サムエル記下 7章8〜17節 「とこしえの王座」

石井 和典牧師

 聖書は神さまの約束の言葉に満ちています。神の約束が歴史を通して実現していったことの集大成が旧約聖書です。預言の実現というものです。預言が実現しなければ、聖書として残されることは無かったと思います。しかし、主がおっしゃられたことがそのまま実現しましたので、皆が神の言葉として信じ、命をかけて受け継いで来ました。

 さらに言うならば、預言の言葉には、現代に対する預言までも含まれているものが沢山ございます。神さまの御業は常に変わらず、アブラハム契約から引き継がれ守られているものです。アブラハムが生まれたのはBC2166年と推定されています。アブラハムがカナンの地に移住してくるのがBC2091年頃ですから、4千年前の神さまとの間に結ばれた契約が今も貫かれて守れているということを知ることができます。アブラハムに主が約束してくださったことは、創世記12:1〜3に記されています。

 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」

 アブラハムは神の祝福の源です。なぜ彼が祝福の源となったのかというと、彼はただ神を信じたからです。創世記15章6節。

 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

 信じるということだけをもって与えられる神の義。神との義しい関係。それをアブラハム契約が私たちに教えてくれているのです。使徒パウロが書いたローマの信徒への手紙4:16にこのように記されています。

 従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。

 信仰によって、アブラハムが私の父となり、皆さんの父となり、アブラハム契約に預かる民となり、この民は、世界に神の祝福を広め、世界の民を祝福する民となるということです。BC2000もの時代から、神の約束、預言の言葉は一貫して貫かれ、それが地に堕ちて、消えてしまうということは決してありません。

 皆様は選ばれた民です。こうやって神を、キリストを、聖霊を中心として礼拝をささげる民というのは特別な民です。その皆さまには使命がございます。特別に選び、祝福され、恵みをいただけるのは、皆様がこの世において使命を果たすためです。神さまがずっとむかしから私たち人類に対してなそうとしておられることは変わりません。BC1400年ごろに与えられた、十戒。その十戒の前に、主はその使命を語っておられます。選ばれた民の使命です。出エジプト記19:3。

 「ヤコブの家にこのように語り/イスラエルの人々に告げなさい。/あなたたちは見た/わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを。/今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝の民となる。/世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」

 選ばれ救われた民に対して、主はその民を「宝としてくださる」というのです。磨き、鍛え、神の光を輝かせる宝にしてくださる。試練はすべて神の光を輝かせるためのものです。さらに、祭司、聖なる国民ともしてくださる。祭司というのは神さまと人とを結びつける役割を担った人です。神と人とが結びつくことによって祝福を受けます。さらに、聖なる国民というのは、「世俗と、世とは違った民」として召されることをもってして、神の証の民となるということです。神さまの聖なるご性質が反映されて、神の選ばれた民を通してご栄光が示されて、神が確かにおられることを、生きておられる主の姿が証しされます。

 その姿を見て、これまで神さまを知らなかった人々が集められて、祝福が広がっていくのです。

 神と人とを結びつける祭司としての役割を担っているということと、世とは隔たった、聖なるというのは「分離する」という意味がありますので、世とは違うものとさせていただくことをもって証が立っていくということです。

 主イエスがおっしゃられた選ばれたものたちへの使命についても触れましょう。マルコ16:15です。

 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」

 福音を聖書を持って行って宣べ伝え、新しい命を受ける洗礼を授け、聖霊を受けるように。そして、あらゆる問題を抱えている人の傍らに行って、主イエスの御名にすべてを賭けて祈るようにと主は教えてくださいました。

 これらは全て、神が願われていることなので、実現します。また神の御手に自分を合わせ、神の御心を行おうとする人に、主はご一緒してくださり、ご自身の業を行ってくださいます。これは私たちができそうか、できなさそうかということは関係なく、主の約束の言葉なので実現します。信じ、洗礼を受け、聖霊を受け、祈りをささげつづけることをもって、主の業を行わせていただきましょう。

 さて、預言の実現ということで話してまいりましたが、本日の箇所には、ナタンという預言者が出てきます。ダビデの王国関連のことはBC1000年頃のことだと記憶してください。この頃、神殿は存在しませんでした。神の箱はダビデの王宮の外の天幕に安置されていました。ダビデは自分の王宮は当時の最高級の建材である杉で出来ているのに、全知全能の、世界を造られて、自分を守り通してくださった神様の住まいは、まぁ、みすぼらしい天幕だということに我慢がならなくなりました。

 神の箱こそ、自分の王宮よりも立派な建物の中に安置されるべしとダビデは思いました。それは純粋なる神への愛から湧いてくる、まぁ、あるところ人間的な感情でありました。神は霊であられますので、この世にスペースを、場所をもって、物に依存して存在するお方ではありません。だから、住みかなど必要とされません。神さまには、この地球の大自然こそがご自身の思いのままの庭です。偉大な、宇宙を支配しておられる神さまです。

 ナタンという預言者は、ダビデの王宮に常に出入りしている預言者で、ダビデに助言を与えていました。ダビデに信用されて、ダビデが頼りにしていた預言者です。非常に優れた、純粋な、信仰にまっすぐ立っていた人です。しかし、このナタンが間違ったアドバイスをダビデにしてしまいます。間違ったアドバイスはサム下7:3。

 「心にあることは何でも実行なさるとよいでしょう。主はあなたと共におられます。」

 本当に重要なことは、まず主に聞かなければなりません。祈りを失ったときに、ダビデは度々間違いを犯してきました。ナタンも、主の神殿に関する非常に重要なことであるので、これは主に聞かなければならなかったのです。自分たちの判断で決めてはならないことでした。しかし、ナタンは主にお伺いを立てていません。これは、小さなことのように思えますが、しかし、小さなことではありません。信仰生活を続けておられる皆様はわかると思います。祈り御心を求めて行動するのと、自分の思いで行動するということには、埋めがたい違いがあるということ。御心を求めるということは、祈らないでは不可能です。祈りこそ、神と共に歩んでいくために必要な入り口です。

 ここを通らないがゆえに、御心がわからないのです。単純なことなのですが、実行するのが預言者ナタンでも難しい、というよりも本当に意識して実行していかないと、すぐに自分の判断で物事を決するという方向に人はながれるということです。しかも、なんだか信仰的な判断をしているようには外からは見えます。ナタンは、「主があなたとと共におられます」と、信仰告白をしているのです。しかし、彼は祈っていなかった。その結果誤ったアドバイスをダビデにしてしまいます。

 ですが、常に主に向かう生活をしている人にとって幸いなのは、主は「間違っているよ」と生活の中で教えてくださるということです。夜、夢の中に、幻の中に主は現れてくださって、間違いをただしてくださいました。

 私には家など必要ではないと主はおっしゃられます。歴史の中に見えない神さまのお働きがどれだけ沢山あったことか、どんな場面においてもそこに住まいを必要としていたかといえばそうではなかった、神の臨在の幕屋を民のために神さまはご準備くださったのであって、神のためにそれがどうしてもなければ住む場所がないということでは全くなかった。全ては民のため、民を導くため、民を信仰に生かし、成長させるためです。神がいかにエジプト人の手から、厳しい荒れ野の難から民を守ってくださるのかを示し、教えるために必要だったわけです。

 また、考えてみれば、ダビデの人生の中にももう動かしがたい歴史、神がなしてくださった過去があるではないかとおっしゃられるのです。神は見えない、しかし、明確にご自身の働きをその人の歴史、人生に貫いて、その中に主の業を見ることができる。神は確かに私とともにと言うことができる。そのような人生をダビデに与えていたではないかとおっしゃられます。

 確かに、ダビデは一人の小さな羊飼いに過ぎませんでした。一国の王になるなどと誰が考えたのでしょうか。しかし、神さまはダビデの荒れ野での主に対する態度を見ていてくださったのです。神さまにダビデが愛されているように、小さな羊に対しても愛を注ぐその心を主は御覧になられて、別に一番強そうだったわけでもない、むしろ強くなく、弱いそのダビデを王とされたのです。「牧場の羊の後ろからあなたを取って」という言葉はそのような意味です。しかし、その小さなものを、どんな地上の大いなる民にもならぶ名声を与えると言ってくださるのです。

 そして、サム下7:10。

 主があなたのために家を興す。

 あなたが私のために家を造るんじゃなくて、私があなたの王朝を造り興し、守るということです。その王座はとこしえの王座となるとおっしゃられます。

 ダビデは、非常に美しい祈り。まさに神が望まれる祈り。感動的な祈りをささげます。サム下7:18以下です。

 この祈りの構成は、前半が全て讃美、感謝、喜び。後半が神の御言葉の成就を願う祈りとなっています。

 神のためにおこがましくも家を建てようなどと言っていたダビデは打ちのめされて、お前は間違っていると言われ、しかし、その中で、わたしがあなたの家を建てようと主が驚くべき言葉をくださった。しかも、その王座がとこしえであるということを告げられて、もう圧倒されて、涙しながら祈っているダビデの姿がここにあります。

 主イエスはある時おっしゃられました。マタイ6:33。

 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすうれば、これらのものはみな加えて与えられる。

 ダビデがまず祈っているのは、自分の願いとかこうあってほしいとか、自分がどれだけ幸せに生きることができるだろうかとか、そんな自分中心の祈りではありません。神が中心になっている祈りです。神はどうお考えだろうか、神はどうしたら喜んでくださるだろうか。神のご支配がまことに民に浸透するためには。そのために、主の神殿を建てようと、それはこの時は、御心ではなかったのですが、しかし、彼は主を中心にしようとしていました。その思いに主がお応えくださって、驚くべき預言を残してくださったのです。

 しかも、これはイエス・キリスト、全世界への救いと繋がる預言です。人類の決定的な救いにまで至る。スケールの大きな、この2017年の日本にまで届く御言葉です。その預言を今から3000年も前に、主はダビデにお語りくださいました。

 神中心の人生を建てあげようと志を建てるものに、主はどれだけの恵みを持って応えて下さる方なのでしょうか。ダビデから学んでください。主は永遠に変わらないお方です。そのスケールの大きなに気を失いそうになりますが、しかし、この主と共に歩ませていただける。それがキリストを信じ、キリストのものとなるということ。祈りにこの身を投じていくということなのです。

 ダビデの祈り、もう読むのが楽しみで仕方がない。詩編を読んでください。主が私たちに対し、なしてくださることが書かれています。それゆえ、主を讃美してください。これらは約束の言葉です。主は同じようにしてくださいます。ダビデの祈りの中に、私たちが祈るべき内容が示されております。感謝、讃美、御言葉の成就。これをまず祈る民にさせていただきたいと思います。主の霊が注がれるように、主の御名によって祝福します。アーメン。