ヨハネによる福音書 2:13〜21 「祈りの神殿」

石井 和典牧師

 イエス様が激怒されます。なぜ怒られるのか、もちろんそこには理由があります。それは神殿が汚れた場所になってしまっていたからです。神殿では動物が捧げられていました。それらは神様に対する全き献身のしるしとして捧げられていたものです。神様にささげられる動物は、傷のないものでなければなりませんでした。モーセの律法にそのように記されています。傷があるのかないのか、それらは祭司たちによって吟味されなければなりませんでした。このことを使って大祭司と祭司の集団がビジネスを行っていました。

 本来ならば傷のない動物であれば良いわけですが、大祭司と祭司の集団は自分たちが認め、検品した動物でなければ許可しないという制度を作ってしまっていました。神殿に参ったものは、外からもってきた動物ではダメで、神殿内で売っているものでなければ捧げることはできないようにしていたのです。その間に入って中間マージンをとって、利益を得るというのが彼らの商売となっていました。

 さらに、神殿では成人男子すべてが神殿税を納めることになっていました。この神殿税を納めるときに、ローマの貨幣を使うことができませんでした。ローマ皇帝の肖像が刻まれていたからです。それをユダヤの貨幣に両替えしてそこに利益を上乗せして商売をしているものがおりました。

 このような光景を主イエスは御覧になられて、激怒されたのです。なぜなら、神殿は純粋に「祈りの宮」と呼ばれるべきだからです。マタイ福音書にこのように記されています。マタイ21:12〜13。

 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」

 神殿は、全身全霊をかけ、真実に神に向かい合う場。神さまとの交わりの場。イエス様はそれを一言で「祈りの家」とイザヤ書を引用しながら教えてくださいました。また、神殿を建設したソロモンに主なる神は語りかけてくださって、神殿の本質について教えてくださっています。列王記上9:3。

 こう仰せになった。「わたしはあなたがわたしに憐れみを乞い、祈り求めるのを聞いた。わたしはあなたが建てたこの神殿を聖別し、そこにわたしの名をとこしえに置く。わたしは絶えずこれに目を向け、心を寄せる。

 名を置くというのは、御自身のご臨在がそこにあるということです。常にこの神殿に目を注いでくださって、その祈りを聞いてくださり、心を寄せてくださるというのです。神殿で祈るならば、すべてのことを全能なるオールマイティな父なる神が、そのオールマイティのお力を用いつつ聞いてくださって、心を寄せてくださるというのです。

 そして、ソロモンが主に聞いて、主に従うならば永遠の王座を神様が守ってくださると約束してくださいました。神を退けて別のものに頼るようになるならば、滅びを与えるとおっしゃられました。神殿に向かって祈り、主の御声を聞いて従うことが永遠の命と結びついていくということが分かります。祈りをやめて、別のものに頼るならば、そこで命を失うということが分かります。祈りを失うと命を失うのです。主がわが内にという確信が祈るものには皆与えられますが、祈りを失うと、わが内にという確信がまずなくなります。命を失っている状態です。

 キリストの到来から、主イエスの十字架の御業、異邦人が救いに導かれるということをもって、神の業はエルサレムの神殿にとどまるだけではなくなりました。もう全世界的な主の業となっています。使徒パウロに与えられた御言葉は、神殿に対する新しい理解を私たちに示してくれます。コリントの信徒への手紙第一3:16〜17。

 あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。

 キリストの御名によって救われ、祈ることができるようになりました。そのものたちは、そのもの自身がすでに神殿となっているというのです。実は、キリストの御名によって祈るならば、神様の視線を感じることができるようになっています。ソロモンに約束された通りのことが、異邦人である我々に起こっていることを、祈るということだけで感じることができます。

 「わたしは絶えずこれに目を向け、心を寄せる」

 それは、どこか遠くの外国のある一つの場所で特別な人だけにだけ与えられ、得られる感覚ではないのです。私たちは今ここで、キリストのお導きによって、天と地上とが繋がり、神がココに目を注いでおられるということを体験することができるようになっているのです。

 神の臨場感、キリストの臨場感。神が生きておられる。キリストが生きておられる。神がここに今目を注いでおられる。そういう霊の目が開かれている状態に入っていくことができるのに、それらを一切無視して、金儲けに目がくらみ、神の思いよりも自分の利益の実現の事に思いがいってしまっている人間をキリストは叱りつけるわけです。

 なんと父に失礼なことを、なんと、愚かなことを、こんなところから主の臨在は取り除かれてしまう。天の父はこんな汚れたところにはもはやおられない。そんな状態になってはいけない、だから、怒りに燃えて神殿を清めて商売人を追い出されたわけです。

 神の臨在はお金に比べたりすることはできません。何千、何百億をつまれたって、神の臨在を選び取るべきです。神は全能の神です。神にすれば、私たちの地上で起こることをすべてご自分の思いのままにコントロールすることさえおできになる。そんなお方のご臨在とお金、しかも、多少の利益、中間マージンなど、そんなものゴミに等しいものです。

 当時のユダヤの人々はこのイエス様の情熱を全く理解することができません。もう、神様の力に対する期待はどこかに吹き飛んでしまっていたのでしょう。神のちからよりも、目の前の数万円の利益のほうが力があるように見えたのです。霊の目が閉じて死んでいるからです。イエス様が宮を清められるということも理解できません。汚れているなどと思っていませんから。神に向き合う祈りを忘れて神を無視しているなどとも思っていません。不信仰であるなどとも思っていませんから、外見が保たれていれば、別に誰も何も言いませんでしたから、イエス様を理解できません。ヨハネ2:18。

 ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。

 神殿であばれるなど、ここまでのことをするのであるから、神から遣わされたものであるというしるしを見せることができるんだろうなと問うわけです。というのも、まことに神から遣わされたものは、しるしを見せることができる。すなわち、奇跡を行ったり、常人ではわからないようなことを知っていると考えていたわけです。

 確かにイエス様はしるしとなる言葉をここで発せられます。十字架と復活の奇跡を指し示す内容です。でも、これも聞いていた人々は全く理解できません。イエス様はこのようにおっしゃいました。

 「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」

 この神殿とは御自分のことをおっしゃられていて、今言いましたように、十字架と復活のことをおっしゃられているのです。あとから知るものにとって、御自分の運命を予見する、単なる人間には発することができない言葉であるとわかるのですが、この時、周りにいた人々にとってみれば、さらなる侮辱にしか聞こえませんでした。

 主の思いというのは、それを聞いた時、その瞬間で受け止めることができないものです。私たちの意識が神の思いではなくて、別のものに毒されているからです。別のものに毒されているということさえ無視しようとします。この福音書を読んでいる時、このイエス様の前にいる商売人が現代のこの私、自分のことを神様が言っておられるのだとは思わないのです。

 私は20歳のときに教会に来て、聖書を読んで、どうしてイエス様がここまで激怒されて、神殿で暴れまわるようにして、宮清めをされたのか理解できませんでした。

 祈りがいかに重要かということを理解できない限り、このイエス様の熱心さを理解することはできません。

 旧約の昔から、新約に至るまで、主とつながり、主の業を聞くのは祈り、すなわち神の御前にある交わりからでした。一人の人がまことに神とつながり、神から御声を聞き、神との関係を保つのか、これこそが、国の存亡から、人類の未来まで決するような、非常に重要なことであると理解できるまで、祈りがそんなに重要かと思ってしまうものです。しかし、イエス様が怒り狂うほどに、重要なのです。祈りは。

 なぜなら、祈りを突破口として、そこに聖霊が注がれていくからです。使徒たちも、祈りの中で聖霊を受けました。聖霊を受けるということは、神の思いが心に注がれて、神の思いに従って歩むことができるようになるということです。特別な力も賜物も、この祈り聖霊を受けるということの中でいただいてきました。キリスト者が世俗化し、周りと同化し、まったく力ないように見えてしまうのは、祈りを失っているからだけです。

 一人の人に、天からの光が注がれて、一人の人が回心して、一人の人が変化すると、国全体が動いてしまう。そのような記事を次々と見させていただくのが、旧約聖書の記述です。さらに、新約聖書になりますと、一人の使徒が、まるでイエス様が地上を歩まれているかのような、人々の涙に触れ、病を癒し、毒を飲んでも害を受けず、あらゆる試練と困難を乗り越えて、世界の人々がどんな異邦人であってもこの使徒を見れば、ここに神の臨在が、ここに神殿が、そういう歩みを重ねました。

 それは彼らが祈りの中で、主の霊を受けていたからです。

 弟子たちは、イエス様の熱意に動かされて後に、神殿を大事にされ、祈りを大事にされたイエス様のお姿を思い起こしつつ。このように記しました。ヨハネ2:17。

 弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。

 これは詩篇69:10の言葉の引用です。

 神殿のことを思い、祈りのことを思い、神の現臨を思い。そのことだけに心を使い尽くしているものをみて、周りのものが「愚かだ」と嘲っている。しかし、それでも主を求め続けるというダビデの詩篇です。

 他のものを捨てて神を求めれば、必ず誰かが「あいつは愚かだ」と言うでしょう。しかし、他のものを捨てて父を求め続けたイエス様が、その人を見ておられて必ず報いてくださいます。イエス様が御自身が祈りに向かうため、祈りの宮に心を注ぎ、祈ることに向かう人として、周りから嘲られたのですから、嘲られている人に主は必ず視線を向けてくださいます。

 永遠の命を勝ち取る勝利が、この祈りに、神殿に向かわれる主イエスの中にあるのですから、私たちは、この主イエスの思いに合わせて、自分を神殿に、祈りに向け続けることが勝利に向かっていることを知るのです。十字架によって、信仰に生きてこなかったものが、清められて神殿とされています。祈りに祈り、祈りによって生きてまいりましょう。アーメン。