サムエル記下6章12〜16節 「喜び、踊る」

 神のご臨在があることだけが、私たちの喜びです。この世の喜びなど取るに足らない。この世の喜びはすぐにどこかに消え去ります。やがて手放すべきものとして手渡されたのが、この世の富や、地位や、名誉です。このことをしっかりわきまえていなければなりません。これが最高のものではなく、持っているものはやがて誰かのために捨てるべきものであることに気付くべきです。やがて誰かのために手渡されるものとして与えられていると言ってよろしいでしょう。

 永遠に私たちが得ることができるものは、主が共にいてくださるという、インマヌエルなるキリストの命です。イエス・キリストのご臨在。これだけが私たちに永遠に与えられるものであり。この肉の命以上に大切な永遠の命です。

 私はこの児童祝福礼拝の朝、自分の子ども二人に、このキリストの命だけを持って、それ以外のものは思い切って捨てることができる人生を生きて欲しいと心から願いました。そのための教育をするということを心に誓いました。今までも思ってきたつもりでしたが、まだまだ不徹底だったと思います。

 他に何もなくてもいいけれども、神の前にひざまずくこと、礼拝をささげること、祈りを捧げること、神の言葉である聖書から聞くこと。これを、すべてに先立って最優先していくことができるように。もしも、富とキリストどちらを選ぶか問われた時に、即座にキリストを選び取ることができるように。もしも、地位とキリストをどちらかを選ぶか問われた時、即座にキリストを選び取ることができるように。もしも名誉とキリストを選び取ることが問われたときに、即座にキリストを選び取ることができるように。

 そのためには、毎日欠かさず祈ること、毎日聖書の言葉を読む時を持つこと、デボーションやQTクワイエットタイムと呼ばれる黙想の時間を十分に持つこと、クリスチャンの基本の基本。野球でいったら素振り、基本練習。これを徹底していくことを教えていかなければならないと思っています。

 主のご臨在を失わないためです。主イエスは、次のように教えてくださいました。マタイ6:6。

 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

 主イエスの名によって祈るその祈りの中に、天の父はご一緒してくださるというのです。これはキリストの言葉です。約束の言葉です。決して破られることはない、私たちの言葉のような不確かなものではない。絶対的に守られます!

 ということは、主の名による祈りの時がどれだけ尊いものであるのか分かると思います。隠れたことを見ておられる父が必ず報いてくださるというのです。祈らないではおれません。まさに、祈りにこそ人生を賭けるべきであることがわかります。

 他のものに人生を賭けていませんか。能力や富や地位や名誉や人望や人を動かす力。それは頼りになりません。祈りに人生を賭けてください。また、主イエスはこうもおっしゃられました。マタイ18:19。

 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。

 「はっきり言っておく」という原典の言葉であるギリシャ語は「アメーン、レゴーヒューミン」という言葉であり、「本当に、あなた方に真実を告げますよ」という意味合いがあることを聞き取っていただきたいと思います。主の御名による祈りの場に、主ご自身がご臨在くださり、その小さな祈りのすべてを聞いてくださることを、主イエスは約束しておられるのです。

 本当に必要なのは、物でも、財力でも、能力でも、影響力でもなんでもない。本気で祈る仲間だけが必要なんだ!ということに気付かされるのです。

 もうこうやって礼拝している時点で、必要なすべてが整っているということです。あとは、本気で祈るかどうかということだけなんですね。

 

 旧約の時代は神のご臨在は、契約の箱にありました。もちろん、神はオールマイティなおかたであり、どこにでもご自身を現すことがおできになります。だから、主のご臨在は契約の箱だけに限られているというわけではありませんでした。人の上に主の霊がとどまるということもありました。

 しかし、基本的に契約の箱を主のご臨在の象徴として皆が大切にするべきものでした。契約の箱は、臨在の幕屋の至聖所に安置されていましたが、イスラエルの民が定住しますと、やがて主のご臨在のために神殿を建設するようになります。

 神の箱は、アカシア材でできた直方体であり、横の長さが約1メートル10センチ、高さが約67センチ、幅が約67センチです。巨大なものではありません。箱は純金で覆われていました。運搬用の棒を四隅に差し込む輪がつけられていました。人間が担いで運ぶことができます。特に重要なのが、箱の蓋でした。「贖いの蓋」と呼ばれて、蓋の両側に翼を伸べた二つのケルビムが置かれました。ケルビムというのは天使のことです。そのケルビムとケルビムの上に主がご臨在なされました。

 箱の中には、十戒が刻まれた二枚の石板、マナが入った金の壺、芽を出したアロンの杖が納められていました。

 出エジプトの荒れ野の旅において、ヨルダン川を渡るときにも、契約の箱は先頭を進みました。約束の地であるカナンに入国後、箱はギルガルに運ばれ、さらにシロに移されました。預言者サムエルの時代に、ペリシテ人との戦争おいて、神の箱がベン・エゼルという戦場にまで持ち込まれ、その結果ペリシテ人に奪われてしまいました。しかし、神の箱はペリシテ人に災難をもたらしたので、イスラエルの地にペリシテ人神の箱を返還せざるを得なくなりました。それ以降、ずっと神の箱は、キルヤト・エアリムにとどまっていました。

  

 サウルが死に、サウルの後継者による内紛が起こり、それもおさまってダビデに王権が巡ってきました。すべて神の業がなるようにと願い、自ら軍隊を出動させて内紛をおさめたりすることの無かったダビデです。ただ、主の民が、兄弟が、主のもとに一つになり、主への信仰によって生きるようにと考えていました。自らも主への信仰によって生きたダビデが王となりました。

 王となったダビデがはじめにしたことが、都をエルサレムに移すということでありました。神さまはこの場所に神殿を建設することを許してくださり、礼拝の場が整えられました。神は、ご自分が選ばれたイスラエルの民の中に、礼拝をささげる場所を特別に定め、どこででもいけにえをささげてはならないと、言われました。申命12:13〜14。

 あなたは、自分の好む場所で焼き尽くす献げ物をささげないように注意しなさい。ただ、主があなたの一部族の中に選ばれる場所で焼き尽くす献げ物をささげ、わたしが命じることをすべて行わなければならない。

 この場所は、神が設計され、ダビデを通して遷都することができたエルサレムの町にある神殿です。神はダビデを喜ばれました。なぜなら、ダビデはいつも主のご臨在の前に跪き、主に礼拝をささげる喜びを慕い求めていたからです。詩編27:4。

 ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のあるかぎり、主の家に宿り/主を仰ぎ望んで喜びを得/その宮で朝を迎えることを。

 主のご臨在のもと、長時間神を礼拝し、その結果朝を迎えてしまうこと、喜びの礼拝を命の限りささげつづけるということを彼は心から願っていたことがわかります。そのようなダビデを主は世界の救いのために用いられたのです。ダビデの働きはイエス・キリストへとつながる働きです。

 遷都し、宿敵ペリシテ人を倒し、安定を得たらすぐさま神の箱をエルサレムに安置することができるようにと取り計らいます。しかも、ペリシテ人たちの掃討に使った同じ数の兵隊3万人を用いて、ダビデは丁重に、全勢力を賭けて神の箱を移動することにします。どれだけ深く神さまのことを大切に思っていたことでありましょうか。自分の命を守る以上の兵隊を使って、命をかけて神の箱を移動します。

 先代のサウル王の時代、ほとんど神の箱の存在感がありませんでした。というのも、王であるサウルが契約の箱を、すなわち神さまご自身を大事にしていなかったからです。彼は主に従う生活をしていませんでした。祈りのために時間を使うような生活じゃなかったのです。サウルは神に従うのではなく、自分の王権を守るために神を動かそうとしました。いわゆるご利益信仰だったのです。

 私を神が都合よく助けてくださるから、神に礼拝をささげ、神を信じようとする。これがサウルの信仰でありました。

 神さまが求めておられるのは、都合よく、好きな時にではなく、「いつも」神さまからいただいた愛に感謝しようと、「常に朝早くから起き」、自分を捨て、主の御言葉に従っていこうとするものです。その神に従う従順なもの主は祝福なさるのです。まさにダビデですね。

 ダビデの思いは詩編に残っています。彼がどれだけ徹底して、主への思いをつのらせていたことか。この世が存在する限り、いや永遠に彼の詩は残り続けるでしょう。しかしサウルの詩編というのは残っていません。神を自分のために利用しようとしていたに過ぎないからです。

 しかし、ダビデといえども人間であったということが今日の箇所から読み取れるところです。ダビデは失敗するのです。

 悲しいことに長年神の箱から遠ざかる生活をしてきてしまっていたからでしょうけれども、神の箱をどのように扱わなければならないのかということがわからなくなってしまっていました。その結果、罪を犯してしまいます。

 アビナダブの子ウザとアフヨ。この二人はレビ人であり、神の箱を扱う事ができた人であったと思われます。そうでなければ、その家に神の箱を安置するなどということはありえないからです。聖書学的な研究によると、アビナダブがレビ族であったか否かに関しては意見が分かれるようです。しかし、話の流れからするとレビ族と考えるのが妥当だと思います。

 さらに、この神の箱を扱うことを許可されたレビ人でも決してしてはならないことがありました。それは、神の箱に手で触れるということです。人は罪深いがゆえに、神の顔を見ることは許されていない、見たら死ぬ。さらに主に、触れても死にます。あまりにも聖いお方だからです。

 だから、私たちはキリストの血潮によって清められなければ、決して主との交わりの中に入っていくことはできない。それだけ聖なるお方なのです。しかし、その神に対する恐れを失ったとき、人間は神を適当に、やたらとなれなれしく、好きなようにあしらい。自分の思いのママの好きな神に造りかえてしまうのです。これが偶像礼拝です。

 だから、神の箱に対する態度は、最大の恐れをもって、畏敬をもって、注意を払って、慎重になされるべきものでした。しかし、もう神の箱がずっと家にあるものだから、このアビナダブの子、ウザは慢心したのです。触れてはいけないものに触れた。

 まさか、祭司の家庭、神の箱を扱うことが許されていた家系であれば、どうすべきかという教育がなされていなかったはずはないと思います。しかし、神の聖ということを甘く見た。その結果死を招きました。

 ずっとそばにあると慢心してしまう。すると恐ろしい結末を招きます。死を招きます。

 ダビデは、この出来事の後、猛勉強の時を持ちます。サム下6:11。

 三ヶ月の間、主の箱はガド人オベド・エドムの家にあった。 

 道の途中でこのままではまた裁きを招きかねない、学んでから出直し態勢を立て直さなければとダビデは自覚しました。とにかく安置できる家に安置しました。この並行箇所が歴代誌上15章になります。歴代上15:13。

 最初のときにはあなたたちがいなかったので、わたしたちの神、主はわたしたちを打ち砕かれた。わたしたちが法に従って主を求めなかったからである。

 ダビデは人材を呼び集めました。神の箱に関する知識を持っている、レビ人たちを召集し、これまた全勢力をかけて律法を研究し、万全の態勢をもって契約の箱を運ぶことに挑みました。

 サムエル記下6章12〜14節のダビデの姿を見てください。彼は神の箱をエルサレムに運び入れますが、一歩一歩を大切に細心の注意を払って、喜び踊りながら、命を賭けて、神の箱を運び入れていることがわかります。6歩進んだら捧げ物を捧げる。どれだけ一歩一歩を大事にしていたことか。その一歩は、神の御前における一歩なのです。捧げ物を献げたと書いてありますが、これもしっかり律法に従って祭司を使ってささげさせたに違いありません。一国の王が、さらに、主の前に喜び踊ります。麻のエフォドを付けて、祭司たちがつける服です。神の御前における自分の態度や服装までも、徹底的に主の前におるということを意識して、神に彼は没頭しているのです。力の限り踊ったと記されています。全力です。

 後に妻はその姿をみて、心の内に蔑んだと言います。

 一心不乱に神のことに没頭している姿が、ひざまずくような思いで主に仕えている姿が、皆の上に立つ王の姿としてふさわしくないと思ったのでしょう。しかし、そのダビデを主は祝福し、蔑んだ妻ミカルに主は呪いを与えられました。

 キリストの子どもたちである皆様は、ダビデのように永遠に残ることのためにご自身を使ってください。決してダビデの妻ミカルのように自分が主のために低くなることを拒み、人の目を気にして、その働きが永遠に無に帰すような歩みはしないでください。主に心の底からの叫びをあげ、祈りをささげ、自分は徹底的に跪き、主が高められる事を願い、そのことに没頭するのならば、永遠に残る仕事ができます。なんて幸いなのでしょうか。アーメン。