ヨハネによる福音書 15:1〜17 「主はぶどうの木」

石井和典牧師

ぶどうの木から実りを得ることができるということは、平和を意味しました。ぶどうの木というのは平和の象徴なのです。列王記上5:5にこのように記されています。

 ソロモンの在世中、ユダとイスラエルの人々は、ダンからベエル・シェバに至るまで、どこでもそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下で安らかに暮らした。

 ぶどうの木というのは育てるのに手間のかかる植物です。こまめに手入れをしないとまともなぶどうの収穫に至ることは難しいようです。種を撒いてから最初の実を収穫するのに6年以上かかるようです。ぶどうを育てることができる環境というのは、それは戦争が無い時代のことを意味するのです。

 ソロモンの治世40年は戦争が起こらない時代でありました。更に、ワインというのは喜びの象徴であり、祝いの席には欠かせないものでした。平和、喜び、祝い。それは主イエスのもとにある。主イエスのもとにしか、真の平和、真の喜び、真の祝宴はない。

 ということは、主イエスと結びつくということが、ぶどうの木に結びつくということが、平和に至る道であり、喜びの祝宴に至る唯一の道であるということです。すべての平和主義者は、キリストを伝えるものにならなければなりませんし、すべての快楽主義者(言葉は悪いですが)はキリストに人々を結びつける人にならなければなりません。他のなにかで平和を実現しよう、喜びの祝いを実現しようと考えている人々は、的外れです。それがキリストが私たちに示してくださっている内容です。キリストは確かに平和を与えると約束してくださいました。しかし、その平和は世が考えるような平和では全くありません。ヨハネ福音書14:26。

 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。

 神が与える平和というのは、世の中の人々が考える平和とは違うということです。キリストが十字架にかかり、復活し、天に昇り、天から聖霊をお送りくださることで、私たちの内側に、聖霊がやどります。神の臨在のある所に、神にしか実現しえない平和が実現していく。神のご臨在であられる聖霊が、各人の心の内側で味合われることのよって、平和が実現してくということです。そのような主のビジョンがあるのです。エレミヤ書は、聖霊が私たちの心の板に、ご自身の言葉を記してくださるということをもって、神の御心が実現していくビジョンを描き出しました。エレミヤ書31:33。

 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。

 神様が聖霊なるお方として、信じるものたちの内に住んでくださり、心の板に何をすべきかを書き記してくださる。それによって、神の御心が実現していく。このこと抜きに、神の平和、シャロームが実現していくことは考えられない。

 だから、聖霊抜きに平和論は語れないのです。それがキリストが私たちに教えてくださる内容です。

 聖霊のせの字の無い平和論。キリストのキの字の無い平和論。これらはイエス様がお考えになる平和とは違うということを肝に命じる必要があります。

 平和の象徴であるぶどうの木が育ち、実りを地にもたらし、平和を実現するためには、ぶどうの木であるイエス様がそこにおられなければなりません。イエスさまがおられて、そのイエスさまに皆がつながることによってのみ、ぶどうが実るのです。

 それ以外によって実るものは、永遠の命につながるものではりません。永遠につながっていく価値のあるもの以外、育てる必要はありません。やがて消えてなくなる、虚しいものでしかないからです。

 天の父は農夫であるとイエス様はおっしゃられます。農夫は枝が実を結ぶか結ばないかをご覧になられて、実を結ばないものは取り去られます。ぶどうの木にとって実を結ばない余計な枝というのは、イエス・キリストを受け入れて信仰のみによって生き、聖霊を心に宿そうとしない枝のことです。ぶどう畑の農夫の非常に重要な仕事が、刈り込みをするということです。刈り込みをしないと美味しいぶどうの実がならないのです。

 実を実らせるためには、刈り込みが重要です。余分な部分を捨てていくことが重要です。

 我々の人生は農夫によって刈り込みをされる人生です。

 本当に必要なもの以外すべて刈り込みが結局なされます。

 命への道以外、刈り込まれます。

 キリストへの信仰のみが養分を適切に導く道であり、やがて実りに至るものです。

 キリストへの信仰以外のところに栄養がつぎつぎと行って、結局主が願っておられるものではないものにばかり養分が行き過ぎると、それらは刈り取られてしまうのです。

 キリストの向かう道にしっかり立ち続けているものと、他のものに栄養分がいってしまっているもの。それらは神様から見れば一瞬で判断できるでしょう。ざっくりと全部刈り取られてしまいます。

 残っていくもののために人は限られた命を使わなければなりません。一瞬で終わる草花のような人生なのですから、主の前に残ることだけに時間を使わなければなりません。信仰によってその筋道が通っているものは、スッキリと、そのことだけにエナジーを使って明確に神に喜ばれるぶどうの実を実らせます。

 イエス様は度々「つながっていなければ」という「つながる」という言葉を使われます。これは他の聖書の翻訳を見ますと「とどまる」という言葉にも訳されますし。とどまるという言葉は、讃美の言葉としても良く用いられますね。「御言葉にとどまり」というように。これは結びつくという言葉でもあります。そして、この結びつくという言葉をヘブライ語に翻訳していくと、結婚というところまでイメージはつながっていきます。創世記2:24。

 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。

 この結ばれという言葉が、つながる、結びつくという言葉です。イエスさま、神様、ご聖霊。このお方との関係性を表すときに、結婚に使われる言葉が常に用いられるのです。前回もイエス様が天に昇られて帰ってこられるというのは、一度はなれて、また戻ってくるというイメージが結婚のイメージだと申し上げました。愛という言葉とともに、結婚のイメージを多用されるのがイエスさまですし、今もユダヤの祭りでは、祭りの最中に礼拝者を集めるため時、ヒゲモジャのおじさんたちに「花嫁たちよ集まれ!」と呼びかけます。

 結婚というのは、神様が創造なされた秩序そのものです。内容からして、神様との人間との関係を指し示します。誓約を交わし、お互いに命を与えあう。それが結婚です。神と人類との歴史も同じです。アブラハム、イサク、ヤコブに契約の言葉を与えて、それを実行されるなかで主は愛を示されました。モーセとイスラエルの民と約束をかわされました。ダビデとも契約を結びその約束を守るということをもって、愛を示されました。イエス・キリストによって神は約束をかわしてくださり、その約束が必ず守られるということをもって愛を示してくださいます。だから結婚というのは信仰において、肝の肝なのです。

 だから、約束関係である結婚の秩序をいかに大事にするかということが、私たち人類にとって死活問題なのです。これが崩れていくときに、何もかも崩壊していきます。サタンの攻撃というのは、この結婚関係を崩して、信頼関係を崩して、家庭の機能をすべて奪い、道を閉ざしてくというものです。

 結婚関係をおざなりにするクリスチャンというのは、聖書を読んでいないクリスチャンか、聖霊が注がれていないので主の思いがまったくわかっていないクリスチャンです。そういう人をクリスチャンと呼べるのかと言えば、甚だ疑問である。そこまでいって言い内容です。

 ぶどうの木につながっているということは、どういうことかというと、キリストとの婚姻関係に入っている。約束関係、そしてお互いに命を与え合う関係に入っているということです。それが「とどまる」ということであり、「つながる」ということ。そのものは、花婿であるキリストのちからによって守られるのです。

 特に2000年前の社会において結婚するということは、人生そのものでありました。結婚の無い人生はありえないと皆が考えていました。だから、幸せに生きる道は、イエスさまとの結婚関係に入って生きることといってピンと来るわけです。

 ぶどうの木につながっていないということは、死を意味しました。今では考えられませんが、昔は、結婚しないものは売春婦か奴隷か、やもめか、しかありえませんでした。すなわち、結婚をあえてしないというものには、社会的な立場は与えられませんでした。見捨てられた存在でした。

 外に投げ捨てられて枯れてしまうというイメージはそういったところから来ているのです。さらにひどいことに火に投げ入れられるともイエスさまはおっしゃられています。

 人生というのはとてもシンプルです。

 主イエスにつながるか、つながらないか。つながらない場合は死を意味する。そこに何か実りを期待することはできない。しかし、つながっているのならば、必ず実を結ぶ。実を結んでいくものたちの祈りに、主は何でもこたえてくださる。主イエスの心が、命が流れ始めたものは、まことに主の栄光をこの世で輝かすことになる。ヨハネ15:8。

 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによってわたしの父は栄光をお受けになる。

 なぜ栄光が天の父に帰されるのかというと、祈りが聞かれ、応えられるからです。ヨハネ15:7。

 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものをなんでも願いなさい。そうすればかなえられる。

 更に主は、祝宴の喜びのような言葉をつぎつぎと重ねられます。15:11。

 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。

 人間がイエスとつながり、約束関係、命を与え合う約束関係、すなわち結婚関係としてつながり、イエスのところに皆がとどまりつづけるのならば、そのとどまるものの声を、祈りをすべてご自身のみ心のままに聞き入れて、そのことによって神の偉大さが現れ、栄光が満ち、喜びにみたされる。それは、まずキリストが喜ばれることであり、そのキリストが喜んでくださっているということで、また人間が喜びに満たされていく。また、15:12。

 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。

 とおっしゃられます。起点に注目してください、すべてキリストです。わたしがあなたがたを愛したように、です。愛の起点はキリスト、喜びの起点もキリスト、ぶどうの木それ自身もキリスト、ぶどうが実を結ぶためには木がなければならない。実を結ぶ起点もキリストです。このように、すべて良きものが流れ出す始めのポイントはキリストであり。この御方以外にはありえません。ここに立つときに、まことに命がながれはじめます。

 他のものを起点に物事を考えていった時に、そこには命は流れ始めない。永遠につながっていく世界は開かれない。むしろそれはやがて滅ぼされる虚しいものにしかならない。

 キリストとつなぎわされて、見えない神経が張り巡らされていきますと、それらはすべて神の栄光を表すものにつながっていくのですが、そうでなかった場合には、火に投げ入れられて焼かれてしまう。キリストは我々に警告と同時に、恵みの道を教えてくださっているわけです。

 キリストにつながるようにと召されたものたちは、自分でそのようになったのではなく、キリストご自身が選ばれて、皆様をいまキリストと向き合うものにしてくださっている。その言葉が、15:16以下です。キリストのもとに来るということ自体も実は、起点はキリストであるとおっしゃられるわけです。

 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でもあたえられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。

 キリストを起点として、キリストを中心として、キリストの花嫁として行った業。それらの実りは、永遠に残るようにしてくださるのです。しかし、キリストに結ばれずに行った実りというのは、残りません。キリストにすべてをかけた祈りを捧げるものの祈り、キリストの心を祈るその祈り、キリストの血が通うその祈りに主はお応えくださって、なんでも与えようと待っていてくださるのです。花嫁を待つ花婿のように、花嫁のためになるものだったら何でも与えようと待ち構えておらえるのが、キリストです。アーメン。