ルカによる福音書 2章8〜20節 「まず羊飼いのもとに」

石井和典牧師

 大ローマ帝国の皇帝アウグストゥスの力によって救いが成るのではありませんでした。田舎の小さな家族の中にこそ救いが起こされました。主は救いを起こされます。しかし、それは人間の力によってでは全くありません。

 こんな力なきところにどうして、というところに。こんな弱気もののところに、これだけ力強い、栄光に満ちた主のお働きがどうして、と誰もが首をかしげるようなところで主の業は行われます。

 その業は、愛に満ちたものです。後から皆が振り返って見ていくのならば、その一歩一歩に光が、暖かさが、癒やしが満ちている。マリアとヨセフの一生懸命な歩みを見てください。決して特別な才能を持った人ではありません。もちろん純粋で神さまに愛された人です。しかし、何かを人よりも多く持っていたからというわけでは全くありません。ただただ、主に委ね、主の力の前で自分がしもべでしかないことを認めた人です。ヨセフのことをマタイ福音書は正しい人と表現していますが、正直で、神の命令に忠実な人という意味です。

 いずれにしろ彼らに力があったわけでは全くありません。ただ、主の業が、目に見えない聖霊が、彼らを包んでいました。行くべき場所に彼らは行くことができ、彼らはなすべきことをすることができました。彼らの行動はすでに、預言書の中に記されていました。神のご計画の内だったのです。彼らがベツレヘムで子どもを産むこと、その子どもは、イスラエルを治めるものであること。その子どもは、永遠の昔にその出生を遡ることができるということ。それはすなわち神であるということです。

 イエスが神である。この言葉を何度も、この口をもって告白して来ましたが、この言葉以上に癒やされる言葉はありません。

 ちょうど私のように、遠くから第三者のように群衆としてだた眺めていた私たちのところに、イエス様がお越しくださいました。その御方が、この世の中心である神でした。

 ガリラヤ湖で漁をしていた、シモン・ペトロ、アンデレの兄弟のもとにお越しくださいました。一生懸命、精一杯自分に与えられている仕事に精を出しているときに、近寄ってくださった。声をかけてくださり、主の業のために召してくださった。その御方がこの世の中心である神でした。

 病めるものには、弱っているそのところに触れてくださり、食べ物を与えてくださり、奇跡を行って、滋養をつけることができるようにぶどう酒を飲ませてくださいました。

 使徒たちの足を洗ってくださいました。その方がすべての中心である神なのです。

 小さな家畜小屋で産まれ、飼い葉桶に寝かされ、死者を葬るための布でくるまれ、垢だらけの羊飼いと共に、始めての夜を主の天使と共にすごされた小さな場所に、小さな家族にお越し下さる。あのお方が神なのです。

 イエス様のことを預言しているイザヤ書11章1〜5節を読みましょう。

 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ちその上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。

 エッサイはダビデの父親、ダビデからメシアが現れる。その救い主は、司法、軍事、祭儀神に関すること。これらの霊に満たされている。知恵と識別の霊というのは、法的分別力。思慮と勇気の霊というのは、軍事的な能力のことを指します。新改訳聖書では、「はかりごとと能力の霊」と書いてありますので、戦うための力全般のことです。そして、主を知り、畏れ敬う霊に満たされていると。

 正しい裁きを行い、圧倒的な力で人を救い出すこともおできになられ、何より、全知全能の父なる神とその思いが一体であるというのです。それがメシアです。弱いものが守られるために必要なすべての力を主イエスはもっておられます。また、決定的に重要な「天の父と結び合わせる霊的な力」もお持ちです。その御方が「貧しい人、弱い人」のためにご自分の手を動かされるとすでにイザヤ書の預言の中に記されていました。

 主は「主に対して貧しい人、弱い人」をその力の全てを用いられて、法的な分別力、軍事的な力、霊的な次元で神と結びつける力。あらゆるものを用いられて救い出すとおっしゃられる。ただ、その人は、主の前に貧しい人、弱い人でなければなりません。傲慢な人、自らの力を信じる富んだ人、己の力を信じる自信満々な人であってはなりません。

 旧約聖書の中で、天の父によってこれまで、裁かれ滅ぼされてきた人々というのは、神の前に、人間の力や連合、知力や能力、人脈力や計略を計る力。そういったものを最終的な頼りとするもの、決定力とするものを主は裁いてこられました。というのも、そのもたちは、神を忘れ、傲慢になり、やがて、神ならぬ偶像を持ち込み、主に従うのではなくて、神々を自分の願いに従わせる方向に向かっていきました。自らの欲望を達成させるための人生に落ちていきました。

 神の前で、まっさらに自らの思いを捨てて、主の前に先入観を何ももたず、ただただ跪き、聖書の言葉に耳を傾け続ける人、そのような人を主は圧倒的な力で救い出すのです。すなわち、主の前に貧しい人、主の前に弱い人です。主の前に跪く人です。マタイ福音書5:3―10。

 心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。

 と記されている通りです。心のというのは「霊の」とも訳せます。すなわち、神に対して自らの貧しさを知っている人ということです。八福の福音と呼ばれるイエス様の言葉で、祝福を受ける人というのは、主の前に、自らの力を捨て、主に飢え乾きをもって、主がくださった憐れみに生き、主の義を行うがゆえに迫害されていく人。主に対して低く跪き、主に従っていく人です。

 己が小ささを知り、それゆえ、絶対的な高みにある主を見上げる。

 このものに、天から圧倒的な力が望むのです。

 羊飼いに、天使が降りました。彼らが住んでいたのは辺境の地です。信仰があっても、羊飼いであるがゆえに、町で行われている礼拝を守ることはできません。それゆえに、正統的な信仰者からは蔑まれていました。それから、彼らベドウィンと呼ばれる人たちは、所有の観念が弱いというか、「俺のものは俺のものの、お前のものも俺のもの」的な感覚があったようで。泥棒とはじめから見なしている人もいました。だから、人々から差別され、蔑まれ、誰も省みる人がいなかった。何か不幸な目にあっている羊飼いがいれば「そらいったこっちゃない、普段の行いが思いが悪いからだ」と誰も省みようとしない。そういう人たちが羊飼いでした。しかし、神はそこに「真っ先に」目を向けられます。ルカ福音書2:10。

 恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。

 これまで、人からスポットライトをあてられて注目されることなどなかった人々です。天使が現れて、そこらじゅうを神の光が満たしたら、もう、どうしていいのかわからない。怖くて仕方がなかったでしょう。しかし、「恐れるな」と言われる。なぜなら、そのスポットライトは、義なる、聖なる、愛なる主のスポットライトだからです。

 しかも、この羊飼いを通じて、「民全体に」重要な情報を告げることになるというのです。「民全体に」救い主の知らせを彼らは伝える務めを主からいただいたのです。メシアは預言通り現れてくださり。貧しさの中に生きるものにその姿を確かに表してくださり。小さなものを高くあげる。跪いているものを大いに用いられる。マリアが語った言葉どおり、羊飼いが高く主の御力によってあげられて、2000年以上の時を超えて、私たちにその存在が届いてくるような、彼らの存在を、異邦人であった私たちが感謝することができるという驚くべきことが起こされてしまっているのです。本当にすべての民でした。ときも場所も超えて羊飼いは用いられています。

 イエス様は亜麻布にくるまれています。この亜麻布は、死者を葬るために郊外の洞窟に備蓄してあったものです。洞窟の中で、すでに死に定められた救い主が、葬りの布で包まれながら、お誕生なさった。すべては、私たちに徹底的に仕え尽くして、私たちのために命を注ぎだし、私たちのためにご自身をささげてしまうためでありました。

 天使は羊飼いの前にさらに現れます。大軍が加わって現れたと記されています。ルカ2:14。

 いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。

 何も整っていない、心も整っていない、服装も粗末なものです。体には家畜の匂いが染み込んでいた。きれいな格好ではありません。しかし、主の御前に恐れをもってただただひれ伏すしかない、何もない羊飼いたちに天の大軍が加わって主への讃美がささげられます。

 主の光が注がれ、闇があらわにされて、隠していたものがすべてあらわにされて、公平で正義そのもの、誰も偏り見ることのない光の前で、もうただ自分は倒れ込むしかなくて、ひれ伏し、礼拝する。そのものに天の大軍が加えられて、讃美の祈りがささげられるようになる。

 これは、信じ主に従順を捧げるものが皆経験していくことです。

 心から神の前におるものには、讃美の祈りが満ちてきます。神さまのことを、神さまとはこういう方ですということを一言口にすればそれが讃美であったことに気付かされます。神を黙想し、神に恋い焦がれ、神を慕い求めるものに、讃美は口から自然と流れ出てくるものとなります。天の大軍が皆様に味方してくれています。

 救い主が産まれた夜、皆家畜小屋に集められました。家畜小屋からのスタートです。何もありません。整っていません。むしろ清潔感の無い、汚い雑然とした場所からのスタートでした。しかし、天からの知らせと、メシアに出会ったという喜びと、熱く燃える心とをもってのスタートです。何より、神が上からの言葉によって導いてくださり、神が人々から忘れられていた小さなものに注目してくださり、その口から発する言葉や行動にすべて感心をもってくださっていてくださるのだということへの確信と共なるスタートとなります。主の業がそこからはじまります。

 エルサレム旧市街を、神殿の丘を、オリーブ山から見てびっくりするのは、あまりにもその丘が小さいということでした。旧約聖書でずっと読んで来たその世界が、オリーブ山という小高い丘から全て見下ろせてしまう。それだけシオンの丘は小さく低い場所です。でも、神さまは「あえてそのような低く、小さなスペースを選ばれて」そこを神の目が注がれる場所としてくださったのだということが身にしみてわかりました。

 主は、選び出したイスラエルの民に向かってこのように言われました。申命記7:6。

 あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。

 麗々たる山々の向こう、深遠なる縁、深海の海の向こう。そこに神々が住むと人々は考えました。しかし、違うのです。愛なる神は、この小さな丘、一人の私が山から見下ろしたら一望できてしまうこのところをわざわざ主は選ばれたのです。それは、その小さな存在によってこそ、神の業が全世界に伝えられるためです。神はこの小さな民を用いられて、人の力ではなく、神の力によってものごとをなされるため、わざわざこの場所を選ばれたのだとよくわかりました。

 使徒パウロが弱さをこそ誇りとしようと言った意味がよくわかりました。神の業はそこに現れるからです。コリントの信徒への手紙第二12:9。

 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

 神の御前で弱さを露呈するしかなくて、跪き、祈る。こういう世界は、世のあり方と全く別のありかたです。自分の弱さと神の聖さを第一に思い、その中で涙する祈り。これを人生の第一にして、どんな時間よりも祈りを優先する。ここに癒やしと、慰めと喜びと、平安と希望。聖霊の結ぶ実があります。ガラテヤ5:22。

 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。

 神の御前で弱さを露呈し、祈るものの内には、必ず今あげた聖霊の実が実ります。祈りの中に生きるというのは、このガラテヤ書に記されているように「霊の導きに従って歩む」ことだからです。そのような歩みをしていないものの特徴もすぐ近くに書かれています。ガラテヤ5:19。

 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。

 このリストの中にあるものに、一つでも心当たりがあると、気付くことができます。「神の国が心の中に広がっていない」ということです。神の愛に満たされているとこういうものは求めなくなるからです。それに、自分で気付くことができるリストです。

 心当たりがあって、喜びも愛も無いのなら、羊飼いが走って救い主のもとに行ったように、救い主からその心を受け取ってください。忙しさを払い除けて、一番大事な愛を味わうことに時間を使ってください。

 小さく跪くものに、必ず主は癒やしを、聖霊の満たしを与えてくださり、実りを与え、あらゆる肉の縛りから解放してくださいます。主の御名によって祝福します。アーメン。