列王記上8章27〜34節 「神殿」

石井 和典牧師

 ダビデの次の王、ダビデの子ども、バト・シェバとの子ども、ソロモンの神殿建設について見ていきます。ソロモンは知恵の王です。ソロモンは晩年は問題だらけの人でありましたが、若い時は非常に純粋でありました。ダビデの信仰を引き継いでいました。ソロモンは父の信仰にならい、ギブオンという場所で焼き尽くす献げ物をささげました。ギブオンという場所には「聖なる高台」と呼ばれる場所があって、そこで、全能の神に対して献げ物がささげられていました。この「聖なる高台」もはじめは純粋であったのですが、後に変質してしまい、全能の神を崇める場所ではなくなってしまいます。本当に気を付けないと私たちはすぐに変質してしまうということを象徴的に私たちに教えてくれます。

 ソロモンの見習うべき純粋さは、自らの王位が安定的に保たれると分かった時、まず神に献げ物をしに行ったというところです。神に感謝を捧げるために神の祭壇に行ったのです。人は往々にして勝って兜の尾をしめるということができないものです。すべては神さまがくださったものであるのに、その神に感謝することを忘れて、自分のやりたいように生きていく。そういう人が多いものですが、ソロモンはダビデに倣って神に感謝をささげました。プロジェクトが達成されて、お祝いだ、さぁ、宴会。じゃなくて、神に感謝を献げることこそを、聖書を与えられている民がすべきことでしょう。

 ソロモンの捧げ物の数はすごいです。一千頭の動物です。牛、羊、山羊がささげられました。犠牲の動物の頭に手を置き、献納者の罪が動物に移行し、汚れや罪がすべて動物にうつることによって、さらにそれが焼き尽くされることによって清められる。血を祭壇の四隅に注ぎかけるので、非常に血生臭い儀式となりました。

 焼き尽く献げ物は、すべてを捧げ尽くしてしまって燃やし尽くしてしまうので、すべてが神に献げられるというところに非常に重要な意味がありました。

 罪の赦しと神へのまったき献身をその焼き尽くす献げ物はあらわしました。

 ソロモンの罪への意識と、そこからの清め、また神への献身の思いというものの強さがこの、千頭という数があらわしています。神への献げ物というのは、どこまで献げたらOKとか、第三者が判断できるものではありません。ソロモンほどの力ある王であれば、千頭はささげることができる数なので、ソロモンは与えられているその財力に応じて、精一杯のささげものをしたのです。

 ソロモンの並々ならぬ思いが注がれていることがわかります。通常一匹ですが、千匹です。一頭でも一般庶民からすれば経済的には痛手ですが、ソロモンは王であるゆえに、千頭でありました。

 その時の、ソロモンの信仰告白が素晴らしいので、その告白を見ていきたいと思います。

 列王記上3:6。

 「あなたの僕、わたしの父ダビデは忠実に、憐れみ深く正しい心をもって御前に歩んだので、あなたは父に豊かな慈しみをお示しになりました。

 神が憐れみ深いように、神と交わりをもつものは憐れみを心に抱くようになり、そのまま隣人にも接するようになります。憐れみ(ラハミーム)というのは女性の子宮(ラハム)をあらわす言葉が使われていて、母親が子どもを生み出すように、子どものために自らが痛みを負って育て上げていくというような思いです。母性的な思いです。そのダビデに対して豊かな慈しみを神さまはお示しくださいました。慈しみというのは、契約をし、約束をし、その約束を忠実に守り抜く愛です。ダビデに永遠の王座の約束を与えられたことを先週共に読みました。

 神さまは一体どんなお方であるのか。そのことを体験し味わい、信じていた。率直に愛する主に向かって主のご性質について讃美の声をあげています。さらに、ソロモンは主の前に決して高ぶることなく、謙遜でありました。列王記上3:7。

 わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。

 讃美と謙遜、このような祈りが出来たらと思います。主はこの祈りを非常に喜ばれます。しかも、自分のために祈るのではなくて、神の業としてイスラエルを統治するための賜物を求めているソロモンを主は非常に喜ばれます。列王記上3:10。

 「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ王はいない。」

 神さまはソロモンの祈りを非常に喜んでおられます。このソロモンの言葉というのは、一千頭の焼き尽くす献げ物のを献げた後、神さまから「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われた後の祈りでありました。彼の祈りは。

 あれもほしい、これもほしい、もっとほしい、もっともっとほしい。

 というような祈りじゃなかったのです。むしろ神のために自分を、一千頭をささげてしまって、神のために自らが用いられるために必要なものを備えてください。という祈りでした。そのソロモンは、あっとうてきな祝福で満たすのです。

 ただ主を讃え、謙遜に自らの使命を達しうるため、神からのお支えがいただきたいと願ったのです。

 

 皆様は、神から頂いた使命をハッキリと認識して、それを実行しようとしていますか。

 そうでなければ、「神の業のため」という祈りはできません。自分中心のどこまでも発想で自分が幸せになる道を人は求めるだけです。神さまへ信仰に生きている民はそうではなくて、ソロモンのように、主の与えてくださった使命に立ちます。すると主はお喜びくださり、祝福を増し加えてくださるのです。列王記上3:12。

 見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶものはいない。わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。

 神さまというのはこういうお方なのですね。主にささげ、主に従い、主を讃え、主の使命のために自分をささげていく人、そのために必要なものを求める人に、恵みを次々と与えて満たしてくださるお方です。求めなかったものまで下さるのです。

 自分への行動指針や、子どもへの教育方針を根本から考え直さなければならないことがここに書かれていると思いませんか。主イエスも、「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうれば、これらのもの(必要なもの)は加えてあたえられる」とおっしゃいました。しかし、私たちが教わってきたことというのは、まずこれらのもの(必要なもの)を自分の手で得ることができるようになりなさい。そこから、自分の夢を達成しなさい。もちろん日本の教育の中に神は出てきませんでした。

 しかし、そうじゃない。神のために自分を献げてしまうもの、そして、神の業のためにこの身を使ってほしいと願うもの、そのために必要な能力、必要な事柄をくださいと願うもの。そういうものを、主は圧倒的な祝福で満たし送り出してくださるというのです。 

 神から与えられる使命を知るためにはどうしなければなりませんか。聖書を読まなければなりません。そして、祈りの中に沈潜していかなければ、具体的に何をすべきなのか示されません。何を放り出しておいても、まずすべきは、聖書と祈りです。私たちの思考パタンは常に逆になっているということに気づいてください。そして、これに気付いて改める民を神が圧倒的な祝福で満たしてくださると信じ、主の御名によって祝福いたします。

 そして、この対話の後、ソロモンがしたことは。列王記上3:15。

 ソロモンはエルサレムに帰り、主の契約の箱の前に立って、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげ、家臣のすべてを招いて宴を張った。

 また、献げ物をしています。千頭もの動物をささげたすぐあとですよ。しかし、彼は主の恵みのあまりの偉大さに、またさらに献げ物をして、そして、主はそのソロモンをもっともっと財で満たしてくださるのです。主に感謝をささげたあとに、宴会!です。順序が極めて重要なのです。

 信仰に生き始めるとどんどん、誰かのために献げ物をしたくなりますね。これは皆様体感的に理解してくださっているのではないでしょうか。神の恵みに生き、感謝が溢れてくると、献げ物を誰かのためにしないとおれなくなります。恵みがしっかりと見えているからですね。しかし、恵みが見えていないと、もう誰のためにもささげず、全部自分のために与えられたものを使うようになります。

 そうすると不思議なことに感謝できなくなるんです。感謝を失うと、心は冷め、さらに献げ物をしなくなり。もう、本当に人間わかりやすいと思いますよ。私も自分のこれまでの生活を見ていても明らかです。恵みに満たされているときはどんどん誰かのために献金したいという気持ちが湧いてくる。でも、そうでないときは、どんどん縮こまって、何も新しい展開がなくなっていくんですよね。開いていかないと、自分の人生どんどん閉じこもります。

 それから、傲慢さというのは私たちにとってはひとかけらも役に立たないということが、聖書を読んでいたら、もう皆さんよく分かっておられると思います。神の前で謙遜であること、人の前でも、常に変わらず。傲慢であることによって、何か生み出されるかといえば、何もなく、むしろ破壊と戦いを生み出すものとなり、神から裁きを受ける結果ともなること。預言書を見ていればわかります。傲慢さは毒です。何の役にも立ちません。ですから、主への信仰に生きる皆様にはこれらは即座に捨て去っていただいて、謙遜に主に跪く生活をし、祝福を目一杯受けていただきたいと思います。

 ダビデ契約で「神の慈しみ」の中で、語られたとおり、ソロモンが神殿を建築しました。神殿建築後の祈りも真にすばらしいものであるので、ご一緒に見てまいりたいと思います。ソロモンは冷たい神殿の床に跪き、両手を天に向けて叫び祈りました。本日朗読された箇所を見てください。列王記上8:27。

 神は果たして地上にお住いになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。

 神が座してくださり、その神の聖さ、すばらしさに叶う場所などどこにも無いというのです。これは讃美ですね。あまりにも偉大なので、その偉大なるお方をお納めできるような大きさもないというのです。ただ、主が目を注いでくださって、神殿を祝福してくださって、この場所を目指して祈るものの祈りをお聞きください。すなわち神殿はその主のご臨在の象徴として、主よどうか顧みてくださいと祈っておるのです。

 クリスチャンは、もっともっと偉大なる奥義を主からいただいております。それは私たち自身が主の神殿であるという奥儀です。主が聖霊によって内に住んでくださっているというのです。コリントの信徒への手紙一6:19。

 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。

 皆様はすでに神殿。その祈りは即座にすべて聞かれます。だから、神の思いで心を満たし、聖霊で満たして、この世のその他のもので満たしてはならないのです。この世のもので心を満たしていると、祈りの賜物を行使できなくなります。祈らなくなります。祈りが聞かれるという確信もなくなります。ますます祈らなくなります。

 祈りによって答えられる内容についてソロモンは教えてくれています。列王記8:30以下が、具体的にどう主がお応えくださるのかわかりやすくまとめられています。

 民が隣人に罪を犯しても、その罪を告白するなら、その祈りを聞いて赦しを与えてくださる。国のために祈るなら、その祈りを聞いて回復してくださる。不従順のゆえに雨がふらなくなったら、祈れば雨を与える。伝染病を起こされたときも、祈るならば癒される。国が滅んで捕虜となってしまっても、祈るならば、連れ戻してくださる。さらに、異邦人も祈るならば、祈りをすべて聞いてくださる。

 ソロモンは確信をもって以上のような内容を祈ったのです。神にはこのようなお力があり、今までの歴史においてこのように応えて来てくださった。この永遠に変わらない神さまがお働きくださったらこのようなことが起こるんだと。

 信仰の確信に満たされているソロモンに主は、列王記上9:4で次のような言葉をおっしゃいました。

 もしあなたが、父ダビデが歩んだように、無垢な心で正しくわたしの前を歩み、わたしがあなたに命じたことをことごとく行い、掟と法を守るなら、あなたの父ダビデに、『イスラエルの王座につく者が断たれることはない』と約束したとおり、わたしはイスラエルを支配するあなたの王座をとこしえに存続させる。

 神に対する真っ直ぐな、あの初めの頃の無垢な心をもって、ただただ、聖書を読み、反芻し、守り、歩み、実行していくなら、イスラエルの王であるという圧倒的な恵みを私が守ろうと言ってくださるのです。

 ダビデの王座、ソロモンの王座、永遠の王座、イエス・キリストの王座。王と言われてピンと来ない。そんな状態でいないでいただきたい。皆様が王の子どもたちなのですから。キリストを信じるものは王の子どもたちです。ヨハネによる福音書14:12で、主はこのようにおっしゃられました。

 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。

 もし、皆様に今使命がなく、神の守りを確信できず、主の祝福の約束を信じて、雄々しく前に足を踏み出すことができないのなら、生き方を変えなければなりません。そうしなければ、これから先の祝福の人生はありません。

 ソロモンは、どんな人でも、帰ってくるもの、悔い改めて方向を変えるもの、そのものを迎え入れてくださるようにと祈りました。主イエスは、皆様が帰って来て、王の子どもとしての面影を宿すことができるように、ご自身の身を献げられました。もう、飼い主のいない羊のような歩みは止めて、神の言葉と愛の応答である祈りに専心したいと思います。

 祈りの宮である、主の神殿を築きたい。

 私の家は、すべての国の祈りの家と呼ばれるべきである。アーメン。