ルカによる福音書2章41〜52節 「天の父の家」

キリスト預言

 キリストについてシメオンは預言しました。

 御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。  あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。 多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。

(ルカ2:34)

 キリストは、人を倒し、立ち上がらせます。神の御前で、真実なる自分の姿があらわにされて、倒されます。しかし、その倒れた人を、ご自分の命に預からせることで、立ち上がらせるのです。人々はキリストの言葉によって、心が切り裂かれたように影響を受けて、時にショックを受け、本当に立ち上がることができなくなりますが、しかし、そのことを通じて神と出会うようになります。

 キリストの言葉に出会わないと、自分が何を考え、何を信じ、何にとらわれているのか。自分で自分のことを理解できません。しかし、キリストの言葉と真剣に向き合うと、神の前でくずおれるしかない、神の前で自分の考えがあまりにも神から離れていたことを認めるしかなくなります。

 その時こそ、救いが心に到来する時です。ですから、キリストは救いですが、同時に切れ味の良い剣として、しかも心を切り裂く剣として皆様のところのやってこられます。

 キリストのご存在そのものを見ていきますと、そのご存在そのものが剣であることが分かってきます。

剣であるキリスト

 キリストの誕生の知らせがまず告げられたのは、羊飼いに対してでありました。本日読んでいますルカ2:8にそのことが記されています。羊飼いは、町の中心に住む人ではありません。町の中心の人々からは忘れられた存在です。キリストの誕生の知らせは忘れられた人々のところに届けられました。

 私たちが考えることと神がお考えになられることは、対立します。私たちは、注目されて、人々の関心の中心で物事が動いていくように思っています。違うのです。神の業はひっそりと、目立たないところで、しかも人々が視界からあえて外している場所で起こります。神はそういうところで、御業を起こされる方であることを知ります。

 その事を通して、ご自分の民に対する愛をはっきりとお示しになられるのです。人々から忘れられている人を愛し、その人に真っ先にまなざしを向けておられるのが私たちの神です。あぁ、主は私をも見ていてくださるのだと受け入れることができます。

 羊飼いたちは、ベツレヘムの洞窟で、飼い葉桶で亜麻布に包まれた乳飲み子を発見します。亜麻布は、遺体を包むための布です。遺体のための布は洞窟に蓄えられていました。粗末な場所で、汚れた飼い葉桶、しかも死を連想させる亜麻布にくるまれて。御子の誕生は、人間が想像するような黄金の神々しさではなく、全く貧しいものの姿をとって、どんな場所にも私は入っていくという神の意思を反映させて、全ての人への救いの意思を徹底的に見せつけながら、すなわち私たちすべての人間への愛を宣言しながらのお誕生でした。貧しいからこそ、そこに輝きがある。神が貧しくなられることにこそ愛という輝きがあります。

 マリアが言ったその言葉が、成就していました。ルカ1:48。

 身分の低い、この主のはしために/目を留めてくださったからです。

 誰からも注目を受けないような人に、目を留めてくださって、身分の低いはしためを限りない天の栄光で満たしてくださる。

 今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう。

 キリストを受け入れて、キリストを宿すものは、どの時代、どの地域にあっても幸いな者と言われます。キリストを受け入れたマリアの言葉は、切れ味の良い剣の言葉で満たされていきます。ルカ1:50以下。

 その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。

 主を忘れて、権力や、富や物を得ることに人生を注いでいるもののその行為を全て無に帰す。それがキリストがなさることです。積み上げていったものを全部、台無しにして、逆の状態にしてしまうというのです。これは恐ろしい言葉でありますが、しかし、実際に起こることです。

 羊飼いのところに主の御使いが真っ先に向かったように。自らの力を誇る世の権力者のところには向かいませんでした。

キリストへの礼拝は武装解除

 キリストを拝する礼拝は、持っていた人間的な栄誉や見栄えの良いものを全部捨てての礼拝となります。神の前に罪人であることがあらわにされて、なんの言い訳も出来ずにただ跪く、主の栄光を拝し、主のみ力のもとに憩う。そういう人たちの集まりであるべきです教会は。

 キリストの剣によって刺し貫かれて、力なくただ主の栄光を拝して、主の御前にくずおれる。そんな礼拝を、キリストがお越しくださることによってささげることができるようになりました。しかし、低く跪くものがあつまるこの場所でこそ、高く高く高められるということが起こる。身分の低いものが神の力によって高くされ、飢えた人が良い物で満たされます。

 大逆転がキリストの名のもと起こる。そんな光景を想像しただけで、私はワクワクしてくるのですが、実際に主のものとされて、キリストの僕とされて、マリアが言ったように「わたしは主のはしためです」と信仰告白するものに、すなわち、キリストを王として迎え入れるものに、この大逆転が起きることが約束されているのです。傲慢な者は退けられます。

 それは、確かにマリアにおいて起こりました。主の僕となるものに、起こります。

両親も刺し貫かれた

 さて、キリストが剣であるというところに注目してお話させていただいているのですが、それは、両親に対してもそうでした。剣が向けられるとは物騒な表現ですが、しかし、これは良いことなのです。心がハッキリと、何が神の思いであり、何が神の思いではないかを切り分けるという意味で剣であるからです。切り分けられたものは、たとえ傷を受けたとしても救われます。神の思いを理解します。

 両親はどんなふうに切られてしまったのでしょうか。

 過越祭の時に、両親はイエス様を見失ってしまいました。イエス様はこの時12才です。まだ、13歳のバルミツバ、成人の儀式には至っていませんでした。だから、律法に対する知識は家庭では勉強していましたが、13歳にならないと会堂に行って教えを聞き、聖書について律法について語り合うということは出来ないはずでした。いわゆる信仰者としての歩み「会堂デビュー」はしていないはずでありました。

 だから、祭りの時にエルサレムに行って、神殿に向かっても、その神殿の中で両親が動物の犠牲をささげている時に、何か別のことをして待っているというのが、子どもの常でした。神殿は異邦人の庭、男性だけが入ることができる庭、女性だけが入ることができる庭と別けられて別々になっていましたので、子どもたちは母親の方に行ったり、父親の方に行ったり、自由に動き回っていました。だから、両親は「今はお父さんの方にいるんじゃないか」とか「お母さんの方にいるんじゃないか」とか、考えて近くにいなかったとしても叱らなかった。

12歳に神殿で議論

 イエス様は12歳の時にあえて神殿で律法学者たちと議論すると決めておられたようです。というのも、ご自分に神の力が満ちていること、知恵と、神の恵みに満たされているということを、成人に至る前に、人の力ではなく、天の父の力によって頂いた賜物を示すためでありました。

 さらにいうならば、神からの言葉を受けていたかた。いや、神の御言葉そのものである方ですので、律法学者も簡単に論破されてしまうはずでありましたが、イエス様は律法学者と冷静に話をされていたようです。ルカ2:46を見ますと。

 三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問をしたりしておられるのを見つけた。

 と書かれています。話を聞いたり、質問したり。非常に冷静な受け答えが見て取れます。12歳位で知識が溢れているような子どもは、尊大になって、大人を言い負かしたり、言い負かしたことを良いことに悦に入り、どんどん尊大になって、周りから呆れられるというパターンが多い気がしますが、そんなことは決して無い。尊大という言葉の欠片もない。冷静に質問し、答えておられました。フィリピ2:6にこのように記されています。

 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。

主のお考えとの違い

 ご両親のヨセフとマリアは、このイエス様のお姿を見て、驚きました。ルカ2:48。

 両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」

 この言葉の中で、注目していただきたいのが、「驚き」という言葉なのです。この直前にも「驚き」という言葉があります。神殿でイエス様と律法学者のやりとりを聞いていた人は驚いたと記されています。皆が、イエス様の姿に驚いています。知恵に満ち、神の恵みに満たされている主イエスの姿を見て、皆が12才のどこにでもいる子どもではなくて、特別なお方であるということに気付き始めていました。イエス様が、マリアにおっしゃられた言葉が更に驚きです。ルカ2:49。

 すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」

 迷子になった子どもを探す親の心、わかります。必死ですよね。必死で我が子に注目して、我が子に何か大変なことが起こっていないか、あらぬことまで心配して捜します。しかし、イエス様は「どうしてわたしを捜したのですか。」とおっしゃいました。探す必要はありませんよと。

 普通の12才の子どもとは全く違います。探すのはある意味当然じゃないですか。しかし、探す必要など無かったとおっしゃるのです。ヨセフとマリアが見ているものと、イエス様が見ておられるものというのは、全く違っていたということが明らかになります。両親は「我が子」を見て、必死でした。しかし、イエス様は「天の父」を見ておられて、平安がありました。必死であることは、悪くないと思いますが、心を失って必死であることは、もしかしたら、天の父のご臨在を心から失っている状態にあるのかもしれません。

信仰による平安とは

 天の父に守られているという信仰に堅く立つものの姿をイエス様は私たちにお見せくださっています。不安なことがあると、すぐにでも心ざわめいてきてしまうのが、私たち人間の偽らざる姿でありましょうが、信仰に立つということはそこからまた別の次元に立つということでもあります。イザヤ書30:15にこのような言葉があります。

 まことに、イスラエルの聖なる方/わが主なる神はこう言われた。「お前たちは、立ち返って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と。

 この御言葉は島村禮子姉妹のご葬儀のときに朗読された御言葉です。イスラエルの神、全能の父なる神。砦なる神、救いなる神、すべてを御覧になられている神、すべてを満たすことがおできになる神、永遠なる神。この神を心から受け入れているとき始めて持つことができる心境ではないかと思います。

 イザヤ書30章で言及されるイスラエルの民の姿は、大国に圧力のもと、心乱し、神以外の国の力によってなんとかしよう、連合の力によってなんとかしよう、人間の正義を打ち立てることによって、律法を必死で守ることによってなんとかしよう、そういう人の力でなんとかしようという思いに溢れてしまっていました。右往左往し、静かに安らかにしていることなどできていませんでした。その民に向かって神さまは、「立ち返って、わたしに信頼し、静かに安らかにしていなさい」とおっしゃられたのです。

意味がわからないのは仕方がないかもしれない

 両親はこの言葉を聞いて、その時は意味がわかりませんでした。ルカ2:50、51。

 しかし、両親はイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。

 イエス様の言葉はあまりにも深いので、父の御心を反映した言葉なので時に人間にはすぐに理解できないということが起こります。

 自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。

 とイエス様はおっしゃいましたが、これも非常に深い意味があるのですが、すぐには理解できません。地上におることが天の父の守りの内にあることかなぁ。なんて思います。

 しかし、イエス様がおっしゃられるのは、神殿にあること、これは私にとって当たり前のことであるということです。神殿というのはどういう場所ですか。旧約時代の神殿は血生臭い場所です。イスラエルの民の罪を贖うために、多くの羊が血を流して死んでいった場所です。

 イエス様は父の家で、神殿で、人類の贖いのために死ななければならないことがこの場所におられてすでに悟っておられたのです。

 雄山羊と若い雄牛の血によらないで、ご自身の血によって、ただ一度だけ聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。(ヘブ9:12)

 主イエスは、父の家でこの使命を深く悟られたことでありましょう。

 神は主イエスを十字架にかけ、復活させることによって、すべての支配と権威、今の世だけではなく、次の世においてすべてを支配する名として高く上げられ、教会のかしらとなられました。主イエスは、復活されることによって教会のかしらとなり、永遠に父の家に住まわれる方です。だから、イエス様は「自分の父の家にいるのは当たり前だ」とおっしゃられたのです。

 この御方の前に、従い、ひれ伏すことこそ、私たちが今この時なすべき礼拝です。すぐに御言葉が理解できなくても、マリアのようにその御言葉を思い巡らし、主のご存在の前に跪いてください。そうすれば、時が来ればイエス様がおっしゃられた意味がわかります。マリアも、十字架と復活の出来事を通して、自分が見ていたものの小ささと、イエス様が御覧になられていた壮大な神のわざとの違いを見ることになったのです。主の言葉を思い巡らして、主の業を見ることができるように、皆様を祝福いたします。アーメン。