ルカによる福音書 1:39〜45  「信じる幸い」

石井和典牧師

 信じるものたちの幸いというのは、恐ろしく大きなものです。叫びたくなるものです。信仰の世界には、喜びの叫びというものがあります。詩篇100:1〜2。

 全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え/喜び歌って御前に進み出よ。

 神の霊である聖霊が注がれて、心が神の思いによって満たされると、人は喜びの中で叫ぶようになります。イエスさまのお母様であるマリアと出会ったエリザベトは、叫びました。ルカ1:41―42。

 マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。

 「声高らかに言った」という言葉は、より原典に忠実に翻訳すると。「大声を上げて叫び、言った。」という意味です。新共同訳は上品にしてしまったのですね。

 神の業に出会ってしまった時、大事なことを悟った時、そんなに上品にチンと座っておることなどできないでしょう。

 ただ叫ぶしかない喜びの時。なぜなら、このマリアと、エリザベトのお腹の中には、命が宿っていて、その命を通して神様がご自分の計画を実行なさろうとされているのですから。そのご計画というのは、天使ガブリエルが伝えたことです。国を変えるご計画です。世界を変えるご計画です。ルカ1:30。

 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

 聖霊によって彼女の肉に、神のご計画、ご契約、神の業が受肉してしまったのです。神の業が胎の中に宿っているのです。そんなことが起こってしまったら、人はじっとしていることなどできません。大変なことがマリアの内側で起ころうとしていました。しかも、あの1000年の間受け継がれて来たダビデ契約が自分の子どもを通して実現していくという天使の言葉です。支配される側にたつしかなかったユダヤの民、自由を奪われてきたユダヤの民がついに、独立を回復して、自由な王国を、信仰による国を立てあげることができる。

 そのような知らせです。その王様が自分の子どもであるというのです。

 神様が共におられて、あらゆる敵に勝利することができる。もはや他の民から圧迫されることはない。安らぎを与える。国を揺るぎないものとする。家を建て、王国の王座を永久に固く据える。慈しみを決して取り去らない。

 このダビデにおいて約束されていた約束はサムエル記上7章に記されています。これは、地上における国家のことを言っているように見えました。確かに、そのように言っておられ、それを実現してくださっていました。しかしながら、地上における国家を飛び越えた、将来もたらされる真の王が支配する国。キリストが支配する国。そのところまでも実際は視野のある言葉です。

 それがダビデ契約だったことにマリアたちは気付かされていくわけです。イエス様があの、王の中の王、ダビデのような王になられて、あらゆる敵に勝利し、国に平和と安定をもたらし、主が常にご一緒くださるという状態をつくりだしてくださる。しかも、その国は永遠に守られる。そのような壮大な視野をもった御言葉。

 終わりの時、キリストの支配の国、新天新地。そこまで視野にはいった壮大な神の計画が、自分のお腹の中に宿った神の子イエスによってもたらされる。

 これからの世界が、このイエスという自分の息子によって完全に変わってしまう。神への信仰に人々が立ち返り、まことの平安、まことの平和を見出す国が作られていく。ルカ1:35。

 天使は答えた。聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。

 こんな壮大な計画が私を通してなされる。それを確信し、信じることができる。そのためには、聖霊がわが内に宿っているという状態でなければなりませんでした。マリアの言葉を見れば、彼女の内側につよい確信が宿っているのがわかります。ルカ1:38。

 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」

 実際に神の力がのぞめば、男性を知らなくても子を宿すことができる。全能の神のちからであればそれが可能であることを彼女は信じて受け止めています。主の霊が既に働きかけて、彼女の内側に強い信仰の確信を与えていることがわかります。信じたことを証明するように、すぐに彼女は行動にうつっていきます。ルカ1:39。

 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。

 神のご計画、ご命令があって、それが実現すると本気で信じているものにとって、もはや自分の内側に閉じこもって、止まっているという場合ではないことが分かります。神がなしてくださる大変な業が、計画がある。そのために、自分もできる限りの行動を起こしていこう。

 こう思わなければいけない、こうすべきだ。そんな頭で考えてベキ論を展開するのではなくて、すぐに行動が起こってしまう。それが信じるということ、聖霊が宿るということ。もう、動くしかない。そんな感じですね。子どものために母親が必死で動き始めるというような、そんな感じでしょうか。わが内に聖霊がやどりはじめるということは。

 エリザベトの家に行って、挨拶をすると、すでに受胎してお腹が大きくなっているエリザベトのお腹の子どもがおどりました。そこでエリサベトは聖霊に満たされて、大声を張り上げて叫びました。ルカ1:42〜。

 あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています。わたしの主のお母様がわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。

 エリサベトは不妊の女性でありました。しかし、彼女の胎を神様が開いてくださいました。はっきりと彼女は神が自分に目を向けてくださっていることを自覚し、信仰に生きる道を歩みはじめていました。ルカ1:25。

 「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」

 エリサベトの妊娠が神様のご配慮の結果であり、神への祈りへと彼女の心が向かって行っていたに違いありません。彼女に対する計画と、マリアに対するご計画。それがどんなものだったか、誰かと語り合ったり、確認しあったり、そういう時間やチャンスはなかったはずなのです。にもかかわらず、マリアが来たことによって、彼女はこれから起こることを悟っているかのような言葉を遣いました。マリアを私の主のお母さまと呼びました。そして、神様がマリアに話しかけてくださっていたこと、天使たちを通して預言をくださっていたこと、エリザベトのもとに急いで来たこと、これらはすべてマリアが主の言葉を信じて従った結果であることを知っていました。聖霊に満たされていたからです。

 神様の御業、ご計画、これらは共鳴し合うことがこの箇所を見るとよくわかります。聖霊なる神の業は、たった1人の人に預言や御言葉や、そのこころを示していかれますけれども、それらが一人ひとりの間で繋がり合って行く。当然ですね。私たちの神はお一人なのですから、その主の業、主のご意思に動き出そうと歩みを始めれば、特別な使命を与えられた人々が集まってきます。

 特にこの重要な場面で集められているのが女性であったということは、現代の社会と違いまして、当時のユダヤ社会だからこそなのですが、大きな意味のあることです。女性の地位はとても低いものでした。信仰において女性は決して劣るところもなく、いやむしろ素晴らしい信仰を宿す、キーパーソンとしてルカ福音書は描いているわけです。私たちが注目しないような人や、私たちがすみに追いやってしまうような存在。そういう人々を通してももちろん神の業が起きる。いやむしろそういう人たちを通して御業がなされていくということを、主は私たちに語りかけてくださっているのです。羊飼いに天使たちが現れるのも同じ理由です。

 しかし、このマリアの信仰の素晴らしさを見てください。マリア讃歌は、ほとんどすべてが聖書の引用です。ハンナという預言者サムエルのお母さんの祈り、そして詩篇、預言者イザヤの言葉もマリア讃歌の中に入っている。当時は、すでに女性に対して聖書の教育が行われていたということを意味します。マリアは、その御言葉の学びから吸収した、神の言葉を自分の祈りとして用いることができるほどに、御言葉を味わい、常に口ずさんでいたということが想像できます。

 マリア讃歌の第一声に注目してください。ルカ福音書1:46。

 わたしの魂は主をあがめ、

 これは「わたしは主を大きくする」それも極大まで大きくしていくというようなイメージの言葉が使われているのです。自分の心の中で、私の存在そのものの中で、主のご存在を大きくしていきます。あなたが私のすべて!そのような言葉です。神様のご性質の最たるところ、「慈しみ」という「神が約束を守り抜かれる」その姿を描くように。最後はこの言葉でマリア讃歌は締めくくられます。ルカ1:55。

 私たちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。

 イスラエル民族のルーツといえばアブラハムです。このアブラハムを導き出すことによって神がイスラエルを選び分かち、世界を救うための救いのご計画をスタートされていました。アブラハムと契約を結び、住むべき場所を与え、多くの国民の父とし、子孫が繁栄し、アブラハムの民を祝福する人を神が祝福されるという祝福の源となるという約束をくださったのです。アブラハムは信仰のみによって義と認められた信仰の父となる人です。

 神様が約束してくださった、その約束は決して反故にされることなく、必ず守られ、ダビデ契約が主イエスによって実現し、これまで主が約束されたことがすべて、このイエスによって成就する様を皆が見るようになる。そのように確信しているのです。

 エリサベトがマリアに言ったとおりです。ルカ1:45。

 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。 

 主の約束の言葉は決して反故にされることはありません。約束は必ず守られるのです。ならば、その約束を信じることこそが、人類が第一になすべきこと。信じたものに対しては主が約束されたことがことごとく実現していく。そのような驚くべき約束の実現を見るものたちが、クリスチャン。

 約束の実現をみるためにすべての照準をあわせていきましょう。

 これまで、自分の人生を建てあげることに照準をあわせてきたかもしれませんが、それはもし実現していたとしても、主の導きの一部分に過ぎないでしょう。その導きから、主の御業がなることを求め始めましょう。主を大きくするということは皆様にとってどんなことですか。主の約束が実現し、契約の言葉が実現するということはどういうことですか。主は聖書を通して、皆様に行くべき道を指し示してくださいます。

 その道に走り出しましょう。自分の道ではありません。主の言葉によって突き動かされる道です。自分が偉大なものと認めてもらう道ではありません。主の偉大さが現れる道です。

 わたしの魂は主をあがめます。

 わたしの魂は主を大きくします。私の魂の中で、主だけが私をご支配ください。主がなさりたいことを行ってください。心の底からそのように祈る魂に、キリストがお誕生くださいます。キリストの内住が与えられます。聖霊がやどります。喜びの爆発がおこります。喜びのあまり叫びたくなるような祈りをささげることがゆるされます。 

 私は主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように、といつの間にか言いたくなります。キリストのお誕生が心にあたえられます。アーメン。