ヨハネによる福音書20章30〜31 「信じて命を受ける」

石井 和典牧師

 聖書には現代の我々が経験することが許される「いのち」が記されています。かつて2000年前の偉人たちが経験したことから学ぶというだけではなく、それらを体験する。それが聖書を読む意味であると思います。もし体験できないのであれば、これは読んでいても面白くないものですが。体験できるということになれば、これらは恐ろしいほどにワクワクドキドキするものとなります。

 弟子たちは、キリストが十字架にかけられ、確かに死んで、墓に葬られたのに復活した。という出来事を体験しました。それらがあまりにもすばらしい体験であったがゆえに、皆が記憶にとどめました。記憶にとどめるだけじゃなくて、しっかりと文字にして記録にとどめました。

 十字架でキリストが死なれたのち、マリアは墓に行ってみると、そこにはイエスの遺体はなく、二人の白い衣を来た天使がおりました。天使と出会ったのです。神の使いが現れて、ここから神の業が行われていく。そのように宣言するように、物事が前に進んでいる、神の使いがそこにおることを体験しました。

 十字架によってすべてが終わりを告げたと思った弟子たちです。師匠が死んで、人生のすべてを掛けてついてきた人がいなくなってしまったのです。もう終わりでした。しかし、そこから神の業がはじめられていきます。

 私は、この落胆している弟子たちの姿からも励ましを受けます。それだけすべてをかけてついていきたいと、生活をかけて、人生をかけて、信頼しようと思える人が現れた。だからこそ、裏切られたと感じた時、皆がそれぞれの反応をしたわけです。そのように思える出会いが聖書を巡って、信仰の共同体を巡って、教会を巡って起こっているということです。

 古代の歴史から神はずっと信じるものに、ご自身の業をおこなって来てくださいました。旧約聖書がそのことを雄々しく証してくれます。私たちがあきらめて別の神に鞍替えしてしまわないかぎり、私たちが視点を主に向けて、主に信頼し、主をあがめて、主に従っていくかぎり、必ず神ご自身がその御業を見せてくださっていました。それは有史依頼変わらないことだよと、神様は旧約聖書を通して私たちに教えつづけてくださっています。だから、今このとき、神の業が、復活の地点だけではじめて起こったというのは事実ではなく、ずっと神様はお働きくださっていたけれども、この弟子たちに決定的に重要なことをお見せくださったのがこの時であった。ということができます。

 いついかなる時も、探し求めるものに神はご自身の姿をお見せくださる。それが聖書を通して体験できることです。現代においてもそうです。探し求めるものには与えるのです。

 このときに彼女らは確かに、天の軍勢が、天使がイエス・キリストに味方し、イエスさまに仕えていることを見ました。この天使たちはもはやイエス・キリストが死なれたということによって悲しんで涙する必要がないことを告げます。なぜなら、すぐ近くにイエス・キリストがお立ちくださっていたから。後ろを振り向くと、イエス様がそこにおられました。しかし、それでもマリアたちはイエス様だとは気づきませんでした。

 復活の主に出会って、復活の主による驚くべき御業を見ていても、語りかけていても、人は気づかないことがありえます。だから、気づくことが、もしかしたら、これはイエス様の御業ではないかと思いはじめることが大事なのです。

 さらにイエス様は、弟子たちが家の中に閉じこもって、恐れて外に出られないときに、家の中に入って来てくださいました。扉をあけることなく、まるで壁をすり抜けるようにして、どういう方法なのかわかりませんが、ローマの兵隊を恐れて外に出ることができなかった弟子たちのところにお越しくださいました。

 自分たちで出ていくことができなくても、イエス様がお越しくださって、すでにおられるということを彼らは経験したのです。そして、主はおっしゃいましまた「あなたがたに平和があるように」「シャローム」と。

 シャロームというのは、あらゆる事柄にわたる主の祝福です。すべてのことに平和を得る。争いがないという状態だけではありません。心の平安、肉体の平安、勝利。たくさんの意味がこもったシャロームを弟子たちにくださった。

 弟子たちはイエス様を裏切ったわけです。しかし、何もなかったように弟子たちのところに起こしくださった。そのこと自体が赦しを指し示しています。

 キリストの十字架、その血、血の効力。それらすべては、主がおられるということ。主がご臨在されるということ、現臨する主の働き。その現在性によってすべて証されます。主がここにおられれば、赦しがそこにあり、救いがここにあり、主の業がここにあり、未来があり、シャロームがあり。その主の現臨を弟子たちは経験したのです。

 そして、それらは、まさにその後の教会にも引き継がれて体験されていくことであった。だから、このような記事がヨハネによる福音書に残されて記憶されて。追体験されて。これらは、私たちがともに経験していることですと記録されました。

 そして、本日読んだ箇所によってまとめられるわけです。これらは私たちが実際に経験して受け継いでいくストーリーなのです。ヨハネによる福音書20:30、31。

 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

 ヨハネ福音書を書いたのは、信じて、イエスの名によって命を受けるためであると、その目的が記されています。イエスを信じることが命だとはっきりと言っているわけです。この本日朗読した箇所によって、結論を書いて、目的を書いて、一度このヨハネによる福音書は閉じられています。

 しかし、21章があります。一度閉じたんだけど、このままではまだ終われなかったということですね。では、21章以下はどんなことが記されているのか。どうしても終われなくて、付け加えなければならなかったこと。それがどんなことだったのか気になります。

 それは大きく二つということができます。一つは復活の主が指導して、それで漁に出てみたら、大漁になったということです。主に聞いて言われるままにやってみたら、なぜなのかわからないけれども、大漁になったのです。船の右側にと主はおっしゃいました。右というのは、神の力と権威とを表します。すなわち、神に信頼して、イエスに信頼して、イエスの力と権威とに信頼して、主に聞いていわれるままにやってみたら、大きな収穫を得ることができたということです。復活の主に出会って、復活の主の御業はこのように経験するのだということを指し示す内容です。この経験は現代の教会にも引き継がれている。21:13を見るとこのように記されています。

 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。

 ヨハネ福音書を書いて一度閉じようとした、しかしなお付け加えなければならなかったのは、復活の主は、単に一人の人に現れたのではないということ。それらは、多くの人に、さらに三度も重ねて、三というのは神様の数字。そして、これは完全にというダメ押しがその言葉の中に含みとしてあるのです。

 主イエスは、私たちに現れてくださった。それも何度も、とことん、どんな人に対しても。そのような含みがあります。

 さらに、21:15以下で、復活の主に出会った人々が得た使命というのものが記されています。それは、「主イエスの羊を飼いなさい」ということです。教会が主イエスのご命令によって教会に集まってくる羊を飼いなさい。育てなさい。しかも、そのひつじのために命を捨てなさい。どのようにこの使命のために、弟子が命を落とすのか。そのようなことまでも記されています。愛して、愛して、愛し抜いて、命さえ捨てるほどに、教会に集まってくる羊を愛しなさい。そのような使命が記されています。

 後の教会はたくさん実りを得ることができる。漁において大漁であるように、主イエスに言われるままに従ってみると、おびただしい数の民が集まってくる。その民は皆復活の主の顕現をそれぞれに経験している。その民を教会のリーダーたちがしっかりと羊飼いとしてお世話をしなさい。

 どうしてこのような教えを残さなければならなかったかというと、本当におびただしい数の人々が主イエスと出会って、奇跡を経験していったからです。ヨハネ福音書21:24〜。

 これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つひとつを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。

 復活の主イエスに出会ったという出来事はヨハネによる福音書にかかれているように、両手の指で収まるほどのものではなく、恐ろしいスピードで、数で言ったら増えていって、その記述を収めることができるようなものではない。驚くほど多くの人々が復活の主を経験している。もうこれからは、その経験を書物に収めようとしても収めきれないであろう。

 「もうこれからは、その経験を書物に収めようとしても収めきれないであろう。」

 写真一枚の中にこれだけの受洗者が写されている(フィリピンの海岸における洗礼式の写真を見せながら)。日本では現状でこういうことは起こっていないかもしれない。しかし、全世界的に考えたら、毎日、神様の前に悔い改めをして、洗礼を受けて、回心して、そして新しい復活の命に生きている人々が起こされています。この現実の中で、それぞれのストーリーの中で、主イエスの復活、現臨を体験している人がいるのです。

 もう、復活の主との出会いの記述を一つの書物におさめて、人々が持ち歩くということは不可能になってしまいました。恐ろしいほどに主の業は広範に広がっています。これが復活の主の業だ。そうヨハネ福音書は最後に証ししている。そして現実にそのようになっています。復活の主との出会いは広がりに広がっていっている。

 この一人ひとりの人生の中に、それぞれ独特の主との出会いがあります。それは一つ一つドラマチックなものに違いないと思います。その復活の主との出会いが、現臨する主との出会いがこれから、この教会をあとにする皆様の歩みに待っていることを信じます。主との出会いが今日起こされますように。アーメン。