ヨハネによる福音書 14:1〜14 「道、真理、命」

石井和典牧師

弟子の筆頭であるペトロは、主イエスがどこかに行ってしまわれるということを聞いて不安になります。最後の晩餐の席です。イエス様は、弟子たちを「この上なく愛し抜かれ」(ヨハネ13:1)ました。この上なくというのは、極みまでという意味ですので、ただならぬ主の思いと、空気感を感じていたに違いありません。師であるはずの、イエスさまご自身が、弟子たちの足を洗い始めました。これは、奴隷のするべき仕事でありました。私たちのために奴隷の姿をとってくださるということが、この時に、全世界に宣言されたのです。目の前にいる弟子たちのために、手ぬぐいをもってたらいの水で足を洗われたのですが、それは、現在の私達に対して神様がとってくださる態度であるということをも指し示しています。永遠の王であり、この世界を造られて、今も保っておられる、偉大なるお方が私達に仕えてくださるというのです。このことを、心の底で受け止めていったら、この事実だけで、私達は幸いを得ることができます。このことを知ることだけで、私の人生は満足。そこまで言える内容ですね。主イエスを見ていますと、そういうメッセージが次々と神様から与えられるのです。

 イエス様はただなる思いをもって弟子たちを愛し、足を洗い、裏切るものがでるであろうことを予告し、どこかに行ってしまわれるということを告白なさいます。イエスさまのお言葉というのは、いつも弟子たちにとってみればドキドキする内容であったと思われますが、この時はいつも以上に、弟子たちの心を揺さぶったに違いありません。というのも、別れのメッセージのようにさえ聞こえたからです。だからペトロは言います。

 「主よ、どこへ行かれるのですか。」「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」(ヨハネ13:36〜)

 あなたは私達に別れを告げておられるようですが、わたしは!何があっても、どんなことがあってもあなたのために命を捨ててついていく覚悟でございます。と言ったわけです。

 見上げた覚悟であります。すばらしい心です。イエスさまへの愛が溢れています。しかし、イエス様ははっきりとペトロにおっしゃられました。

 「わたしのために命を捨てるというのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないというだろう。」(ヨハネ13:38)

 実際に人間の愛をもって、熱意をもってイエスさまに従っていこうとしても、土台無理なのです。ペトロは非常に熱心な信仰者だったと思います。素晴らしい志を持ち、純粋な人だったでありましょう。しかし、追い込まれたときに、ペトロの本性が暴露されました。イエスさまを知らないと三度も言ってしまいました。イエスさまの仲間と判断されたら、自分の命が危ないのがわかっていたからです。命を捧げますと言ったのに、命惜しさに命を捨てることはできなかったのです。

 捨てると言っていてもできないのです!それが人間です。

 だから、主は「命を捨てろ」とは、ペトロにお命じになられません。何をお命じになられたのかというと。

 「心を騒がせるな。神を信じなさい。」(ヨハネ14:1)

 です。心を騒がせるなというところは別の翻訳の聖書ですと。「あなたがたの心がもうこれ以上かき乱されてはならない。神を信じ、またわたしを信じなさい。」と記されています。「命を捨てる!」と、自分がこうします!ということに溺れるのではなくて、ただ信じなさいと主はお命じくださるのです。

 ただ、神とキリストを信じる。重要なことは、信じることだけなのです。命を自分が頑張って捨てることではない。そして、イエス様はご御自分が、これからこうこうこうして皆を迎え入れるのだよということを教えてくださいます。

 あなたが何ができるかではなくて、キリストが、神が何をなさるのか。その地点に集中しなさいよということですね。人間とか、自分の熱心さとか、そういうものは、大事じゃないとは言いませんが、そこに集中して、オレがオレが、オレが命を捨てる。ということが大事なわけじゃありません。そうではなくて、キリストの行為。キリストのご計画。神が何をなそうとされているのかということが重要なのです。

 そして、よくよくイエス様の御声に耳をすましていきますと。2節以降はイエス様のご計画について、また思いについて語ってくださっているということがわかります。

 神様の御もとにイエスさまは、信じる者たちを迎え入れるための場所を準備しに行かれます。準備が整い次第、私達を迎えに来られるというのです。これは当時の文化習慣から考えるとすぐ思い浮かぶのが、結婚のイメージでした。花婿と花嫁は結婚が決まって婚約が成立したときに、一旦男女は離されます。そして、花婿となる男性は実家に帰って、花嫁を迎える準備をして、家を建てて、新しい生活の準備をしはじめます。そして、準備がととのったら、晴れて結婚となり、花嫁を迎えに行くのです。ですからこの言葉というのは、私達人間が、神とキリストと婚姻関係になるということ。

 だから、イエスさまがこの世から取り去れれるときには、それは結婚の準備なのだから。喜ばしい時なのだから。心を乱して、いたずらに悲しむのではなくて。これからのプランのために、この地を離れているのだということを思って、期待をもって希望をもって、神の計画を待ち望むのだということです。 

 何より重要なのは、花婿である主イエスを信頼し続けるということです。なにがあっても信じ続けて、信じたままの行動をしていくということです。

 「相手を信頼しないで、焦燥感にかられて、不安になって、行動しまくって、それが仇になって、めちゃくちゃになっていく。」これが今まで私達が歩んできた人生です。だから、そういうことにならないように、ただ信ぜよ。心をかき乱すな。これこそが、イエス様がお命じになられていることです。

 これって現実の、今ある、日本の大阪の、大阪のぞみ教会の我々に必要な言葉ではありませんか。心をかき乱すな。ただ信ぜよ。神の計画がある。神の計画をこそ見よ。自分が命を捨てることができるかどうか、それが第一ではない。

 信じて、道を通ることこそが大事なのです。主が開かれる道です。自分が開く道ではありません。キリストの道を歩むのです。それはキリストが指し示す道です。道という言葉は特別な言葉です。特に、道、真理、命ということをイエスさまはおっしゃられているのは、エデンの園につながる道、天の神が備えてくださるその場所に通じる道のことです。

 永遠の命を体験できる道です。旧約聖書のはじめ創世記に「道」という言葉がでてきます。創世記3:22。人が罪を犯したがゆえに、人は永遠の命を剥奪されて、永遠の命に至ることができないようになりました。その道を神様ご自身が閉ざされたのです。

 人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。

 人間であることを捨てて、神の様になりたいと願い、神が食べるなと命じられた木から取って食べ、神の命令に背き、堕落しました。そのまま罪を持った状態で永遠に生きることができないように、神は命の道をあえて閉ざされたのです。

 「罪をもったままの人間は死ななければならない」ということは、主のみ心です。

 しかし、キリストが、その道を開き、道を通って永遠の命に至る道を開いてくださいました。

 閉じられ、開かれた。

 罪の問題がキリストによって解決したからこそです。キリストのもとで、人は主に従って生きることができるようになる。主の前に打ち砕かれた魂が、主と生きる道を開かれた。閉ざされたけど、開かれた。それが道という言葉が表す内容ですね。

 キリストと共に歩む道は神と共に歩む道です。ヨハネ14:7〜11。

 あなたがたはわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。・・・

 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。

 主イエスは、徹底的に「ただ信ぜよ」と命じておられます。というのも、そこからすべてが始まり、すべてが充足していくからです。文字通り、人間にできることのすべてが信じるということの中に入っているのです。主は、ペトロたちを勇気づける言葉をくださいます。ヨハネ14:12。

 はっきり言っておく。

 アーメン。アーメン。まことにあなた方に言う。と原文を直訳するとなります。これは念押ししている言葉ですね。主がおっしゃるのでありますから、真実の中の真実ということです。

 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとに行くからである。わたしの名によって願うことはなんでもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何か願うならば、わたしがかなえてあげよう。

 信じるもの。信じるだけでよいのです。信じるものは、大きな業を行うようになるのです。それはなぜかというと、イエスの名によって祈る祈りが聞かれるようになるからです。祈りによってそこに神のちからが加わり、実現不可能と思われたことが実現していく。イエスの名によってというのは、イエスのご存在にかけて、イエスさまの名に恥じることなく、主イエスの名によって主の心を祈るということです。主の御名によって主の心を祈るのならば、天の父なる神はそれを必ず実現してくださるということです。父は子によって栄光を受けられる。すべてが神の業だったということが明らかになり、父に栄光を帰すことができるのです。

 ヨハネ福音書14〜17章は、聖書の至聖所と呼ばれる場所でもあります。神の奥義が記されている場所です。そこに溢れている言葉は、神の霊がキリストの内に、その霊が、私達の内にというシンプルなものです。信じるものに主の霊が宿り、その主の霊が平和を実現するというのです。他の何かではありません。人間の努力でもありません、人の力でもありません。人の協力関係でもありません。ただ、主の霊が人の内にやどり、聖霊に満たされている人が祈り、そこに神の業が起こる。

 霊という言葉はヘブライ語でルアッハという言葉です。その形から意味をさぐると、「考え」が「上から下に下り」、その「人生」に広がるという意味です。神の考えが、また神の考えが人の中に上から下に下り、そして人生の中で浸透する。主のご計画、主の御心が下り、それによって人生がすべて変えられてしまう。

 キリストの言葉が神の言葉であると信じ、本日与えられたキリストの言葉を神の言葉と信じ、信じたままに生きるものに神は何でも与えてくださり、実際に主が触れてくださったというしるしで満たしてくださるのです。主の霊の証は、平和、平安、喜びです。悲しみが喜びに変わり、憎しみのあるところに平和をもたらすものになり、命の道が開かれ、その人自身が人を命へと導く人に変えられます。ただ、信じるのみでそれが実現する、何度も言います「信じるだけ」です。このことを信じるかと主から語りかけられています。アーメン。