ヨハネによる福音書 11:17〜27 「死んでも生きる」

石井和典牧師

 死は神の栄光が現れる時となります。

 信じる者たちには、「この世で起こるすべての事が神の栄光のためにある」との悟りが与えられます。私の身に起こることも、神の栄光があらわされるためにあるのです。神の御手の中で、神に包まれている世界の中で起こることは、「神の栄光のため」という流れになっていきます。何が起こっても、主の御手の中です。たとえそれが死であったとしても、死を乗り越えることができます。主の御手のちからをもって。私達が主を信じ、従うかぎり、主は主の栄光のために私達の命をお用いになられます。逆に言えば、信じ従わないのならば、主の栄光を示すのではなく、滅びに向かうものになってしまうという恐ろしい現実があるということです。

 イエス様は、全能の父なる神のちからをお見せくださいました。その力をご自分がお持ちであることをお見せくださいました。人を蘇生させることができるということを見せるために選ばれたのが、ラザロという人でありました。

 蘇生させるために、選ばれたというのは、なんとも複雑な気がします。なぜなら蘇生するためには一度死ななければならないからです。

 ラザロの兄弟というのは、ベタニヤという場所に住んでおりました。イエス様がその時おられたのは、かなり遠いところでした。ヨハネ福音書10:40。

 イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、

 と記されていますので、ヨルダン川の東側で、エルサレムからかなり離れた場所におられました。というのも、もうすでにイエスさまのことを殺そうとする人たちが出てきていたからです。その人々から逃れるようにして、ヨルダン川の東側におられたのでしょう。そこから、今日の舞台である、ラザロ、マリア、マルタの兄弟の家は、距離にして徒歩で一日のところにありました。ですから、緊急事態とあらば、一日で駆けつけることができる距離にイエスさまはおられました。行こうと思えばすぐにでも行けたのです。しかし、イエス様はすぐには腰をあげられませんでした。ラザロが厳しい状態にあって、マルタとマリアは、イエスさまのところに遣いをやってその情報を伝えます。しかし、イエス様はその知らせを聞いて、なんとおっしゃられたかというと。ヨハネ11:4。

 イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がこれによって栄光を受けるのである。」

 そして、その後が驚きなのです。11:5〜6。

 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。

 この知らせの第一報をイエス様が耳にしたときには、まだおそらくラザロは生きていました。しかし、もう瀕死であったことに間違いはありません。瀕死であるそのラザロをそのままにして、二日間も同じ場所にとどまっておられました。

 そして、「眠った状態になった」のを、つまり、「死んだ」ということの確信を持つことができるようになってから、イエス様はその足をベタニヤの方向に向けられたのでした。

 「人は死んでしまったら、そこで全てが終わりだ。」そんなふうに考えてしまいます。しかし、死で終わりでないことを、神が指し示されます。イエス様がそこにおられれば、死は終わりではないのです。だから、死を通り越して、主イエスは、あえてラザロが死を迎えるように待っておられたのです。

 助けることができるお力をお持ちであられながら、死を迎えるのを待っておられるとは、まさに人間の感覚を完全に飛び越えたイエスさまならではの発想です。これは、神のちからをその内に宿しているその人にしか持つことのできない確信です。

 人が死んだらもうそこから何も起こらない、ではないのです。神は「人が死んだそのさきにもことを起こすことがおできになる」お方なのです。だから、「ラザロがあえて死んでから」主イエスは動きはじめられるのです。主はおっしゃられます。ヨハネ11:14。

 そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」

 主イエスが思い描くことと、人が思い描くことは違います。主は「神の栄光が表されること」を考えておられます。それがみ心であり、道理であり、真理であり、幸いなのです。しかし、人間は近くのことしか考えていません。

 自分のことは自分の願いや思いの内で、親族のことも自分の思いの内で。

 しかし、「神にはご計画がおあり」であり、さらに、その上で二人の祈りを無視しているわけではありません。二人の悲痛な叫びに答えて、ラザロをやがて復活させてくださるわけです。

 しかし、彼女たちには今は何も見えていませんので、祈りが何も聞かれていないかのような、まるで「自分たちの懇願は無視されているかのような」錯覚に陥るのです。しかし、主は信じ、従うことを選び取る聖なる者たちの祈りを何一つ無視されません!

 

 ラザロが葬られて4日後、主イエスはベタニアに到着なさいました。当時のユダヤの人々は3日目までは、まだ魂が死体の近くに浮遊しているから蘇生する可能性があると信じていました。しかし、4日目となるともう蘇生する可能性はないと皆が思います。そんな時をあえて主は選ばれたのです。決して人の力でも、肉体の力でも、この壁を打ち破ることはできない。そのようなときに、ラザロを復活させるためにお越しくださいました。

 マリアとマルタの姉妹がイエスさまを迎えます。マルタはイエスさまのところに来ます。しかし、マリアはイエスさまを迎えにでることはせずに家の中におりました。マルタは言いました。ヨハネ11:21。

 「主よ、もしここにおいでくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」

 彼女たちは、イエス様がラザロが死ぬ前に来ることができれば、癒やすことができるということは信じていたのです。ですから、もしも間に合ったら死ぬことはなかったでしょうにというのです。

 しかし、イエス様がラザロを復活させることができることについては、ほとんど信じてはいません。神様がなんでも聞いてくださるというふうには言っていますが、まさか墓からすでに葬られたラザロが出てくるなどということはありえないと思っています。終わりの日の復活は信じているようですので、その時点で復活するのだけれども、今は違う。そんなふうに捉えているのですね。

 主はそんなマルタに決定的に重要な一言をくださいます。ヨハネ11:25以下。

 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

 イエスさま御自身が復活の命です。この御方につながっているのならば、その人は常に命につながっています。信じると命がつながっていきます。信頼すると関係が復活し、その関係を通して、様々に神の業が起こっていきます。真の信仰者の周りには次々と神様の御業がおこります。イエスさまを信じることで、イエスさまとの関係が回復し、イエスさまの行動がその人の周りにおこり、命の水がその人を通してながれはじめます。

 肉体的に死を迎えても、それでも生きる。主が全能の力によって生かしてくださるので、死んでも生きる。肉体が滅びたところで、主のもとで生き続ける。生きていて、命の源であるイエスさまにつながるのであれば、その人は決して霊的に死ぬことはない。天の父なる神と、イエスさまとの対話の中にある命を体感しはじめると、この言葉が実感をもって良くわかるようになります。祈りの中にある。神との対話の内にある命を自分の中で実感しはじめるとイエス様の言葉が腑に落ちるようになります。

 対話の内にある命に入ると、死なないということが実感をもってストンと胸に落ちます。どんなことがあっても、私を見捨てない主がおられるのが分かります。実感をもってそれを味わうためには、ただ信仰だけが必要です。イエス様がおっしゃられているとおりです。

 「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じるものはだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

 マルタは信じると告白します。ヨハネ11:27。

 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

 信じるということはどういうことか、マルタが教えてくれています。マルタは、主イエスについて行きました。従っていきました。そして、言われるとおりに行いました。兄弟ラザロの墓の石をどかしました。もう腐っていて匂いますと、一言言います。それでも従っていきました。心で思っていたことと違うこと、まさかこんなことが起こるのかといことを次々とイエスさまにお見せいただきます。

 イエスさまは途中で怒りを覚えておられます。イエス様が人を復活する力をお持ちであるという宣言をイエス様の言葉を聞きながら、実際にはその言葉をマルタもマリアも信じていなかったからです。ヨハネ11:33。

 心に憤りを覚え

 と記されています。これは、死に閉じ込められ、そこから抜け出すことができない人間の悲しみ、そして死ということを通して人を闇に閉じ込める罪の力に対して、主は怒り。さらに、実際にはマリアもマルタも周りにいる人達も、神の力を信じると言いながらも、目の前で復活は起こるはずはなかろうと信じてはいない姿をごらんになられて、心に憤りを覚えられたのです。

 しかし、この一連の流れからわかるのは、イエスさまについていったもの、信じきれなかったけれども、信頼して墓をあけてみたもの、半信半疑だれもども、その場にいつづけたものは、主の業を見させていただいたということです。「神の栄光を拝見する光栄」に預かったということです。

 主を信じること。これが私達の全て、命です。今日も、これからの未来も決します。信じるということはイエス様についていくこと、従うことも含まれます。信じていない人はついていきません。信じる人はついていきます。従います。主を信じ、聖書を読み、対話の中に入ると、祈りの中に入ると、命が通いはじめます。血が通い始めて、信仰が脈打ち始めるのです。するとそこで力が与えられます。信仰は実は命であったということを経験しはじめます。聖書の言葉に血が通いはじめます。

 聖書の言葉を通して、神の語りかけを聞きます。聖書で起こったことが、自分の身の回りでも起こることを経験しはじめます。命が通い始めますと、キリストとつながり死なないということがどういうことか、キリストがすべてをささげて私達の供え物となられたことが恐ろしいほど大きな恵みであり、私達が全生涯をかけてお返ししてもお返しできないぐらいの恩がそこに積み上がっているということを見出します。黄金以上のものが聖書のなかにすでにあることを見出します。

 「信じ従うもの」は、キリストが復活させ、キリストが養い、キリストが活かすので、もう死なないのです。復活のちからをラザロにお見せくださいました。信じる者たちが経験する力をお見せくださいました。信じるものはその同じ力で守られていきます。アーメン。