テモテへの手紙 二 3章15〜17節 「神の霊の導き」

 獄にとらえられ、もう先長くは無いと確信した人の言葉です。パウロの遺訓、遺言とも言えます。

 忠実な僕であるテモテへの燃えるような愛が溢れています。神の言葉を伝えるために、忠実に生きようとするものたちは、お互いに祈りを交わします。パウロはテモテのことをずっと祈っており、テモテもパウロのことをずっと祈っています。二テモ1:3、4、5。

 わたしは、昼も夜も祈りの中で絶えずあなたを思い起こし、先祖に倣い清い良心をもって仕えている神に、感謝しています。わたしは、あなたの涙を忘れることができず、ぜひあなたに会って、喜びで満たされたいと思っています。そして、あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。

 神の業のために働き、同じ志を持っているもののために祈り続けている。この関係性。神のために生き、神のために祈り、お互いのために祈る。これが聖徒の交わりです。涙を流して祈り、福音のために戦っている。

 パウロは、ローマの牢獄に入れられ身動きが取れなくなり、財産も奪われ、何も無いという状況です。しかし、この何も持っていないという状況だからこそ、彼には神の御手が見えています。牢獄の中から、神の業が進んでいっているということを確信しています。二テモ2:9。

 この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし神の言葉はつながれていません。だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。

 日本人はあらゆる物をもっています。でも、あらゆるものを持っていれば持っているほどに、神の業が見えなくなっているんじゃないでしょうか。自分自身の生活へのとらわれに阻まれて、見えない。皆様には今、神さまが全世界で働いておられるということが見えていますでしょうか。神の言葉が自由に増え広がっていっているということが見えていますか。

 パウロは私は鎖につながっている。けれども、私がつながっている神は、縛られていない、神の言葉は自由に働くことができると言いました。だから、パウロは自分が捕らえられていることによって落胆せずに、このことを通して力づけられて、神の業に励みなさいとテモテを励ましています。

 愛する信仰の息子テモテよ、私がどんな目に遭おうとも、あなたは落胆してはならない。この状況を神が使ってくださり、ご自分の業をなさるからだ。だから元気を出しなさい。二テモ1:7。

 神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。

 どんなに落胆しても、祈りによって力を得なさい。あなたには聖霊が注がれ、力と愛と思慮分別の霊が満たされるのであるから。二テモ1:6.

 わたしが手を置いたことによってあなたに与えられえている神の賜物を、再び燃え立たせるように勧めます。

 手を置くというのは、聖霊の賜物がくだされるように、祈ったということです。聖霊の賜物がパウロからテモテへと伝達して、テモテも様々な賜物に満たされていた。祈りの中で、おくびょうではなく、力と愛と思慮分別が彼には与えられていったということです。

 聖書への純真な信頼。祈りに自分を投入し、祈りによって歩んでいこうとしている人。そのような人々とは世界中どこにいっても、互いの存在を喜んで手を取り合って祈り合い、涙しつつ主の業のために働くことができます。

 祈りに時間を投入している人たちには共通点があります。「神さまのために」という祈り。神さまの業のために、そのために自分を用いていただきたい。その業のためならば、なんでもしよう。そういう敬虔さが形作られています。だからどんな地域、国、言葉さえも飛び越えて一致し、涙し、祈り合っていくことができます。

 私たちの教会においても、早天礼拝にこられてたった30分ほどの祈りでも、共にささげ尽くして、神の前に心を注ぎ尽くしていますと、自然と主のご臨在を感じ、涙が溢れてくることがあります。終わった後に参加しておられる方の顔をみると目に涙がたまっているということもあります。主への思いだけで、一致できる。そう確信できる瞬間となります。

 祈りの中で、パウロが牢獄の中から告白した二テモテ2:11−13の言葉を自分の告白として告白することができます。

 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストはご自身を否むことができないからである。

 パウロは牢獄の中から叫ぶのです。

 「キリストのために死ぬのなら、キリストと共に生きるようになる」と。「神の言葉はつながれていない、これから選ばれて救い出される人々のために、わたしは、この苦難を耐え忍ぶ。わたしの苦しみ、わたしの命を通して神に回心するものが起こされるはずである。」とパウロは信じ、夢見ているのです。

 自分はもう殺されると確信しながらです。

 実際AD60年前後、皇帝ネロの時代にパウロはローマで斬首により殉教したと伝えられています。

 わたしの肉体が朽ち果てようとも、わたしの内におられる神は決して死なない。神だけが私を守ってくださる。神だけが、いのち。神と共に生きる。キリストと共に支配する。私がどれだけ偽りものであったとしても、キリストだけは真実。その御方にだけすべてを委ねる。

 パウロは命をかけて、全能の神の力、キリストの救い、聖霊のご臨在を証します。しかし、それでも、人々の心が冷めて、福音からそれていくということを彼は危惧し警戒し、神から頂いた未来のビジョンを見ながら、予見し、預言しています。その預言的言葉が テモ3章です。

 しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。

 これは、教会の内部のクリスチャンに向けられている言葉です。クリスチャンの中にも、このようなリストにのった行動を取るようになるものが現れてくるというのです。というよりも、ほぼ全ての現代のクリスチャンが、この終わりの時にあり、キリストが来られる時を待ち望むこの時を、パウロがあげた悪徳表に抵触してしまうような歩みを、どこかでしてしまっているのではないでしょうか。

 確かに、わたし自身も心当たりがあります。「自分自身を愛し」というところは早速ひっかかる気がします。神よりも、隣人よりも、自分を優先して愛することがあった気がします。金銭が神よりも解決力がある。などとは口が裂けても言わなくても、実際お金がなければなにもできないと思っているところがある。神がおれば何でもできるのです。

 言い逃れをするためにギリギリ嘘と言えないような言えるような嘘をついたこともあります。傲慢になって、神の力に頼らなかったことがある。

 今も、両親に誰よりも先に福音を伝えて、命の命を伝えなければならないのに、両親を何よりも大事にしなければならないのに、両親に対して不義理をして、両親を敬うことを怠っている自分がいる。恩に正しく応えているかといえば、そうとは言えない現実があります。

 何より耳が痛いのが、「信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。」というところです。神の力を信じているのならば、祈りの力を信じるはずです。

 しかし、祈るために時間をさくより、自分の小さな小さな、吹いて飛ぶような、塵のようなその業のために多くの時間をさいてきてしまった自分がいたことに気付かされます。

 このリストは、実は多くのクリスチャンが抵触してしまうリストです。しかし、これらのことを行うものはパウロによればどういう評価がくだされるのかというと。二テモ3:8。

 精神の腐った人間で、信仰の失格者です。

 と言い切られています。ヤンネとヤンブレという人がその筆頭として描かれているわけですが。この二人はどういう人だったのでしょうか。タルムードというユダヤ人がモーセから口伝で受け継いだ書物によると、この二人はイスラエルの民と共に出エジプトをしました。モーセが律法をシナイ山で神さまからいただくとき、シナイ山の麓で民が金の子牛を造って偶像崇拝をしました。その先導をしたのがこの二人であったと言われています。

 金の子牛の像の前で皆がいっぺんに性的な関係を結ぶという恐ろしい偶像崇拝です。目に見えない神に頼るのではなくて、目に見える、力がありそうな、現実に解決をもたらしてくれそうな、今このときを楽しませてくれる快楽によって苦しみから逃れようとした人々です。

 神の御言葉と、神への祈りの中で、「牢獄の中でも、神の業が進んでいく」という霊的な視野、神を信じていないものには決して見えない視野をパウロは得ることができました。祈りの中に自らを投じ、使徒の伝承に、聖書の言葉に忠実であるのならば、決して自分自身を愛することに集中したり、金銭を愛したりしないものなのです。

 しかし、神の言葉から離れて、祈りから離れると、自分が神に反しているということにさえ気付かなくなる。神以外のものに頼り、目の前の快楽に溺れ、まさにシナイ山の麓で酒池肉林を楽しみながら苦しみを誤魔化した人々のようになる。神ではいものを神にして、自らに従わせる。偶像礼拝しているということも判断できなくなってしまう。

 本日の聖書の箇所に記されていることを守るなら、決して道に迷うことはないと、パウロは教えてくれています。二テモ3:14。

 だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことを知っているからです。その書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。

 ここに記されている聖書とは、私たちが今もっている聖書そのものとは言えません。聖書は旧約・新約が現在のように正典としてまとめられるのは紀元後4世紀頃の話です。この手紙が書かれたのは紀元後67年頃ですから、今私たちが持っている聖書とは違います。

 ユダヤ人たちが、紀元前5世紀頃からまとめはじめたのが、現在の旧約聖書につながっていると言われています。この手紙が書かれたころは、現在の聖書のように正典化された聖書は無かったのです。

 にもかかわらず、その受け継がれているまだ未完成の聖書を研究し、唯一なる神に関する記述を集めて、それを総合し、互いに学び、信じていくのであれば、それはイエス・キリストに必ず行き着くという確信をパウロは持っているし、事実その通りなのです。

 旧約聖書はキリストを証しする書物です。そして、新約を読むことを許されている私たちは、昔の人達よりもさらに正確に旧約聖書の意味を読み取れるということなのです。

 新約を知っているクリスチャンこそが、実は旧約を正しく読むことができ、旧約に記されている宝の言葉を味わい、受け止め、その力を得て神の業を行っていく人々なのです。

 旧約に描かれている神は、国を動かし、海川山を動かし、天候まで動かし、裁きをくだし、あまりにもこの現実に対して奇跡を行いすぎだろうというような認識を持つことがあります。だから新約に描かれた人間イエスにだけ注目しよう。心の内側にはたらきかけて、心を変えるだけの神を信じよう。という信じ方はおかしい。旧約からずっとつながって、決して変わることの無い神がキリストにおいて私たちに顕現された、あらわれたのです。

 主イエスを通して、神は、父、子、聖霊であることが示されたのです。ということはどういうことかというと、私たちの近くにお越しくださり、人間の姿を取られたあのお方が神であり、今も私たちに仕えてくださるということです。さらに、聖霊が私たちの内側に住み、私たちの心に深く影響を及ぼしてくださるのです。現臨する聖霊です。この御方は天の父と全く同じお方。全能の力を有したお方であるということなのです。

 旧約で起こった奇跡はもう起こらない、イエスの人間性だけを信じればいい、では全くない。イエスは完全に人であり、完全に神であるのです。だから、旧約の人々よりも深く、大きくしかし近くに神を体験できるのです。旧約で起こった奇跡は、私たちの上にむしろ起こるということです。

 イエス様の救いによって、この聖書全巻に一本筋が通りました。異邦人である私たちが理解できる。神のご命令のままに生きることができる、その道が示されています。

 特に旧約聖書の中にキリストの姿、三位一体、父と子と聖霊なる神の姿を見られる様になった私達には、この聖書を通して驚くべき視野、洞察力、力が与えられています。偉大なる神、仕えて下さる神、今ここに現臨なさる神。パウロが牢獄にいれられ、脅され、処刑されていくその中でも、輝き続ける命に生きることができた、その神の命そのものを受け継ぐための言葉が記されているのです。アーメン。