ヨハネによる福音書 6章16-21節 「わたしだ。恐れることはない。」

信徒説教 吉野 元

ヨハネ福音書を少し読んでみるとすぐ気がつく重要なキーワードがあります。

「言葉のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(1章4-5節)

「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(8章12節) 

「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」(12章36節)

繰り替えし、「光」と「闇」という言葉が出てきます。この「光」という言葉は、イエス・キリストを指します。反対に、「闇」という言葉は、この光であるイエス・キリストを受け入れない、この人間の世界、「この世」を象徴します。

 今日の聖書箇所の冒頭で、イエス様の弟子たちは、夕方になり「すでに暗くなった」湖、ガリラヤ湖に舟を出してゆきます。「すでに暗くなった」という言葉は「闇」、つまり「この世」を暗示している、と理解されてきました。弟子たちはこのとき、イエス様、つまり「光」であるイエス様といったん別れて、湖に出発しているのです。

 さて、この日はどんな日であったのでしょう?実は、それは、とても素晴らしい日だったのです。言葉では簡単に言いあらわせないような素晴らしい1日、イエス様の光に満たされた、まるで天国にいるような日だったのです。

 今日の聖書箇所の少し前、6章の1節以下を読みますと、そこには、イエス様とともに、何千人もの人たちが、草原の上に一緒に座って、イエス様の手によって裂かれた、たった5つのパンと2匹の魚をわけあって食べ、なんと全員、すっかり満腹になり、幸せな時間を共に過ごしました。そういう驚くべき奇跡がありました。イエス様と一緒に過ごす、夢のように平安な、満たされた時間。そこに居合わせた人々が、うらやましく思えます。きっといろんな人がそこにいたことでしょう。女性も、男性も、子供も、大人も、病に悩む人も、障害を持った人も、貧しい人も、金持ちの人も、地位の高い人も、普通の人も。神様の国とは、まさにこのことだ、本当の平和というのはなるほどこういうものだ、きっとそう実感したのではないかと想像します。パレスチナの片田舎の、村はずれの、草はらの上で、たった5つのパンと2匹の魚で。この世の権威とはおよそ縁遠いところで、神様の栄光がイエス様によって現されました。

 イエス様のわざには、目をみはるような鮮やかさがあります。胸がすくような、爽快さ、そしてこの世の権威を、人間の思い込みを吹き飛ばしてしまう痛快さもあります。でもイエス様のわざには、ただすごい、という以上のものがいつもあります。この世にはない、温かな、静かな光が満ち溢れています。完全な平和、本当にそこに神の国が、イエス様のまわりで実現していると思わされるような、何かがあります。

 私たちが今共に集っているこの礼拝も、イエス様の光が支配する時間であり、空間であります。私たちの先達から、私たちはそう聞いて、この礼拝は2000年間守られてきました。私たち自身は不完全で、罪深きもので、このような場所には本来似つかわしくないものです。ですが、そのことまでが、イエス・キリストの明るい光の中では霞んでしまう。そのくらい、イエス・キリストの放つ光は圧倒的なのです。

 さて、今日のヨハネ福音書6章の真ん中で、場面は「光」から「闇」へと転換します。イエス様は、群衆をさけて再び山に登ってしまいました。イエス様と別れた弟子たちは先にカファルナウムに行くために、暗い、不安な夜のガリラヤ湖へ漕ぎ出してゆくことになりました。

 暗い湖の真ん中で、弟子たちはどちらを向いても何も見えなくなりました。どこが岸なのかも全くわからない、拠り所のない、漆黒の暗闇のなかで、風も出てきて、湖は荒れてきました。弟子たちはパニック状態に陥ってきます。何を見ても、不安を煽るものとしてしか、見えない。はてには近づいてきたイエス様まで幽霊に見えてしまう。 弟子たちの舟はこの世の中に置かれた、教会を表している、とも言われます。

 主イエスと別れて、暗いガリラヤ湖に不安な気持ちで漕ぎ出してゆく弟子たちの姿に、これからの私達を重ねることができるのではないでしょうか。私達も、この礼拝が終われば、皆に別れをつげて、それぞれの生活の場、仕事の場に帰ってゆきます。私達にとって、そこはどんなところでしょうか?そこに神の国は実現しているでしょうか?そこに平安はあるでしょうか?

 それぞれの生活の場で、職場で、私達のある者は、日々孤独と向き合い、あるいは病と向き合い、ある者は現在また将来への様々な不安を抱え、ある者は厳しい競争社会に放り込まれて神経をすり減らし、ある者は社会の矛盾に苦しんでいるかもしれません。それぞれに人生の戦いを続けています。毎日、毎日、毎日。私も、日曜日の午後には、気持ちを切り替えてスタートしていなければと、いつもそう急かされています。そうしなければ負けてしまう、そう思うのです。

 今日と同じ聖書箇所を、昔ある黙想の集いで読んだときのことを少し、お話しします。

 14年ほど前のある夏、私達家族は、私の仕事の関係でフランスにいました。その夏、フランスのブルゴーニュ地方の小さな村テゼにある男子修道会、テゼ共同体を初めて訪れました。テゼ共同体は、沢山の美しい賛美歌を作っていることで知られ、私たちの賛美歌集にもその幾つかが載っています。そのころ、パリ大学での1年間の研究滞在が終わりに近づいたころでした。ふと昔聞いた、このフランスのどこかにあるはずの祈りの共同体、テゼ共同体の話を思い出しました。テゼの祈りの集いでは、涙が川のように流れていると、教会の青年会のある友人が言っていました。涙が川のように流れている、というのは少しオーバーな表現でしたが、印象に残りました。私は教会生活を送りながらもしばしばキリスト教、そして宗教というもののあり方に幻滅してしまうときがあります。そんなときでもイエス・キリストだけは例外的、純粋な存在なのですが、それ以外のことがみんなグレーに見えてしまう。このころもそういう時でした。ですが、急に気になってせめて、フランスにいるうちに、そのテゼ共同体に一度行っておこうと思いました。1歳の娘をベビーカーに載せ、妻と一緒にテゼ村を訪れてみようと思い立ったのです。パリから鉄道で南へ2時間半ほど。降りた駅から田舎道をバスで1時間ほど、ブルゴーニュ地方の小さな村、テゼに着きました。そこで1泊2日を過ごしました。

 テゼ共同体の中心にある「和解の教会」では、朝と夕べの祈りの集いに参加しました。10代-20代のヨーロッパ全土やアフリカ、アジアから集まった大勢の若者たち、そのとき1000人ほどいたことを後から知りました。皆が一斉に沈黙すると、時折聞こえてくるのは、外の畑で鳴いている鳥の声だけになります。静かな、しかし圧倒的な体験でした。一日黙想したり、賛美歌を歌ったり、奉仕作業をしたりして過ごす静かなテゼ村での滞在は、霊的に満たされた、素晴らしいひとときでした。

 私が入った10人ほどの小さな黙想のグループに対して、担当のブラザーが今日と同じ聖書箇所、ヨハネ福音書6章16節以下を読んだ後、こう黙想の勧めを与えられました。

 「あなたは今、何を恐れていますか。黙想にあたってまずそれを考えて見ましょう。皆さんのこのテゼ村での滞在は間もなく終わります。皆さんはそれぞれ自分の町に、家庭に、職場に、教会に帰ってゆくのです。今、あなたは何を恐れていますか。それを見つめることから始めて見ましょう。」私は、そのとき、日本へ間もなく帰国することについて考えました。私にとって、それは様々な理由から気の重いことでした。

 ここで少し、黙想の時間をとってみたいと思います。皆さんにも今、同じことをお尋ねしてみます。私達も、この礼拝が終わったらそれぞれの場所に帰ってゆきます。私達は、今、何を恐れているでしょうか? では、しばらく、3分くらい黙想してみましょう。

ガリラヤ湖の真ん中、真っ暗闇の中をさまよっていた弟子たちに、突然、一筋の光が投じられます。「私だ。恐れることはない。」主イエスが弟子たちにそう語りかけられたのです。とてもシンプルな、しかし、深い、深い言葉です。主イエスが、ご自身の口から「私だ。」と語ってくださる、これ以上の、慰めの言葉が、他にあるでしょうか。私は黙想のときそう思いました。そして、日本に帰る勇気が出てきました。

 私達の先達たちもきっとそうしてきたように、私達もまたこの主の言葉「私だ。恐れることはない」、 この言葉を今からの私達への語りかけとして聞きたいと思います。

 恐怖にとらわれて、パニックになっていた弟子たちは、この主の言葉を聞いて、初めて正気を取り戻しました。それから舟は間もなく、嘘のように何事もなく、すっと目的地カファルナウムに着きました。

 私達も、これから、この場所から、それぞれのガリラヤ湖に向かって出て行きます。でも、皆さんがこれから行かれるその一つ一つの場所に、主イエスが来てくださることを、聖書から聞きました。「わたしだ、恐れることはない。」この言葉を胸に、勇気を出して、出発しましょう。