ヨハネによる福音書8:1〜11 「罪なきものはない」

 イエスさまと出会うということが神さまと出会うということです。これが教会が伝えてきた信仰の言葉です。ですから、福音書の時代にイエス様と顔と顔とを合わせてお話を出来た人々は神と対話することができたわけですから、なんと幸いなことかと思わされます。

 しかし、イエス様に対して人々はどんな反応をしたかと言えば、大方は懐疑的でありました。特に当時の権威の中心であるユダヤ教のファリサイ派や律法学者は、もっともこの主イエスに敵対しました。まともだと周りから考えられていた人こそが、イエス様を受け入れることはできなかったのです。

 そうではなくて、まともではないと判断されてしまう人のところにこそ、イエス様は来られて、その人を救い出されました。その人達は先入観など持たずに、イエス様と会話をしました。

 しかし、優等生たちは、先入観を強く持ち、イエス様が律法を破るところを見たいがために様々な罠を、あろうことか神であり、主であり、メシアであるイエス様に仕掛けていきました。罪を犯したひとを連れてきて、一体この人をどのようにするのかと言って、イエス様が聖書に反するような行動をし始めることを待っているのでした。

 本日の朗読された聖書の箇所のはじめを見てください。ヨハネによる福音書8:1。

 イエスはオリーブ山へ行かれた。

 イエス様は朝早くオリーブ山に何をしに行かれたのでしょうか。

 そこはイエス様にとっては祈りの場所であったからです。ゲッセマネの園という、十字架にかけられる前の晩に祈りをささげられた場所もオリーブ山の中にあります。朝早く祈りに常に時間をとっておられたということがわかる箇所です。オリーブ山からはエルサレムの町が見下ろせます。イエス様は神さまがイスラエルの歴史を通して憐れみを示しつづけ、民を赦し導こうとされることを常に心に抱いておられたのです。

 旧約聖書を読めまばわかりますが、神のもとに帰ってくるものを常に暖かく迎え入れようとされている。それが天の父なる神です。なんとか人々が悔い改めに至るようにと。悔い改めに至ればすかさず走り寄る神の姿が旧約の歴史です。そのエルサレムという歴史のつまった場所をご覧になられて、イスラエルの歴史の中に神の憐れみを思っておられたのではないでしょうか。

 そして、ご自分のこれから向かう十字架というその道は、天の父の憐れみのこころそのものであるわけです。帰ってくるものを何が何でも迎え入れることができる道、それが十字架の贖罪です。オリーブ山で祈られて、神殿に向かわれた。それが本日の箇所です。

 そこではイエス様は教えをなさいました。人々を神に導くという愛情をもって教えられました。

 しかし、律法学者とファリサイ派は明確な悪意をもってイエス様のところに姦淫の現場で捕らえられた女性を連れてきました。姦淫を犯すとどうなるかというのは、モーセの律法に定められています。レビ記20:10です。

 人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処される。

 神が許された結婚関係を逸脱して性関係を結ぶことは「死刑」に値する罪でした。それが神さまがお決めになられたモーセの律法に記された法です。だれもこれを変えることはできません。神さまの基準が示されているのです。

 性に関しては非常に厳しいものがあります。なぜなら、神さまは全能の神さまです。隠れたこともすべて知っておられるのです。つまり性関係もそれは神さまのご支配のうちにあるというとうことです。

 しかし、全知全能の神から逸脱させる偶像の神を信じるものたちは、性関係を非常に曖昧にしました。結婚関係を逸脱したものであったとしても許しました。聖である神の言葉ではなく、世俗的な人間の欲望の結実が偶像だからです。だから、偶像崇拝は必ず性と結びついたものとなります。欲望を追求した結果生まれてくる儀式を伴った行為に落ちていくのです。

 性に関してどうでもいいというような発想になっていくのは、全地全能のすべてを見ておられて、知っておられる神からはなれていくということとを意味するのです。

 だから、性に関して神さまが許されたものでないと、許されないという法があって。しかもそれを破るものは死刑に処せられるという厳しい掟がありました。

 姦淫、浮気、不倫の現場を押さえられて連れてこられてしまったこの女性はユダヤ教の律法、旧約聖書からすれば、必ず石打の刑に処さねばならない人でありました。

 そこでイエス様はどうなされたのかというと、地面に文字をしるしはじめました。何もヘブライ語の知識や聖書を知らなかった異邦人である日本の我々には奇っ怪な行動にしかみえません。突然落書きでもしはじめたのかイエスさまはと。

 しかし、ヘブライ語的な世界観にしっかり帰っていきますと、イエス様はただ文字を記したというよりもこの神殿の地面に、またこの場所に、またイエス様がおられるところに「しるし」をつけはじめたということだったのだと見えてきます。

 地面に何か書くというのは、ターヴァーというヘブライ語で、「しるしをつける」という意味です。しるしをつけるという言葉はどういう意味があるのかというと。神の側に憐れまれて勝ち取られて、神に守られうる人々に印をつけよと言われた神の預言がエゼキエル書にあるのです。エゼキエル書9:4、6。

 都の中、エルサレムの中を巡り、その中で行われているあらゆる忌まわしいことのゆえに、嘆き悲しんでいる者の額に印を付けよ。

 老人も若者も、おとめも子供も人妻も殺して、滅ぼし尽くさなければならない。しかし、あの印のある者に近づいてはならない。

 偶像崇拝が行われ、父なる神ではなくて、自分たちの欲望を実現させる偶像の神が蔓延して人々が勝手に自分の好きな神を作り出し、それゆえ好き勝手な行為にふけり、暴力が横行し姦淫が横行しめちゃくちゃな状態になっている。しかし、その中で神を求めて悲しみを覚えて、神の義が行われるように、神がご支配くださるようにと嘆いているものに印をつけよと主は言われたのです。そのものを救うからと。

 主イエスは、この姦淫の現場で一体だれにその主の印を付けることができるだろうか。そのように思われているのです。そして、その救いの印、神の怒りを免れる印を地面に書きつけた。ということは、ここにいる人の中に誰一人として、神の救いにあずかるものはおらなかったということです。

 さて、待ってください。この姦淫の現場から女性をつれてきたファリサイ派や律法学者、超優等生は、この印を付けてもらって救われうる人じゃないのか。正しい人じゃないのか。そう思うのですが。イエス様にとっては、そうではなかったようです。彼らは実は神の前に正しいものではなかったのです。

 なぜなら、罪なき者がこの女性に石を投げろとイエス様がおっしゃられたとき、次々と彼らはその場を立ち去りました。というのも律法の中に、このような律法があるからです。

 死刑の判決を下すためには二人、三人の証人が必要なこと、証言をした証人こそが、最初に石をなげて、その人を死刑に処さなければならないこと。最初に石を投げる人は、懸案になっている姦淫を一度も犯したことがない人でなければならないこと。

 そして、誰も石を投げることができないということはどういうことかというと。この姦淫を犯した女性と同じように、姦淫を犯したことがあり、しかも、この群衆の中には、この女性の相手となった男がおったということです。

 誰も石を投げることができなかったということは、実は非常におぞましい現実がそこにあったということを示す内容なのです。人にはこれを守れ、守らないものは汚れている。そのように教えていた、その人自身が実は守ってはいなかったということなのです。

 自分のことは棚にあげて、他者のことを吊し上げていた。そういう現実があることをイエス様に突きつけられてしまったのです。

 神さまから太鼓判を押されて、義、正しい。と判断される人は本日の話の中で一人、それは罪を犯したその人本人。え、罪を犯したその女性が正しいのですか。そんなことあり得るんですか。と思います。

 しかし、彼女は、主イエスのもとに留まりつけました。その場から逃げませんでした。姦淫の現場で捕まって連れてこられたのですから、おそらく衣服も乱れていたことでしょう、髪もみだらに乱れきっていたことでしょう。しかし、彼女はその恥ずかしい姿のまま、主イエスの近くで泣き崩れるようにしておりました。もう、どうにもなりません。

 彼女人生はこれからどうなるのでしょうか。そこら中に恥ずかしい姿がさらけ出されてしまいました。しかも、死刑に値するものと判断されている。死んで当然と。

 しかし、彼女はその姿のまま、イエス様の側におることができました。これこそが恵み。この恥ずかしさを抱えつつ、ただただ主イエスの側に。これが教会で人々が経験することです。

 先程地面に記した神さまに救われる、赦免されるその印を、言葉によって彼女は受けることができました。罪人であるそのものが赦しの印をうけとることになるのでした。イエス様はおっしゃいました。ヨハネによる福音書8:11。

 イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪をおかしてはならない。」

 冒頭で申し上げました。キリストが神であると。神には力があります。天地万物を従わせ、ご自分の意思を貫徹する力。ご自身の心にかなうことならば、何があっても必ず実現する。それが神の力。その力がキリストにはあられます。主だからです。

 そのお方が、罪にまみれたこの女性を、罪に定めないと宣言しくださいました。

 もう罪をおかすことがないようにと願い、送り出してくださった。キリストがこのように宣言してくださるのですから、この女性は必ず、罪を犯す事のないこころに変えられます。それがキリストの言葉の力です。

 この女性は自分の内側に与えられる変化に驚いたことでしょう。全能の神を信じるということによって、キリストが現臨され、そばにおられるのだという確信によって自分自身がこれほど、神の力に変化させられるものであるということを。彼女はもはや姦淫を犯すことはできません。主が常に見ていてくださって、迎え入れてくださり。罪の現場で赦してくださったことを体験したのですから。

 彼女の方から、主のご存在を求めて祈り始めたはずです。

 主イエスは祈りの宮である神殿の地面に、神のしるしを記されました。この宮こそが、主が救い、主がそのこころを向けてくださるところです。祈りの宮に向かって祈り続けるのならば、それを必ず聞いてくださること。だから、神殿にしるしをしるされたわけです。

 私たちにとって神殿は、主イエスの名によって祈ることができる自分自身の心です。この祈りの中にとどまることこそが、人を変化させ導くものであることに気づく必要があります。主イエスの近くに、姦淫の女性はおりそこで変化させられました。私たちにとって神殿は祈りそのもの。祈りの中でキリストに出会います。

 罪を犯した恥ずかしい状態であっても、祈りに入っていき。この女性が主イエスのそばに恥ずかしいすがたでおりつづけたゆえに、ついに神の言葉を聞いて清められたように、祈りの中にご自身の身を置き続けてください。罪人である現実の中で神の言葉を聞くでしょう。しかし、そのままでは終わらず大きな変化が与えれて人生が変わるということを経験します。

 主イエスは、皆様のために十字架で命をささげてくださいました。そのお方の思いの中に入っていきさえすれば、恥はやがて拭い去られて真っ白くされます。まずは、主のそばにおるだけで良いのです。主のそばにおるというのは祈り続けるということです。アーメン。