。神との対話よりも、人の意見に流され、これが正しいのではないかということに流されてしまったのです。まず必要なのは神との対話です。士師記の最後に書かれていました。イスラエル共同体の問題点、信仰者の問題点、それがそのまま悪い意味であてはまる人であったということです。

 士師記の最後に何と記されていたでしょうか。

 そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。(士師21:25)

 神の支配に信頼して、神に聞くというのではなくて、自分が正しいと思うことを行っていたということ。エリもそうだったのです。だから、人々が神の箱を勝手に運び出してコレで戦争に勝てると言い出した時に、それを阻止することができなかった。神の箱を持っていってその上で戦いに負け、神の箱が奪われてしまったのです。

ヨシュアの時代には

 ヨシュアの時代に契約の箱を持ってヨルダン川に足を浸すと、川の水が弱くなり濁流だった川を渡ることができたという記事がありますが、あれは契約の箱自体に魔術的な力があるのではなく、神がそうお命じになられたから、川の水が引いたのです。すべての力の根源は神にある。神のお命じか、神にお伺いを立てているか。これこそが大事なことです。

主に忠実なもの

 エリというリーダーは神さまに対して不徹底な態度を取ることしかできませんでした。しかし、リーダーではなくて、ハンナという一人の小さな女性は、神に対して徹底的に従う人でありました。というのも、彼女には子どもが与えられないという悲しみがあり、しかし、神がその悲しみに触れてくださるはずだと心の底から信じていたからです。悲しみ、苦しみ、相対的に人より恵まれていないとか、そういったことは、実は信仰にとっては良いものとなります。ハンナも子どもが与えられないということが、神さまにハンナを結びつけることとなっていました。

 万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。(サム上1:11)

 はしためというのは召使の女性のことですね。仕える人です。神さまに自分の人生すべてを通して仕えるのだという思いがこの祈りから伝わってきます。しかも、自分の子どもを神さまの思いのままにおささげし、頭にはかみそりを当てないと言っています。聖別されたナジル人として生きるように育てるということです。聖なる者、分かたれた者として、酒も飲まず、汚れたものに触れさせず、神さまのものとしての一生を全うさせるという決意の言葉です。

 神さまに対してハッキリと信仰の告白をして、自分の態度を示していく、そういう人に神の業が起こり、このハンナの子どもを通して、イスラエルという国が大きく変わってしまうのです。

ハンナの祈りの結晶

 本日注目すべきは、少年サムエルなのですが、少年サムエルが新しいイスラエルをつくり出すためには、お母さんであるハンナの祈りがなければなりませんでした。サムエルはハンナの祈りの結晶です。人間にとってもっとも大事なことは、主を知るということです。聖書を通して主を知ることができます。しかし、実際に対話しなければ単なる知識としてしか理解できません。だからまた主を知るうえで極めて大切なのが、祈りをささげるということです。対話をし、生きておられる神に聞くということです。イスラエルの歴史を変えたハンナはどんな祈りをささげていたのでしょうか。

 ハンナが主の御前であまりにも長く祈っているので、エリは彼女の口もとに注意して見た。ハンナはこころのうちで祈っていて、唇は動いていたが声は聞こえなかった。エリは彼女が酒に酔っているのだと思い、(サム上1:12)

 と書いてあります。酒に酔って眠ってしまって、うわ言を言っているかのような。それだけ没頭し、しかも長い時間祈っていたのです。彼女の言葉によると。

 ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。(サム上1:15)

 先週、宗教改革者ルターの言葉を引用しました。

 「もし、私が毎朝2時間祈らなかったら、その日一日悪魔にやられてしまいます。私にはあまりにもたくさんの仕事があるので一日3時間祈らなければどうしてもやっていけないのです。」

 ルターは非常に敵の多い人でした。当時の教会を批判したからです。国と癒着した権力構造の中心にあったものたちに真っ向から戦いを挑んでいました。実際に敵も多かったし、それから、その敵に対する怒りや、恨みの感情に自分が押しつぶされそうになることだってあったはずです。主への信仰にただ立つことの前に、自分の思いや敵がルターを押しつぶそうとしていました。

 それに対抗するためには3時間祈らないと負けてしまうということでしょう。ハンナが祈っていたのはもっと長時間であったに違いありません。

祈りの結晶、実り

 祈りの結晶、実りである、神からの賜物であるサムエルという男の子が与えられます。そして、何より、ハンナには祈りの実りとして、神さまとはこういうお方なのだという、神への非常に豊かな理解が与えられていました。神は高ぶるものを低くし、低く謙遜になるものを高めるということを彼女は理解し、祈り続けていきました。

 勇士の弓は折られるが/よろめく者は力を帯びる。食べ飽きている者はパンのために雇われ/飢えている者は再び飢えることがない。子のない女は七人の子を産み/多くの子をもつ女は衰える。主は命を絶ち、また命を与え/陰府に下し、また引き上げてくださる。主は貧しくし、また富ませ/低くし、また高めてくださる。弱い者を塵の中から立ち上がらせ/貧しい者を芥の中から高く上げ/高貴な者と共に座に着かせ/栄光の座を嗣業としてお与えになる。(サム上2:4〜8)

 この時代というのは信仰的に冷え切った時代でありました。その中で、神に対する態度をはっきりさせて、信仰告白をし続けるこのハンナに対して神さまはご自身のお姿をお示しくださっていました。それゆえ、彼女は人の生死を左右し、あらゆる力の背後におられる主のご存在を見ることが許されていたのです。

 本日の朗読された箇所にもこのように記されています。

 そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。(サム上3:1)

 これは、どういうことでしょうか。主に聞くということから人々が遠ざかっていたということです。すなわち、祈ることから遠ざかっていたのです。その中で一人、主のお言葉に耳を傾けるサムエルが立ち上がったのです。神さまが、3度サムエルを呼び、サムエルが聞くというのは、彼こそ神の言葉をもらさず、忠実に、徹底して聞き続けるものであるということを後の世代に教えるためのものです。神さまはサムエルが答えるまで、サムエルを呼び続けます。彼が必ず聞くことができるように、主は語りかけ続けてくださる、そういう器としてサムエルが選ばれたのです。ハンナの祈りの結晶として。

サムエルは時代を変えた

 サムエルはイスラエルの歴史を変えた人です。現代の言葉で言えば、リバイバルを起こした人です。信仰復興運動を起こした人です。サム上7章を御覧ください。イスラエルは士師の時代400年もの間、バアル信仰を捨てきれませんでした。目に見えるものに左右される生活、見えない神だけを信じる生活にすべての人が入ったわけではありません。多くの人が、豊穣を約束し、性的な儀式を行うバアル信仰に心が動かされたのです。しかし、そこにハッキリと否を唱え、人々を信仰に導いたのが、真の主の器であり、主に喜ばれたリーダーであるサムエルでした。サム上7:2後半を御覧ください。

 イスラエルの家はこぞって主を慕い求めていた。

 民の中には、悔い改めの波が起こりました。サム上7:6。

 人々はミツパに集まると、水をくみ上げて主の御前に注ぎ、その日は断食し、その所で、「わたしたちは主に罪を犯しました」と言った。

 士師の時代を通して400年間もご利益信仰を捨てきることができなかったイスラエルを赦し導こうとされる憐れみは、主イエスにつながり、赦すと決意されているからこそ決して諦めることをなさらずに、リーダーを何度も立て、導こうとされる神さまのお姿が見えてきます。

 一人の人が祈りに立ち、信仰に立つということがどれだけ重要なのか、私たちのそれぞれたった一人を導くために、御子を十字架にかけ、御子が犠牲になっても私たちの命が救われることを願ってくださった主の思いを受け止めてください。

 キーパーソンはたったひとりの信仰に本気で立とうとする人です。祈りに立とうとする人です。その人が祈りに文字通り献身することが、大きな歴史の流れをつくり出すか分かったと思います。サムエルがあるのは、ハンナの祈りがあったからです。サムエルは歴史を変えました。

 皆様が、祈りによって神の偉大な業の一部となるように願い、主の御名によって祝福いたします。アーメン。