エレミヤ書 31:31―34 「心に記される律法」

石井和典牧師

 主は約束されたことを必ず実現なさいます。一度発せられた言葉が破られることはありません。しかし、イスラエルの民は、主との約束を守りませんでした。それゆえに、国が滅びました。紀元前587年、バビロンの王ネブカドネツァル2世によってエルサレムが滅ぼされてしまいました。生き残ったユダの人々の大半をバビロンにネブカドネツァル王は移住させました。これがバビロン捕囚と呼ばれるものであって、旧約聖書の歴史の中において決定的な出来事でありました。しかし、やがてペルシアの王キュロスによってユダの人々は解放されてエルサレムに帰ることができました。

 バビロン捕囚が起こる前に、いや、国が立ち上がる前に、ダビデ王、ソロモン王が立つまえに、すでに主は御言葉によってご自分の思いを宣言されていました。この御言葉に忠実に従っていれば民は主の守りの中を歩むことができました。しかし、彼らは聞かなかった。かつて語られた御言葉を聞く、それを本当に自分への語りとして、真面目に聞いて、そのまま生きていく。それがいかに重要であり、人々は逆にいえば、いかにそれをしないのか。そういう歴史であることを、私たちは肝に銘じなければなりません。私たちにおいて起こっている問題も同じ問題なのです。

 人類の歴史は、神の導きの歴史であると同時に、残念ながら御言葉を聞いたままに信じない、という歴史です。大嶋先生に先週癒やしの体験をお聴きしました。私は実感しました。「癒やし主」であるという主の自己開示を、その言葉通りに私たちは信じていないことか。一杯、それが起こらない、神の力が望まない、そういう理由を探しに探して信仰者がいろいろ説明を加えていることか。。。癒やしが起こったらまるでそんなこと起こり得ないとでも言わんばかりの疑いの目をすぐにもってしまうことか。

 いや、信仰者が癒されたといっても、それは眉唾もので、いや主の力ではなくて、、、と思ってしまっていることか。「主は癒やし主」もうなんども、私教会生活をはじめ18年、いったい何回聞いたのだろうかという言葉となるのですが、それでもそのまま信じてはいない自分というものを発見せざるを得ない。

 だから、重要なのは、御言葉を聞いたままに、受け止め、そのまま生きる。これをするのか、しないのか。それがもうモーセの時代は紀元前1400年ですが、今から遠い昔3418年の前も蔑ろにされていたのです。信仰者の間で。主がおっしゃられたことをそのままに受け入れることが重要です。本日はモーセの時代にすでに聞いていたことを、もう一度聞きたいと思います。エレミヤ書にそれはつながっています。エレミヤの時代は紀元前605年頃の話です。この時もモーセからすでに800年ほど経っていました。しかし、御言葉を大事に出来ていませんでした。モーセの時代に語られた御言葉を読んでおきたいと思います。申命記4:24〜27です。

 あなたが子や孫をもうけ、その土地に慣れて堕落し、さまざまの形の像を造り、あなたの神、主が悪と見なされることを行い、御怒りを招くならば、わたしは今日、あなたたちに対して天と地を呼び出して証言させる。あなたたちは、ヨルダン川を渡って得るその土地から離されて速やかに滅び去り、そこに長く住むことは決してできない。必ず滅ぼされる。主はあなたたちを諸国の民の間に散らされ、主に追いやられて、国々で生き残る者はわずかにすぎないであろう。

 全能の唯一なるイスラエルを救う神を忘れて、偶像の神に仕えるならば、滅ぼされて捕囚として引いて行かれるということを予め神さまは民に教えてくださっていました。しかし、それらを彼らは受け止め、そのまま行動することができませんでした。神は預言者を遣わして民を救おうとされました。イザヤ書にも書かれています。イザヤ書というのは紀元前700年頃の書物です。モーセの1400を2で割ったらイザヤと覚えてください。イザヤ書24:1。

 見よ、主は地を裸にして、荒廃させ/地の面をゆがめて住民を散らされる。

 神を捨てて、偶像に仕えるなら、人々を散り散りにしてしまう。それが神の裁きでありました。人々が散り始めるのが神の裁きです。

 人々は預言者を遣わしても悔い改めませんでした。それはなぜでしょうか。どうして人は真の唯一なる神を捨てて偶像の神を礼拝したがるのでしょうか。

 それは、一言で言えます。「自分の願いを叶えてくれる神がみな欲しい」からです。偶像というのは自分が成功していくことを叶える自分のための神です。それを目に見えるようにしたものです。自分の思いや欲望を実現するために、私たち人類が従うべき神ではなく、私たち人類に従わせる神を造るのです。

 聖書を読んでいてより好みして、この箇所だけは信じることができるけれども、この箇所で示される神は信じたくない。こちらの人間の側に引き寄せるために、私たちの現代の文脈にのせる作業をして、説教をする。などなど、神を偶像化する方法というのは色々あります。簡単にいえば、神を小さくし、分野別にし、しかも自分が願っていることだけに関わり、関わってほしくないところには一切かかわらせない。こういう神を作っていたら、それは偶像であるということです。

 どうですか、神をいつの間にか偶像化しているのではないですか。そうすると、神は人々を散らされるのです。共同体を破壊し、もう何も力を持つことができずに、人々の心は急速に冷めていきます。神のミッションのために身を賭する、そういう若者が出てこなくなります。

 一日も早く、立ち返って主に従う道に帰ってこなければなりません。主が主であり、私たちは僕である道です。主に従う道です。

 神さまはエレミヤに幻をお見せになられました。その幻が非常に特徴的なので、ぜひ覚えてもらいたいと思います。エレミヤ書1:11です。

 主の言葉がわたしに臨んだ。「エレミヤよ、何が見えるか。」わたしは答えた。「アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。」

 アーモンドの枝という言葉はヘブライ語でシャーケードと言います。そのシャーケードを見せながら、神さまはヘブライ語でショーケードされるといことをエレミヤに悟らせます。シャーケード、ショーケード。似ています。アーモンドの枝(シャーケード)を見せて、その言葉から連想される、実行されるという意味のヘブライ語(ショーケード)を思い起こさせます。

 すなわち、神さまがついに裁きを実行に移されるということをエレミヤは神さまから悟らされたわけです。神を捨てて、自分が作り出した偶像の神に仕えるなら、必ず滅んで捕囚として連れていかれるというかねてから言われていたことが実現してしまうのだと神さまに言われてしまったわけです。

 幻を見て、エレミヤは苦しみました。さらに傷に塩をぬるように、神さまは幻をお見せになられました。エレミヤ書1:13。

 主の言葉が再びわたしに臨んで言われた。「何が見えるか。」わたしは答えた。「煮えたぎる鍋が見えます。北からこちらへ傾いています。」

 煮えたぎった鍋がユダに注がれる幻です。バビロンが熱湯のように、北から下って来て、エルサレムを破壊し、神殿とその中にある契約の箱をもすべて燃やし、ユダの民を無残に殺してしまう幻を神がお見せくださいました。

 エレミヤの使命というのは、非常に厳しい使命でありました。というのも、預言者たちにこれまで与えられてきた御言葉というのは、もしも悔い改めて神を選び取るならば、という「もしも」「If,then」のまだある話でありました。しかし、エレミヤに与えられた預言というのは、「必ず滅びる」という断言の預言です。旧約に出てくる17人の預言者のかなで、エレミヤだけが、神が裁きを実行される。すなわち先程いいましたショーケードというヘブライ語、実行されるという預言をした預言者でした。エレミヤ書25:9−11。

 見よ、わたしはわたしの僕バビロンの王ネブカドレツァルに命じて、北の諸民族を動員させ、彼らにこの地とその住民、および周囲の民を襲わせ、ことごとく滅ぼし尽くさせる、と主は言われる。そこは人の驚くところ、嘲るところ、とこしえの廃虚となる。わたしは、そこから喜びの声、祝いの声、花婿の声、花嫁の声、挽き臼の音、ともし火の光を絶えさせる。この地は全く廃虚となり、人の驚くところとなる。これらの民はバビロンの王に七十年の間仕える。

 エレミヤが言ったのは、バビロンの侵攻は神の裁きである、だから、対抗してはならない。と言って歩いたのです。これはイスラエルを愛するものにとっては、国が滅ぶことを是認する言葉ですから、「売国奴」と受け止められる言葉でしょう。だから、普通でしたら、もうこんなこと怖くて言いたくない、家に引きこもっていたいと思うものでありましょう。エレミヤ書20:9にこのように記されております。

 主の名を口にすまい/もうその名によって語るまい、と思っても/主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて/火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして/わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。

 どう考えたって、「もうこの国は終わりである」という言葉は誰も受け入れたくない言葉でしょう。だから、エレミヤは語りたくないわけです。しかし、主の言葉を閉じ込めておくことができない。エレミヤは自分が生まれてきたことさえ呪いました。

 しかし、よく聞くと、よく読むと、預言は裁きだけではありませんでした。バビロンに70年間捕らえられるけれども、帰ってくることができるのだということをもはっきりと預言されています。裁きと同時に回復がるのです。エレミヤ29:10。

 主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。

 ユダの民は自分の力で戦って勝って帰ることができるのではなく、神が彼らを帰らせてくださると、神が約束をしてくださいました。罪のためにさばき、苦しみを受けても、救ってくださると、ハッキリと確実に約束してくださっています。神は立ち返らないものを裁くと、おろそしいことをお告げになられましたが、その裁きの後に回復と希望と未来があることを約束してくださいました。

 皆さん、裁きの時こそ回復の時です。ダメになっていくときこそ、チャンスだと思ってください。ダメにならないと人は変われないのです。ダメになったときにこそ、回復を確信してください。私はこれから一生、このエレミヤの裁きから回復という神の心を記憶していきたいと思います。

 そして、この悲しみの預言者エレミヤを通して、クリスチャンにとって重要な御言葉を残してくださったのです。エレミヤ書31:31―33。本日のみ言葉です。この御言葉によって私たちの信仰生活は決定的に変化させられます。

 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

 神の御言葉は、旧約の時代、外にありました。神の言葉が記された石板を契約の箱にいれて、幕屋の至聖所に保管しました。外にありました。それゆえ、神の御言葉を民は守ることができませんでした。しかし、キリストの名によって祈るものにとって、御言葉は私たちの内側に内住するものとなりました。心の板に律法が記されるようになりました。それは聖霊によって、神の霊がわが内に住むということを実体験として体験できるようになりました。毎日聖霊による感動をもって一日をはじめることができるようになりました。キリストの血によって清められて、私たちが聖霊の住まう宮とさせていただいたからです。御言葉と祈りによって主は私たちに語りかけてくださいます。祈りの中で、わが内に主の御声を聞くことができるようになりました。

 神の言葉が響く存在。すでに皆様はさせられています。賜物を行使してください。ダビデが祈りの場で朝を迎えるほどに主を愛していると告白しました。祈りつくして朝を迎えることがあっても良いのです。そこまで祈ってください。

 使徒言行録の中には、御言葉と祈りの集会をしていて、何時間もしつづけるので、若者が居眠りして窓から落ちて死んでしまったという記事さえあります。幸いその若者は、使徒が手をおいて祈ったら生き返りました。どれだけ使徒たちが祈りのために時間をとっていたことでありましょうか。使徒たちの心には御言葉が響き、神が私に語りかけて下さるという確信がありました。

 エレミヤの言葉を受け入れ、キリストによって新しい時代が来ていると信じるものは祈るはずです。心の内に、聖書を通して神の御声を聞くことができるのですから。

 神学校時代、私は本末転倒の歩みをしていました。10時間勉強するけれども、一日祈っていた時間は、、、1分にも満たない。そんな生活をしていました。それから、牧師になってからもそんな生活でした。勉強ばかりです。一体自分は何をやっていたんだろう。本当に聖書を読んでいたのだろうか。いや、読んでいたけど素通りしていた。自分への言葉として読んでいなかった。

 祈りをささげてください。祈りは少ないということはありますが、多すぎるということはありません。祈り、エレミヤの言葉を実感してください。心の板に主がお話くださいます。アーメン。