ヨハネによる福音書 8:12〜20 「世の光」

石井和典牧師

 イエス様は闇の中にある光です。闇の中に光があると、見えなかったものが見えるようになります。隠されていたことが見えるようになります。福音を聞くと目から覆いが取り除けられて、見えるようになって、神様の御手を発見していくようになります。しかし、聞く耳を持たない人にとっては、イエスさまがおっしゃられていたことは、全く理解できないものでもありました。

 仮庵の祭りの最終日に、イエス様は、ご自分が命の水であることを宣言なさいました。祭りが最高潮に達するときに、民がホサナホサナと叫び。「救い給え」と神殿の祭壇の周りを7度周り、祭壇に立てかけてある枯れた柳の木の枝に自分自身を投影させながら、主の救いを求めたとき、主イエスは大声で民にアピールされました。ヨハネ7:37―38。

 渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。

 イエスさまが祭りの中心であり、イエスさまのところに皆が来るように。そのようにおっしゃられたふうにうつりました。そういう意図をもって大声で叫ばれたのですが。しかし、聞く耳のないものにとっては、この宣言は不遜な、神を恐れない、不信仰な発言に聞こえたに違いないと思います。「なんでお前が祭りの中心なんだ」と思った人間がいたに違いない。

 私に命がある、私に光がある、私に神との出会いがある。私と神とは一体である。そのように聞こえてきますので、それを信じる気持ちの無いものが聞けば、なんという傲慢な言葉であろうかと聞くしかないわけです。

 早天礼拝で詩篇の言葉を共に読んでいます。この詩篇の言葉。私は詩篇はあまりにも同じ言葉が何度も繰り返されてまどろっこしいというか、心に響かない言葉の一つでした。しかし、早天礼拝でみなさまとご一緒に読んでいくとどうでしょうか。これらが光を放って、一つひとつの言葉に込められた含蓄が、響いて来るようになりました。というのもそれは、しっかり聞こうと、ミットを準備して玉を受けようと待ち構えているからに違いないと思うようになりました。

 昨日は詩篇105編を共に読みました。アブラハムに約束された契約の言葉が「とこしえの契約」であったということが私の心にひどく強烈に響きわたりました。創世記15章を振り返ってみますと、神様とアブラハムが約束を交わすのですが、神様の方が、ご自分の存在、命をおかけになられてこの約束をお守りになるということを、お示しくださっていることに気付かされるのです。

 古代の契約の仕方は、動物を裂いてその真中を人が通って、もしもこの契約が反故にされてしまった場合は、この動物と同じように殺されてしまっても構わないという意味で、あえて動物を割くということが行われていたわけです。その契約の方式に、神様がご自分の命にかけて、アブラハムとの契約を結ばれたということが、創世記15章からわかるのです。神のご臨在をしめす煙と炎が動物の間を通っていかれたのでした。

 そのアブラハムを通して全ての民が祝福に入るというのが、神様が約束してくださったことです。祝福という言葉は、仕えるという意味があります。神様を祝福されるとき、もうすでに人間に仕えてくださっている。それはありえない光栄であります。イエスさまが、民に仕えてくださった。私たちには、主イエスがお仕えくださるお方だということ、すなわち神に我々は祝福されているのだということがわかるようになっているのです。この契約の言葉どおりのことが異邦人である私たちにおいて起こっているのです。アブラハムの子孫はユダヤの民です。そのユダヤの民の末裔である主イエスを通して全世界に、神様の祝福がすでに広まってしまっている。アブラハムの契約が実現しつつある。そんな中にあり、永遠の契約が守られる中にあることを実感したのです。

 聞こうとすると、神様は効き目のある御言葉をどんどん私たちの心の中に響かせてくださいます。しかし、聞く耳を持たないものには、同じことを何度言っても響かない。イエス様と本日の聖書箇所でお話しているのは、ファリサイ派の人ですが、彼らはイエス様があまりにも大きなことを言うものだから、不遜な人間と決めつけて、異端児としてレッテルを貼って、もう話しを聞く気などないという態度で望んでいます。とにかくイエスさまを偽りものとする方に話しを持っていこうとします。

 13節で「あなたは自分について証をしている。その証は真実ではない」というのは、これはユダヤ教のラビたちが律法について解釈や教えを加えたミシュナーという重要な文書の中に記されていることを元にしていると思われる言葉です。「人が自分のために証言するとき、その人には信用がおけない」と記されています。

 イエス様は、ご自分が神の御子であり、父と一体である。その前提でお話をされていますので、ご自分が世の光であると証をされるのですが。このファリサイ派の人は、他の人と全く同じ人間にすぎなとイエスさまのことを思っています。だから、むしろ偽りものであると思っているので、なんとか論破して、律法にそぐわないことをしているという方向にイエスさまを落としてやろうと考えているのです。15節でイエスさまはこのようにファリサイ派の人々のことをおっしゃっています。ヨハネ8:15。

 あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。

 天のことを知らず、神のことを知らないものが、キリストを裁こうとしている。人間の視点から物事を見て、地上からしか見えないで、すなわちほとんど見えないものが裁き主となっている。天の存在であり、神と一体である主イエスを前にして。それがいかに愚かしいことであるのか、気づかせようとお言葉をかけくださいます。

 今は裁きを下すときではなく、このようなファリサイ派の人々が発することばも、これも裁かれてしかるべきでしょうが、静かに見逃されている。だから、ご自分は今は裁かないとおっしゃられているのですが、もしも裁くとすれば、正しいことをご自分は人々に証しているのだとはっきりとおっしゃっているのです。

 「いやぁ、なんと愚かな!」とファリサイ派の人の発言をみていて思うのです。しかし、これは他人事ではありません。これこそが人間の罪。私たちが今現在も抱え続けているものです。罪はキリストの十字架の血によって赦されて真っ白くされるのですが、未だその性質が残り続けます。聖書を読んでいる私たちこそが、主イエスの前に、このような態度を取ってしまっているのです。

 イエスさま、神様、イエス様は光です。そのように言われても、それを受け止めずに通り過ぎて、自分の肉の判断によってなにかをすぐに判断し始めます。神の言葉を神の言葉として受け止めずに、片隅の言葉として、簡単に通り過ぎる。そして、自分の先入観に従って逆に、神を自分でこうだと規定しはじめて、結局神を経験するに至らない。そんな状態にクリスチャンこそが陥っているのです。

 光というのはヘブライ語を参照すると非常にわかりやすいです。光というのは神を表す文字と、上から釘のように降るというイメージのある文字と、考えや思考、計画を意味する文字が組み合わさったオールという言葉です。神のお考えが、神のご計画が、神のご意思がこの心に一直線に降ってく様それが光です。それとは逆の闇というのは、この世の思い煩いに囚われて牢獄に入れられているイメージです。まっすぐ降ってくる神様のご計画をそれが思い煩いが邪魔して見えなくなっている。それが闇ですね。

 さらにこの箇所の続きを読んで行きますと、闇に属するということはそれは死を意味するということもわかってきます。ヨハネ8:21。

 「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」

 さらにもう一言言われました。ヨハネ8:23。

 あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。

 死というのは、この世に属するものとなるということです。この世の中のことばかり考えている状態。その人は死ぬしかありません。しかし、天のこと、すなわち、光について。神様のお考えと神様の思い。それはこの聖書の中に啓示され続けていますが、この事に目が開かれて、光が心の内側に注がれて、天のことを考えるようになり、神のご計画、神の思いを四六時中考えるようになって、その人の心に天が広がっているとその人は天に属する人になるわけです。

 天に属するのか、地に属するのか。それはその人の心の内にあるものを見れば分かりますが、地に属するならば、それは死以外の何も結論として待ってはいません。何を着ようか何を飲もうかで思う悩むなと主イエスは言われましたが、それはまさに死に属することに過ぎないからなのです。

 しかし、『わたしはある』ということを信じることが命であると主イエスはおっしゃいましたが、すなわち、これは聖書の中に啓示されている神様を、神様とまことに受け入れていくということですが、神を神として信じるならば、その人には命しかないとおっしゃられているわけです。

 わたしはあるという言葉は、出エジプト記3:14で主がご自分のことをおっしゃられている言葉ですが。これは決定的に重要な言葉です。存在の根拠は私である。私がおらなければこの世界はない。わたしがいなければあなたはいない。わたしは存在である。わたしはある。そういう意味ですね。ですから、すべての中心におられるのは主なる神であるということです。そして、その御方に遣わされて、その御方と一体であり。神の言葉を語り。天に属するということはどういうことかを語り続けている。この御方のもとに来れば光が見える。

 神の思いがこの心に降ってきて、神の計画を理解し、神の計画のために自分を動かすことができるようになっていく。そのものには天からあらゆる助けが与えられ、天の万軍が味方し、命の水が流れ出していくのです。だから、主イエスはこのようにおっしゃられました。ヨハネ8:31。

 イエスはご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

 イエス様の周りにおって、疑いをもつものも多かったですが、信じる人達もいました。信じたものたちは自由にされます。なぜなら、本当に大事な一つのこと、主イエスについていくということを選び取って、神様のご意思を心に宿すこと、光を心に宿していくことこそ、自分が生かされている意味だと悟るからです。そこには光が溢れて、心が晴れやかに自由にされていくのです。

 聖霊による洗礼を授けるお方である主イエスについていく人は、命の水が心から溢れながれて、光を知り、神の計画を知り、追い求め、それゆえに自我から解き放たれていって自由にされる。主イエスについていくところにだけ、この自由があります。主をあがめたいと思います。アーメン。