ヨハネによる福音書10:7〜18 「主は羊飼い」

石井和典牧師

 イエスさま以外にこれまで誰も、天への道を開いてくれる人はいませんでした。主イエスによって清められて、主の御前に立つことができ、祈りを覚えて、天の父との対話を知りました。イエス様の血潮による清めがなければ、主の御前に立つこともできず、祈ることもできず、天を知らず、霊を知らず。天的な霊的な世界に目も開かれず、その存在さえもよくわからないで過ごしていたに違いありません。

 しかし、主イエスが道を開いてくださいました。天を得ました。それが永遠の命であることをも知りました。

 イエス様の御声を聞くことができたことが、奇跡以外のなにものでもありません。この御方の声を聞くことができるということは、当たり前のことではなく、特別なことです。

 羊であるということの証明がこの主の御声を聞くことができるということです。聖書を通して、イエス様の御声を聞きます。これが心に響いてくるということが皆様が羊であることの証明です。羊でなければ響かないし、聞こえないのです。主人の御声が主人の御声であるとも理解できないし、受け止めきれません。

 人間というのは、イエス様が表現されるように、囲いの中に入れられている羊です。羊というイメージをしっかり自覚して、主に助けを叫び求めることができれば、祈ることができれば、その人は幸いです。なぜ羊を人間に適用するのかというと、それはそのまま驚くほど人間との類似点が多いからです。類似点は様々にあげることができます。

 羊は群れで生活をし、弱く臆病であり、先導者についていってしまい、視力が弱く、方向音痴である。

 これらを人間の人生に適用していけば、すべて心当たりがある。そんな存在が羊です。

 何よりも一番心当たりがあるのが、視力が弱く、方向音痴であるというところです。目の前に広がる人生の先の一歩も、明日のことも何もかも、予測してもそれが外れていく。こっちが正しいと思っていたけれども、その道は違っていた。そういうことの連続です。

 実際に正しい道を歩んでいるかどうか、その方向性の認識もずれている場合がしばしば。自分が正義だと信じていたら、それを踏み外している。オレは正しいことをしている、あいつを正してやろうと思っていて、実は自分こそが間違っているということが常に起こります。何も見えておらず、方向音痴なのです。この自覚こそが大事です。羊であると自覚している人がおるところそれが教会です。 

 王の中の王ダビデは、なぜ彼が王として未だに尊敬を受けているのかといえば、彼自身「自分が羊に過ぎない」ということを自覚して、飼い主である神に頼り切っていた王だからです。サムエル記下7:8にしっかりとダビデに対する預言が記されています。

 わたしの僕ダビデに告げよ。万軍の主はこう言われる。わたしは牧場の羊の群れの後ろからあなたを取って、わたしの民イスラエルの指導者にした。

 ダビデは最高の王でしたが、同時に、自分が非常に弱い存在であることを自覚していました。この預言がしっかり語り継がれたということは、「自分が一番弱い羊であった」という自覚の上に彼が立って、それを文字としてのこし、また語り伝えたからです。ダビデは兄弟の中で最も見劣りする存在だったのです。

 しかし、主はその人をこそ用いられるお方でもあります。神の前に弱い羊に過ぎませんが、その弱い羊に過ぎないという自覚に立つことができ、助けを求めて、祈りを答えていただけるということが実は、自分の力を誇示したり、あくせく働いて何かを成し遂げたり、そういうことよりも先であることが分かります。

 イザヤ書にも羊という言葉がでてきますが。53:6。

 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。

 道を誤り、それぞれの方向に向かっていった。これが人間の現実であり、これこそが神の前における罪。常に聞いて、すなわち常に祈って行かないと、常に道を誤り続けてそれに気づかないのだということです。罪というのは、ヘブライ語でアウォン、ギリシャ語でハマルティア。両方ともに「的を外す」という意味があります。方向音痴で、方向を誤るのです。誤っても誤ったことにさえ気づいていない。それが罪。

 弱く、罪に満ちている。そんな羊を導いてくださる羊飼いがおられる。その真の羊飼いに従って行く。それがキリストに従うということ。御自身が羊の囲いの門であり、羊飼いであられることを、本日の聖書は証しています。

 羊はとにかく、良い羊飼いの囲いの中に入っていれば、それでオールオーケーなわけです。実は人生においてそれだけが問題であったわけです。その中心の問題に気づくことができたというのがこのキリストの名のもとに集まってきている共同体の特性です。その問題が第一の問題だと思っているから、毎週、毎日、キリストの名のもとに集まること志が立つのです。羊飼いのところに来るということは自分の意思でやめることだってできます。しかし、良い羊飼いである主イエスの声を聞こうとする集団に、真の主によって選ばれている羊は集まり続けます。主の羊だからです。主の声が発せられるところにどうしても集まります。主の羊だからです。

 良い羊飼いの特徴を主イエスはお語りくださいます。これは御自身のことを言っておられるわけですが、この御方に守られている羊なのだという自覚をおもちいただいて、癒やしを受け取っていただきたいと思います。ヨハネ9:10。

 わたしが来たのは羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

 ヨハネ福音書で、イエス様が命とおっしゃられるときには常に「永遠の命」が意識されています。神様とともなる命です。終わりのときに至って、この時代を乗り切って、次の時代に至る命。たとえ、この世で命を落とそうとも、今一度復活させていただくことができる。一度死を迎えたものも、復活させていただけると記されています。テサロニケの信徒への手紙第一4:16以下。

 すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。

 主が来られる終わりの時に生きているものも、すでに死を経験したものも、キリストに出会うために引き上げられます。引き上げられるときに、問題なのは、生きているか死んでいるかではありません。キリストと結ばれているかということだけが問題です。キリストに結ばれているかどうかというのは、使徒たちの言葉を聞くと見えてきます。コロサイの信徒への手紙3:1〜4。

 さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。

 キリストにあるものは、この世の事よりも、天におられるキリストのこと。神の思い、聖書の言葉、そちらの方に引き寄せられるのです。天の思いによって我がうちを満たしていく。聖霊が注がれることを受け入れて、心の隅々まで、やがて天の思い、天の空気、天の水、天の力、天の喜びで満たされていくのです。

 新婚の夫婦がいつもお互いに向かって心が惹きつけられているように、キリストの花嫁である教会は、主にむかって心が惹きつけられて、いつも心の内にキリストのこと、聖書の言葉があるのです。それが花嫁です。常に教会はキリストにたいする花嫁として描かれていきます。

 この命を豊かに得させるために、羊飼いは命を捨てられました。実際に十字架におかかりになられて、その血潮によって清めを受けて、主のもとに行くことができるようになりました。祈ることができるようになりました。それは、すべて、主の命が注がれた功績によります。羊飼いは命を捨てて、責任をご自分が背負われ、必ず信じるものが、永遠の命を受けることができるようにとご配慮くださるのです。

 羊飼いであるイエス様は羊のことをよく知っておられます。

 この交わりに招かれて、羊飼いを受け入れる人のすべてを主イエスは知っていてくださいます。以前、サマリアの女のお話をしているときに、サマリアの女が「わたしのことを何もかも知っている方に出会いました」と信仰告白しながら、証の生涯を送っていたと申し上げました。私のすべてを知っていてくださるかたを知る。このことが救いになるのです。

 この世の何もかもをもし失ったとしても、まだあるものがある。それは、主イエスが私を知っていてくださるということです。全てを失ってもまだ生きる意味があります。それは主が私を見ていてくださるからです。ただこれだけで、人は生きることができます。

 まだまだ囲いに入りきれていない人々がいると感じ、常にキリストは羊を導くために探し回っておられます。キリストの御声がかけられ、選ばれている人は、その御声に反応することが許されています。羊はわたしの声を聞き分けるとイエス様が教えてくださっています。だから、聞き分けることができる羊が集められることを信じて教会はイエス様の言葉を発し続けるのです。これは発し続ければ良いのであって、羊であれば、飼い主の言葉によって来ます。

 この会話の中で主イエスは、最後に捨てる、捨てる、捨てるとしきりにおっしゃられておられます。捨てるということは、愛するということと極めて密接に関連しているからです。愛すると捨てます。何を愛しているかは何を捨てているかを見れば分かります。世のものを愛していれば、天を捨てているのであるし、天を愛するようになれば、世のものを捨てるようになる。キリストを愛するのであれば、他のものは捨てたいと普通に思うようになります。キリストはすでに私たち人類を愛するがゆえに、ご自分の命を捨てるとおっしゃられているのです。このご愛を真正面から受け止めるには、必然的に何かを捨てなければならなくなります。しかし、愛する喜びをもって、捨てることができる。これが聖霊に満たされたものたちの世界ですね。

 羊飼いの姿を見ていれば、喜んで愛する、喜んで捨てる。神の恵みに満たされて真実に生きる。天とつながっているゆえに、真実を語り、誰に傷つけられても恐れない。そのような姿が見えてきます。

 ソロモンという王は、神の御業のために、神のご計画のために、自分が欲しいものとか、自分が得たいものとか、そういったものを脇にどけて、ただ神の業のために必要な能力をくださいと祈りましたが、これこそ愛です。神のためであれば、他のものは捨てておいてもいい、自分のことは脇にどけておいて、とにかく、主が望んでおられることを。その結果、彼は祈り求めた能力もいただきましたが、求めていなかった金銀財宝までも手に入れることになりました。

 この羊飼いについていって、なにかを脇にどけて、捨てて、主を愛したら、大変なことが起こりますよ。神の業がまさに起こってしまう。喜んでどんどん捨てたくなってしまう。何という豊かな天の満ちでありましょうか。弱い羊で、ただ主についていくことを選び、捨てて、得て生きたいと思います。アーメン。