ヨハネによる福音書9:35〜41「見たままに信じる」

病も困難も、神の業が現れるためにあります。神が主導権を握ってくださっているのであり、人間の行動など小さなものに過ぎません。たとえ人々の罪が緋のように赤くても、それを真っ白にすることができる。それが私たちの愛する神さまです。イザヤ書にこのような言葉があります。イザヤ書1:18。

論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても羊の毛のようになることができる。

 神の業の中におり、神の選びの中におる。それをまず知ることがとても大事なことです。これまでは神経がつながっていなかったから見えなかったのです。しかし、今は、御言葉の語りかけによって、神経がつながりはじめています。神とつながった出来事として物事が見えるようになりはじめています。

イエス様は生まれつき目の見えないひとをお癒やしになりました。当時は、眼科などありませんから、目の病は「癒せない病」でありました。しかし、メシアだけが、神の力を帯びた方だけが目を癒すことができると人々は信じておりました。事実そのとおり、イエス様だけが人の目をお癒やしになられました。

目が見えない人が見えるようになる。これはまさしく人生すべてが変化するということです。躍り上がって喜び、この事実を人に伝えないではおられない。うれしくて、自分も周りの人もその話でいっぱいにすることでありましょう。

癒やされた人の周りには、様々な人がやってきました。特に注目すべきが、ファリサイ派と呼ばれる人です。ファリサイ派は自分たちが他の人達よりも特別に宗教的に清いものであると自負していました。聖書の教えに対する知識にも長けていましたし、清いと言われる生活を必死で実践していた人たちです。施し、祈り、断食を実行していました。周りからの尊敬の念もありました。

しかし、彼らにはイエス様のことが理解できませんでした。というのも、自分たちが守ってきた伝統、行動規範から一見外れたように見えるのがイエス様だったからです。イエス様はモーセの律法は忠実にお守りになりましたが、いわゆる口伝律法というもの。人々がモーセの律法を通じてこれをすべきあれをすべきということをまとめたもの。いわゆるラビたち、律法の教師たちによってまとめられた行動基準に関しては自由に振る舞われました。だから、口伝律法では、安息日は絶対に何があっても労働に値するものは何もしない。そういう基準が明らかにありましたが。イエス様は人を癒やされました。だから、超真面目なユダヤ教徒にとっては先輩師匠から教えられたことに反することをしている。それはいいのか。という問いがすぐに出て来たわけです。

一度、この人は律法を破っているという先入観を持つと。人はそこから離れることが難しくなります。だから、イエス様は神の御心を踏みにじった人であると聖書をよく知って、先輩が伝えてきた伝統に従おうとする人ほど思ったわけです。

  まっさらな視点で、イエス様と向き合うことが彼らにできたならば、おそらくキリストに触れて心が癒やされていったはずです。しかし、彼らにはキリストの言葉が入っていきませんでした。「こうあるべし」ということが先にあって、「律法を破るもの」という先入観でキリストをみてしまっているから。真実が見えなくなってしまっているのです。

非常に痛々しい対比として、何も見えていなかった盲人が実はキリストを見ており、キリストに触れていただいて、神との交わりをもつということが起こっていきます。神を見ていると思っていたファリサイ派の人々が実は何も見ていませんでした。

キリストの前に行くときに、すべての重荷を、先入観を、色眼鏡をおいていかないといけません。キリストはこんなところに来ないよ、こんな人に触れないよ、というところにおられるのですから。我々が想像しているのとまるで違う形で私たちに近づいてこられるかもしれません。そのキリストの行為を受け入れて信じるためには、心をまっさらにしておく必要があります。

しかし、また重要なのは、キリストを、メシアを受け入れる準備をしていると思い込んでいる人こそがキリストを排除してしまっているということです。ファリサイ派と言う人達は、誰よりも神に対する態度を整え続けていた人です。現代イスラエルにおいても真っ黒な服を着て、礼拝を捧げ続け、非常に熱心に祈り続けている、超正統派ユダヤ人と呼ばれる人たちが現代のファリサイ派です。この人たちの行動基準というのは、非常に素晴らしいものです。牧師として私は学びたいとさえ思います。

しかし、福音というのは、そんな人間の準備、整えを飛び越えてしまうものです。神の業は準備が整っている民ではなくて、何もわからず、何も見えなかった、整っていない、ファリサイ派ではない、目の見えない人に望みました。

だから、ここでも重要なのは、神の主導権によって、神のイニシアティブによって神は救うべき人を選び分かち、出会いを与えてくださるのだという事実です。

ファリサイ派の人も、盲目だった人も、キリストと出会っています。出会っていますが、片方の熱心そうに見える人はキリストを拒否し、まったく熱心そうに見えなかったひとがキリストを受け入れ、キリストを世界に証ししていくということが起こっているのです。

ですから、重要なのは、人は神の業の前に、神の憐れみの前に、神の主権の前に、神の選びの前に、とにかくひざまずいてひれ伏すことだということです。熱心か、熱心じゃないか、すばらしいかすばらしくないか、整っているか、整っていないかじゃないのです。どんな状況であれ、神がなさりたいと願っていて、神がキリストによって働いてくださっている。その前にひれ伏すことです。すると目が開かれます。

ファリサイ派は見えていると思っていましたが、何も見えなくなって、盲目だった人は何も見えていませんでしたが、見えるようになります。

ヨハネ福音書9:28以下の言葉は実に痛快です。これこそ神の業。

そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたのか、あなたがたがご存知ないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」

聖書を研究してきたあなたがたこそ、メシアを真っ先に見つけることができるはずじゃないのですか。あなたがたこそが、メシアの行動を理解し、そのお方についていくことができるはずではないのですか。なのにあなたがたは何も分かっていないし、何も行動をおこすことができないんですか。さっぱり意味がわかりません。そういうふうにこの癒やされた盲人は言っているのです。

方や、盲人は神にふれていただいて心がどんどん自由にされていきました。イエス様がおっしゃられた御言葉の通りです。ヨハネ福音書8:31。

わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

しかし、心が固くなっていたファリサイ派のユダヤ人は、この盲人に起こった神の業を受け入れることができません。そして、この盲人を会堂から追放します。何が彼らを分けたのでしょうか。それは選びとしか言いようがありません。盲人が何か優れていたというわけではありません。そこには神の計画があるのです。ローマの信徒への手紙にはこのように記されています。ローマの信徒への手紙11:25以下。

兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。

ユダヤの人たちは頑なになって、キリストを排除したり、キリストの弟子や、癒やされたものたちを排除していこうとする。これさえは、実は神の選び。神の計画であったのだとパウロは言っているのです。

神の業の前に、わたしは頭がクラクラする思いがいつもします。人間の行動なのか、神の選びなのか。人間の行動も神のまえに襟を正すということも大事じゃないか、しかし、主は選びを与えてくださっている。頑なにされているのも、不信仰に陥っているのも選び。ということは起こる事柄すべてが神のご支配のうちにあるということです。神の思いははかることができない。しかし、その中心には人を救い出すこと、また一人の人に寄り添うこと。父として、人類を子として愛してくださるということがあります。

この盲人が会堂から追い出されて悲しい思いをしているところに、キリストはお越しくださいました。盲人は目が見えなかったので、そして見えるようになってからも、誰が癒やしてくださったのか、わからなかったようで、実際にイエス様が前に現れても、だれだかわかりませんでした。しかし、彼の心の内側には神を信じる信仰の力が満ち溢れていました。だから、イエス様が御自分が癒やしたものであると言われるとすぐさまその言葉を信じることができました。

盲人は何も見えていませんでした。しかし、起こった事実を起こった出来事のママ受け入れることができした。

ファリサイ派の人は、全部見えていました。驚くべき出来事を目の当たりにしました。しかし、見えているものを見えているままに信じることができませんでした。

見えていれば真理に到達できるというわけではないことがわかります。真理に到達するためには、神の業、神の主権、神の行動、神の力、これらが今ここで働かれて、今ここで力あるものであって、今ここで主が行動を起こしてくださると「信じる」ということがなければならないということがわかります。「今ここに神の業が!」です。

主を信じる地点に導かれれば、いたるところに、主の御手、足跡、導き、主の愛を発見することができます。

盲人が一人で歩むことを、寂しい思いをすることは主イエスは望まれませんでした。だから、一人ぼっちになった盲人のところに主は来られて、信仰者を孤独にはしておかないということを行動によって示してくださいました。主はいつも永遠に変わらずにこのようなお方なのです。目を開いたら、そこに主はおられる。心によりそってくださいます。イエス様はおっしゃいました。ヨハネ福音書9:39。

わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。

主の業が見えていますか。見えるようにしてくださったのは、主です。主がさばき、さばくということは、見えているひとは選ばれたということです。その選びを受け取って、見えているのですから、主の業をさらに発見し、主の業をさせていただいてください。

見えないのでしたら、見えていなかったことを素直に認め、罪を告白することです。その人は見えるようになります。

見えていると、学んでいると、知っていると、尊大になっていたファリサイ派はいつまでも見えませんでした。

そのようにならないように、主の前に共にひざまずきたいと思います。アーメン。