ヨハネによる福音書7:37〜44 「生ける水の川」

石井和典牧師

 イエス様が大声で叫ばれています。大きなお声を出されるということは珍しいことです。イエス様は集まっているもの全てに聞こえるように大声で叫ばれたというのがヨハネには二回書かれています。一つはこの神殿で、祭りのときです。他の箇所で「大声」というのは、十字架におかかりになられている場面です。そんなことを思いますときに、この場面がいかに重要か見えてくると思います。

 このとき、仮庵の祭りが行われていました。仮庵の祭りというのは、かつてモーセに引き連れられてイスラエルがエジプトを脱したときのことを覚える祭りです。天幕を貼って荒野で生活をしなければなりませんでしたが、出エジプトの奇跡とかつての荒野での生活を人々は思い起こしました。ですから、実際に7日間、普段住んでいる安定した住居を離れて、天幕とか仮小屋で過ごしました。

 荒野というのは何もないところです。水もパンも。しかし、神は民に不思議にも毎日マナを与え、水をお与えになられました。仮庵の祭りというのは、生きるために必要なものも、あらゆる危険からの守りも、全てが神様から与えられるということを教えられるものでした。命の危険と常に隣り合わせの場所です。しかし、だからこそ神様から与えられる恵みは、荒野において、非常に明白にわかりやすい形で望んでいました。奇跡が毎日起こりました。

 マナという食べ物が与えられました。露が乾いたあとに残る薄い霜のような外見で、白く、蜜を入れたせんべいのように甘いものでした。早朝に各自一定量ずつ採って食べねばならず、気温が上がると溶けてしまう。余分に採取することは許されず、食べずに置くとすぐに腐敗して悪臭を放ちました。

 ただし安息日には降ってこないのでその前日には二倍集めることが許されている。カナンの地に着くまでの四十年間、イスラエルの民の食料でした。奇跡の食べ物です。しかし、この奇跡によって支えられてイスラエルの歴史がありました。

 もちろん、荒野でなかったとしても、神の恵みは常に与えられています。

 しかし、安定してしまうとどうでしょうか。神の民が約束の地に住むようになるとすべての必需品や安全は神から与えられているということを忘れてしまい。真の神を無視し、カナンの神、すなわちバアルを愛するようになってしまいました。その結果、国が滅び、バビロン捕囚に至ることになってしまいました。

 この痛みの伴う経験を忘れないようにするために仮庵の祭りを守ることが重要でありました。特に砂漠における「渇き」を意識することが重要でした。仮庵の祭りで注目すべきことは、シロアムの池から水が運ばれてきて、祭壇に注ぎかけられましたが、その水が注ぎかけられるすぐ脇に、祭壇の南西の場所に柳の木が立てかけられていたということが重要なのです。毎日祭壇の周りを一週ずつ祭司が回りました。

 ユダヤ人たちはエルサレムの西側にあるモツァという村の川べりから毎日新しい柳の木を折って持ってきました。というのも、柳の木は折られた瞬間から活力を失い始め、たった一日で枯れてしまうのです。このように一日で柳の木は枯れてしまいますので、仮庵の祭りの間は毎日柳の木をとりかえました。そして、仮庵の祭りの最後の日に特別な行事を行いました。

 それが、本日朗読された箇所。イエス様が大声で叫ばれた場面となります。

 仮庵の祭りの最後の日には、また新しい柳の木を祭壇の南西に立てかけて、祭司を先頭にして祭壇の周囲を行進します。本来、祭壇がある神殿の祭司の庭は、祭司以外は普段は入ることができません。ですから、聖域です。しかし、この仮庵の祭りの最終日だけ、特別にイスラエルの巡礼者たちに解放されました。普段は女性の庭から先に入ることができなかった女性も、さらに子どもたちもこの祭壇をまわる特別な行事に参加することができました。

 普段は祭壇の周囲を一周しますが、仮庵の祭りの最終日には、祭壇の周りを七周します。このとき、巡礼者たちは祭壇の周囲を回りながら、詩篇の祈りをささげました。詩篇118:25。

 どうか主よ、わたしたちに救いを。

 どうか主よ、わたしたちに栄を。

 どうか主よ、わたしたちに救いを。というのがヘブライ語で一言でいうと「ホサナ」という言葉になります。どうぞお救いくださいという意味です。

 水がないために枯れていく柳の木の枝を横に、その柳の木の水分をうしなって枯れて行く姿の中に自分自身を見ながら、「どうぞお救いください」と祈り続けていくのです。荒野を旅する民にとっては、水は命そのものでした。水は創造主なる神の恵みそのものでした。水がなく、枯れてしまう柳の木のように主なる神の特別な恵みがなくては枯れてしまうイスラエルを救ってくださいという祈りを皆でささげる。これが祭りのクライマックスでした。

 神の特別な奇跡がないと生きていけない。神の憐れみが注がれないと生きて行けない。水がないと生きていけない。柳の木のように私たちの心は渇いている。ホサナ、ホサナ、ホサナ。

 そこでイエス様が叫ばれたのです。ヨハネによる福音書7:37。

 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしたちのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人のうちから生きた水の川が流れ出るようになる。

 聖書に書いてあるとおりといっておられますので、引用先があるわけですが。何箇所か思い起こすことができます。

 イザヤ書43:19―20。

 見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き砂漠に大河を流れさせる。

 イザヤ書44:3。

 わたしは乾いている地に水を注ぎ 乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ あなたの末にわたしの祝福を与える。

 いのちの水が流れ出してくるというのは、聖霊がその人の内に注がれるということが行き着く先です。洗礼者ヨハネが以前、イエス様が聖霊の洗礼をお授けになるお方であると言われた通りです。ヨハネによる福音書1:33。

 『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である。』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。

 イエス様は生きた水を与える与え手であり。それを受けるとその人の内で生きた水が川となって流れ出るようになる。その意味は、「聖霊によって洗礼を授ける」ということです。その人が聖霊によって満ち満ちていくということを意味します。言い換えますと、神の思いで心がみちみちて来て、浸されて、つむじの先から足のつま先まで、神の思いで満たされるということです。洗礼という言葉のもとは浸すという意味のある言葉です。そして、その聖霊は溢れ流れていきます。

 水が溢れ流れるイメージが旧約聖書の中にあります。エゼキエル書47章です。イエス様はこの箇所を思いつつ、「聖書に書いてあるとおり」と言われたかとも思われます。

 エゼキエル書の方に記されていることは、神殿の敷居の下から水が少しずつ湧き出してきて。それが流れ出し、500メートル先では足首の深さになる。さらに500メートル行くとその流れは膝までになり、さらに500メートル行くと腰のあたりまでになる。さらに500メートル先に行くと、立つことができないほどの深さになり、もう泳ぐしかない。しかし、次第にもうその流れに逆らうことができずに押し流されていく。

 これが神のいのちの水の流れの力です。聖霊の力です。そして、エゼキエル書47:9にはこのように記されます。

 川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。

 一番はじめに流れ出した流れは、非常に小さなチョロチョロとしたものというイメージです。最初はその流れがあるのかさえ気づかれないような小さなもの。しかし、次第にその流れが集まって大きなものをつくりだし、誰も抵抗できないような力となる。それが聖霊の業。聖霊のバプテスマを与える主イエスの御業です。

 新約聖書では、神殿は信じるものの体そのもの、信じる者たちの共同体を意味するようになります。ですから、私たちの心から流れ出してくる小さな聖霊の流れ。それははじめはちょろちょろと小さなものに過ぎませんが、その小さな流れこそが極めて大事であるということがわかってきます。

 聖霊の働きのはじめの小さな流れというは、私たちが日々感じる御言葉から得られる喜びです。御言葉によって心動かされて行動も変化してしまう。それは感動するからですが。御言葉を毎日読んでいますと、そのような経験をいたします。心に聖書の言葉が響き渡りはじめると、祈らないではおれなくなります。御言葉が心に響き、聖霊なる神のことがわかって、聖霊は直ぐ側におられることが実感されると、更に祈らないではおれなくなる。 

 御言葉と、祈りと、日々の小さな感動。聖霊による導きを大事にしていますと、やがて誰も抗うことができないような、神のちからを体験するようになる。それが聖霊の時代である我々教会が体験することです。だから、エゼキエル47章のイメージというものを明確に私たちは持ち続ける必要があります。

 小さな心の中で味わわれていた聖霊の感動がどんどん大きく広がって行くのです。

 では、いのちの水の川を経験するためにはどうしたらよいのでしょうか。イエス様がはっきりとその答えを教えてくださっています。

 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人のうちから生きた水の川が流れ出るようになる。

 「わたしを信じる者は」です。信じるものは、主の聖霊の働きを経験するというのです。たったこれだけなのです。

 信じて、おそばにおられる聖霊、キリストが傍らにおられると信じぬいて祈り続けてきたものだけが、その聖霊の働きを確信し、経験し、喜びに溢れ、それが更に満ち溢れて、泉から命が溢れてくるのを経験します。

 神殿となるためには、清められなければなりません。私たちが汚れをそのままにしておいては、キリストの霊はやどられません。神の思いが注がれても、すぐその思いがどこかにいっていますのです。ですから、キリストの血潮の効力に信頼して、その効力に委ねる祈りをいたしましょう。キリストの血潮が注がれ清められたことを信じますという祈りをしてください。

 清めを受け、信じ、聖霊を受け。一人の小さな小川といいますか、チョロチョロとした小さな命の水の川の流れが復活し、その復活した流れは、その小ささを大事にしていますと、いつしか大河のようになっていくということを信じて参りたいと思います。アーメン。