エゼキエル書37章1−6 「いのちの聖霊」

石井和典牧師

 どんなに壊れた状態からでも神さまだけは、人を復活させることができます。キリストの血によって清められ、「神の霊が注がれる」と人は変わります。

 先週読んだエレミヤ書では新しい時代が来ることが記されていました。古い時代は、神の御言葉が外にあって、石板が契約の箱の中にあり、幕屋(神殿)の至聖所で保管されていましたが、それでは人々は神の言葉を実行することができませんでした。御言葉が外にある状態では、御言葉を実行することができませんでした。

 しかし、新しい時代が来て、御言葉が内側に与えられます。その時、人々は神の御心を実行できるようになるというのです。エレミヤ書31:33。

 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

 神の御言葉が単なる知識ではなく、いきいきと光を放って、生きたものとして響いてきて、人々に力を与えて、動かし、世界を変えていきます。キリストの霊である聖霊が注がれ、「その中に浸っている」とキリストに似たものに変えられていきます。キリストがここにおられれば、その人の周辺は変化せざるを得ないのです。

 エゼキエル書36:26−27にもこのように記されています。

 わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。

 エゼキエル書という書物は、国が滅んでしまっている中で語られた回復の書です。人々は汚れた生活をしていました。唯一なる神を忘れて、他の神々に浮気をしていました、その結果国が滅ぼされました。しかし、神は悔い改め立ち返るものには、必ず回復を与えてくださるという希望の書であります。神の霊、聖霊が沢山言及されていきます。エゼキエル書を聖霊の書だと言う人もいます。聖霊こそ、癒やし主、慰め主、回復をお与えくださるお方。

 旧約聖書の中では、聖霊は「聖霊が臨まれた」というような表現方法を用いて記述されます。というのは、聖霊が人の外で、頭の上に被って望むように描かれてきました。聖霊が人の内側に入ってその人を変えてしまうというようなことはあまり記述されていません。しかし、エゼキエルは新しい時代の到来を告げています。

 「わたしの霊をお前たちの中に置き」

 という神ご自身からの預言を彼は聞くことができたのです。エゼキエルは聖霊なる神との特別な体験を与えられていました。エゼキエル書3:12。

 そのとき、霊がわたしを引き上げた。わたしは背後に、大きなとどろく音を聞いた。主の栄光が、その御座から上るときの音である。

 聖霊がエゼキエルを神がおられる天にまで引き上げられました。新しい体験と新しい時代の到来を預言する預言者エゼキエル。イエス・キリストの十字架と、その後の教会の発展まで視野にいれた預言であったことに、新約を知るわたしたちは気付かされるのです。

 新約時代の民のなすべきことは聖霊が人の内側ではたらき、聖霊の内住によって神を愛し、隣人を愛し、神の国を実現していくということを、エゼキエルの預言のままに、信じ従っていくということです。教会共同体の中で語られる聖書の言葉と聖霊によって人は変えられて、主イエスと似たものに変えられてきます。聖霊が私たちの内側に働かれ、私たちがキリストの愛に感動し、キリストの愛に動かされ、キリストの愛のエネルギーによって一つになっていく。その時に汚れや欲は砕かれて、焼き払われて、清められていくのです。人は神の霊の満たしによって変えられて復活するのです。

 エゼキエルは神の御心が実際に実現するさまを、強烈な形で目の当たりにすることになります。それが本日共に読んでおります。エゼキエル書37章に記されている内容です。

 干からびた骨が神の息によって生き返る話です。神さまは、エゼキエルを枯れた骨が満ちている谷間につれていき、これらの骨に預言しろと言われました。

 エジプトでの奴隷生活の時、約束の地カナンに入った時、士師の時代、王政の時代、イスラエルの民が神から離れて偶像崇拝に陥ったときには、神さまは異邦の民を懲らしめとして送り、肉体的な苦しみを与えられました。しかし、すでにバビロン捕囚となっている民に神が与えられたのは、肉体的な苦しみではなくて、精神的な苦しみでした。

 捕囚となった民は、礼拝をささげる神殿を失ってしまいました。主の前に生きることができないという苦しみこそイスラエルにとって最大の苦しみでした。他にも沢山苦しみはありましたが、神の前にいくことができないということこそが、最大の苦しみでした。詩編137編が捕囚の民の苦しみを記した歌です。

 バビロンの流れのほとりに座り/シオンを思って、わたしたちは泣いた。竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。わたしたちを捕囚にした民が/歌をうたえと言うから/わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして/「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。どうして歌うことができようか/主のための歌を、異教の地で。エルサレムよ/もしも、わたしがあなたを忘れるなら/わたしの右手はなえるがよい。わたしの舌は上顎にはり付くがよい/もしも、あなたを思わぬときがあるなら/もしも、エルサレムを/わたしの最大の喜びとしないなら。主よ、覚えていてください/エドムの子らを/エルサレムのあの日を/彼らがこう言ったのを/「裸にせよ、裸にせよ、この都の基まで。」娘バビロンよ、破壊者よ/いかに幸いなことか/お前がわたしたちにした仕打ちを/お前に仕返す者お前の幼子を捕えて岩にたたきつける者は。

 神の民が異邦の地で、竪琴をひきながら神に讃美の声を上げていると、それを聞いたバビロンの人々が、「われらのために歌ってみろ」と言ってきた。しかし、神さまにだけ思いを寄せているものが、バビロンの民を喜ばせるために歌を歌うわけにはいきません。だから、竪琴はもう使わず、木にかけて、エルサレムの神殿の方角に向かって日々泣き祈り続けたのです。礼拝を捧げることができない苦しみというものは、主を愛すれば愛するほどに高まるものです。礼拝をささげなかったら神との関係が立たれて、肉は生きていても霊的には干からびた骨となります。これがバビロン捕囚において民が神から受けた、霊的な、精神的な裁きでした。

 年始から、ひどい風邪におかされて、立っていることが困難で早天礼拝を休ませていただいてしまいましたが。これがどれだけ自分の霊的な状態に影響を及ぼしたかわかりません。礼拝をささげずにはじめた一日はやはり、主のものではなく、勝手な自分の人生となりました。ただただ苦しみの中耐えるだけ。仕方ないのですが、主の前に跪くことを忘れてしまうとこれだけ主と離れた日々を送らなければならなくなるのかと愕然としました。たかが一週間されど一週間、70年もの年月をバビロンで過ごさなければならなかった神の民の苦しみと悲しみとはどれほどだったでしょうか。

 干からびた骨。霊的に干からびた骨。心が干からびていきます。

 しかし、裁きの時だけではなく、回復の時がやってきます。神は、愛するものを放置なさるお方ではありません。裁きをうけたものは必ず回復します。四方から息が吹いてきて、彼らの内に入り、枯れた骨は多くの集団となりました。骨というのは、人間の希望のついえ他姿のように見えます。しかし、神にとってはその姿さえも、回復に向かう道のりでしかないことを教えられます。人は死してなお死なず。人は希望を失ったようで失わず、なぜなら、神がおられるから。神だけが人を復活させることができる。神が彼らをエルサレムに帰還させ、礼拝をささげさえ、生きている集団に回復させるという約束を、幻によってエゼキエルに見させてくださったのです。

 霊的に沈んでいるとき、疲れている時、枯れた骨のような時、「聖霊を注いでください」と祈ってください。四方から息が吹き来たれば人は必ず生き返ります。

 神さまはエゼキエル書47章で再び幻をお見せくださいました。エルサレム神殿からいのちの水が流れ出て、エルサレム神殿の周囲がその水に浸されました。その水は流れ、初めは、足首まで、次に膝、腰まで達し、最後は泳がなければならなくなるほどでした。いのちの水によって人が浸されるということはどういうことなのか、私たちにビジョンを与えてくれる幻です。

 聖霊の命がくるぶしまで来ているとき、人々は伝道するために、神の業のために出ていこうという気になってきます。そして、膝まで達しますと、跪いて祈りをささげ続ける人となります。腰まで達すると、もうその人は神の愛によって常に満たされて、酒によっているように神の愛に酔った状態になっていきます。そして、最後は聖霊の川の中を自由に泳ぎ回るような人になる。神に自分の思いを完全にゆだね、100%神に信頼して、聖霊に自分の人生をすべて明け渡してしまう状態です。

 これは後に与えられます水による洗礼を指し示すとともに、聖霊による洗礼をも指し示す内容です。命の水に、聖霊に、浸され、満たされることが神の御心なのです。洗礼を受けて、主との関係を回復し、さらに霊の満たしを受けて、力に満たされ、心の内側は神の愛に満たされ、自由に神の霊の導きのもと出ていく。そういう人が現れるというのが、エゼキエルの時代から400年後の世界、イエス・キリストの福音の世界です。

 使徒パウロはユダヤ教のシナゴーグを渡り歩くようにして伝道しました。シナゴーグは、川の岸辺に造られていました。このエゼキエルの川の預言、水の預言を信じていたからということもあるでしょう。人々の生活の拠点が水の周りにあったということももちろん関係があるでしょう。しかし、主がおっしゃられたとおり、いのちの水が流れ出て、パウロを通じて、この川のほとりのシナゴーグを通して主イエスの福音は伝えられていきました。

 そして、人々はこの崩壊と回復の時代にこそ、聖書を書き記していきました。アイデンティティ・クライシスに彼らはあったからです。自分がどんなものであるのか。考え直さなければなりませんでした。周りからは「お前の神を見せてみろ」とからかわれ、全能の神がおれば、捕囚になどならんはずではないかと言われたこともあったでしょう。とにかく、この苦しみの時代にこそ、聖書を書き記し、自分たちの祖先は誰で、どう神さまが関わってくださり、たしかに、神との歩みの中歩むことが許されてきたことを見出していったのです。そうです、実は苦しみの時こそ、彼らが神を発見し、そして、異邦人にまでこの信仰の真髄を伝えるための準備、聖書が整えられる準備の時だったのです。そして、私たちにまで聖書が届けられました。彼らの苦しみ、涙が染み込んでいるのがこの旧約聖書なのです。ハレルヤ。

 もしも私たちが立ち返って生き返ることを望み、聖霊の満たしの中に入ってくるなら。具体的には、祈りの中に返ってきて、聖書に耳をそばだてて聞き、自分への語りとして聞くのならば、その人の周りには水が溢れてきて、くるぶしまで、膝まで、いや腰まで、いや頭まで全部被ってしまうほどの、聖霊の満たしをいただけるということ。それがキリストによって約束された命の福音。キリストのコマンドメントに従うためには、いのちの霊の満たしが絶対的に必要です。キリストの命令とはマタイ福音書の28:18以下に記されたご命令です。

 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 全世界に出て行って、というこの一つのことだけで、もうすでに私たちの力ではできないことがキリストのご命令であることが分かります。神の霊に満たされ続けていなければできません。心の内側に湧き上がってくる炎がなければできません。しかし、キリストはそれをせよとおっしゃる。それは確実にキリストの名によって聖霊が注がれるからです。心から信じ求め続けるものに対して注がれます。キリストの名によって弟子とするということも、人間の力ではできないことです。人の心をコントロールすることはできません。だから、キリストの愛を知っているものにとっては、どう人を弟子とするのかというのは難しいことです。しかし、主に従うということを私たち自身がしていれば、すなわち自分が弟子であることを誰よりも深く意識していれば、その弟子のスピリットは伝わります。主の前にどんな態度をとるのか、それが弟子にとっては最重要課題でしょう。主はどう反応されるだろうか。主の思いはどうだろうか。そのように常に思っている人が影響力がないはずがない。弟子であろうとすることも、聖霊の導きなしにできることではありません。

 教会の働きすべて、キリストの思いを心に抱くという聖霊の満たしなしに行うことはできません。教会が聖霊を忘れキリストのご臨在を忘れたときに、どれだけ争いの火種となることか、私たちは歴史を通しても、また普段の信仰生活でも実感しています。キリストがここにおられ、キリストに従うことを第一としている人々の集まりを形成することが重要なのです。そのためには、聖霊の満たしが必要です。求めてください。キリストの思いを常に思い、意識していることが必要です。

 しかし、これ以上の幸いはありません。キリストがあなたのことをご自分の命と同等に価値ありと考えてその肉をささげて、私たちを一体としてくださったのです。その御方の思いを常に宿して生きることほど幸いなことはこの世に他にありません。心がとかされて、柔らかく、エゼキエルが言ったように、肉の心になります。アーメン。