ルカによる福音書1:57〜66 「不思議な神の業」

石井和典牧師

 憐れみが注がれます。「憐れみ」というのは具体的に神が皆様のために御手を動かしてくださるということです。教会に来て知った新しい言葉として「憐れみ」という言葉があります。憐れみをかけられるということは、日本人的にはあまり嬉しいことではないように捉える傾向があるかと思います。

 しかし、それが主からのものであるならば、話は別です。人間からかけられる憐れみは欲しくないという人もいるかもしれませんが、神がくださる憐れみはこれ以上にない喜びをもたらします。

 憐れみとは、その言葉の意味までさかのぼってみますと、繰り返しますが「神が具体的に行動をなさる」という意味があります。ギリシャ語でエレオスという言葉が使われているのですが、これは行動をともなう憐れみを意味します。心と行動です。神の憐れみを受けるということは、具体的に神が私に関わって、何かを変えてくださったということです。

 主に触れて頂いて何かが明確に変化していく時、それを求める時。「憐れんでください」とか、「憐れみを受けることができて感謝」とかそういう心境になっていくのですね。

 人間の憐れみとは違うことが分かります。人間は多くの場合、心は憐れみますが、行動を起こすというところまで行かないことが多いです。そういった憐れみにふれてしまって人間に失望していくのです。教会に失望して人が出ていくということもこのところで起こるのではないでしょうか。

 神の憐れみが内に宿っていないかぎり、憐れみを実行するというところまで行って、それを継続し続けるというのは不可能です。だから、主の憐れみとはどんなものか、知って受け入れる。そこにまず私たちは立ちたいと思います。

 エリサベトという洗礼者ヨハネのお母さん。この人は主の憐れみを受けました。ルカ1:58。

 近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。

 主が、慈しまれた。主を知りたければ、主が主語となっている言葉にとどまってください。主は慈しまれる方。この慈しむという言葉は特別な言葉ですが。先程から言っています。「憐れむ」とも翻訳できる言葉が使われています。ギリシャ語でエレオスです。主は憐れみのお方。実際にかわいそうに思うだけじゃなく、行動に起こし、物事を変えてくださるお方です。エリサベトはどのように憐れまれたのでしょうか。それはルカ1:25です。

 主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。

 エリサベトには子どもがいませんでした。不妊の女性でした。子どもが与えられないということは、2000年前の社会では女性として、不幸を身に負った人としか捉えられませんでした。多様な生き方の中に、主のご配慮を見出すことが現代の私たちには可能ですが、当時はそうではありませんでした。恥ずかしい思いをエリサベトは長い間してきたのです。しかし、主はその恥ずかしい思いをしてきたその状況を覆されます。目を留め、恥を喜びに変えてくださるのです。恥だと思っていた部分に最もよく関わってくださって変化を与えてくださるお方です。それが憐れみの主です。

 改善したい、しようと思っても自分ではもうどうにもならないことってあります。そういったところこそ、特に主の導きにより変化が与えられます。

 ザカリアというエリサベトの夫はまさか自分の妻が妊娠してヨハネを生むということなど信じることができませんでした。というのも、これまで何年にもわたって妻が不妊であるという現実を突きつけられて来たからです。もうすでに諦めていたんです。

 しかし、全能の神の御手をもってすれば不可能はありません。不妊の女性であろうがなかろうが、主がご決断されれば、エリサベトが身ごもるということは可能なのです。それが全能なる神を信じるということです。しかし、ザカリアは信じなかった。天使が現れても信じなかった。長年培われてきてしまった思い込みというのはこわいものです。

 神の言葉よりも、思い込みが先をゆく。それが人間です。だから、先入観を捨てるところから始める必要があります。ザカリアにとって神の憐れみの示され方は、しゃべることができなくなるという、神の裁きを通して体験することになりました。しかし、この口がきけなくなるという裁きの中で、彼は憐れみを経験するのです。そして、先入観といういらないものを捨てることができたのです。

 夫婦で対照的です。エリサベトには喜びの印である、子どもが、喜ばしい知らせそのものが与えられ。ザカリアには口がきけなくなるという、喜ばしくない状況が与えられる。しかし、両方共に神が与えられた具体的な行動を味わっている状態なのです。憐れみが注がれている状態なのです。実際に人間に変化を与えるその道です。

 人は、自分が苦しい状況にならないと、心を変えないものです。試練の中で練られます。命を失ってしまう状況になってはじめて恐ろしいほどたくさんの恵みに気付かされる。実は主の御業が私を囲んでいるということに気づく。主を求め、主の憐れみを心底味わうために、苦しい状況、こんなの嫌だなと言う状況に主ご自身が人を落とされるのです。

 しかし、逆説的に「その中でこそ主のこころを見出す」のです。

 エリサベトも、ザカリアも試練の中を通りました、イエス様のお母様のマリアさんだって肉体関係を持たないまま子どもが宿るという、ありえない状況に追い込まれて、しかし、その中でこそ主の守りを確信するという中に導かれて行ったのでした。

 神様というお方はなんという不思議なお方なのでしょうか。もうダメだと思ったその時に、救いの御手を伸ばされる。そういうお方であることが、クリスマス物語から見えてきます。人間的な限界をあえて味わせて、そこから神の永遠の力に思い至らせるお方です。

 この出来事で驚いているのは、マリア、エリサベト、ザカリアだけではありません。この出来事を目の当たりにした周囲の人々も驚いたのです。ルカ1:65。

 近所の人々は皆恐れを感じた。

 と記されています。これは神を見出してしまった人々が抱く感情です。恐れです。不安で恐怖しているのではありません。神の御業を目撃してしまったことによって、畏れ多い、その圧倒的な力を実感してしまって恐れているのです。人間は様々なことで恐怖します。それによって心が捉えられてしまって支配されてしまいます。しかし、聖書の出来事を目の当たりにし、聖書を読み続け、聖書に記されている神を知る時に、神を恐れるようになる。他のことを恐れず、尊敬して、うやうやしく、尊いお方に出会うということの前に、恐れを抱くことになるのです。神様はここまで私に憐れみを注いでくださるのかと。これだけ背いてきた私に。その時、神の恐れにとらわれる時、そのほか一切の恐れから解放されます。

 神様は人間のすべての行動をも支配することができる。ザカリアの舌を支配することができる。ザカリアの舌を支配するのみならず、ザカリアの人生、妻エリサベトのおなかの子どもも。いつ生まれるかということも。実は全て主のご計画の内に入っておられる。

 さらに、ザカリアがどのタイミングで口が解けて言葉を発することができるのか。それは、神の御業を認めて、皆の前で彼において起こった出来事がすべて神のご計画の内であったことを告白することができたときでした。そのタイミングも神様が図っておられるのです。皆の前で信仰告白を改めてすることができたとき。そのときに、彼が口を開くことができるようになる奇跡が起こりました。信仰者たちが、日常の現場に信仰告白をもって望んだらいったいどんなことが起こるのでしょうか。

 聖霊に満たされたザカリアの言葉を見てください。67節以下です。

 彼の心には、「主をほめたたえること」「主が何をしてくださったのか」「主の憐れみ」「主の行動」「約束の言葉を何があっても守られる主」その主への思いで心があふれるようになってしまっています。これこそ、聖霊に満たされるということです。これ以上に幸いなことはありません。イエス様は、聖霊の洗礼を授けることによって人々を導かれるお方です。それは、このザカリアの息子洗礼者ヨハネが明らかにします。ザカリアとエリサベトの息子洗礼者ヨハネはイエスさまのことをこのように言いました。洗礼者ヨハネの命がけの言葉です。ルカ3:16〜17。

 わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。

 聖霊に満たされて、神が内に住んでくださる。そのような状態がもう既に、ザカリアには与えられていました。ルカ1:67をしっかりと目に刻んでください。聖霊に満たされ。としっかりと記されています。

 私たちクリスチャンは、キリストの十字架の血潮によって、これまで犯してきた罪が真っ白く帳消しにされて、その真っ白くなったところに聖霊が入ってこられて、主がご臨在くださるということを経験していくのです。

 しかし、ザカリアは特別な人でありました。聖霊の内住を、キリストの贖罪以前に経験しています。彼の心の内側は、天使たちの言葉、そして、主の御業、口がきけなくなり、話すことができるようになるという出来事を通して真っ白くされていたのです。清めを受けていました。だから、彼の内側に神の霊が宿ったのです。

 神の霊が宿ると、いにしえから語られてきた言葉が、今このとき我が内で、自分のこととして味われ。神のちからがちからあるものとして実感され。今まで恐れていたものが、すなわち我々にとって敵というべき神以外の別の存在への恐れが消えていき、ただ神の契約の恵みだけになる。神の約束が人生の中心にあることを覚えることができる。これからの人生すべてが、主が先立って歩んでくださる人生となり道を整えてくださるのが神であり、主の憐れみの心の中を歩んでいく。実際に主が御手を動かしてくださることを具体的にひとつひとつ経験して味わい。その光がまわりを照らすと、まわりの人々もその人を見て恐れを抱くようになります。

 神の憐れみの御業の連鎖が起こり、神の憐れみが積み重なるところに、平和が与えられる。

 67節以下に書かれているザカリアの讃歌は、時代を飛び越え、空間をも飛び越え、過去から現代に向かって、一直線に天へと私たちを導く言葉です。

 聖霊が注がれて人が救いにあずかるということはどういうことなのかを示しています。

 神を思う喜びで、光で、神の救いの御力の偉大さを確信して、それを語る。その語りは永遠に残り続ける力をもったものとなる。ザカリアの内側に神さまは聖霊によって御言葉をくださったのです。エレミヤ書31:33以下に記されていることが実現しています。

 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

 聖霊に満たされて、何をすべきか、なさざるべきかが分かり、そのとおり行動していくとさらなる祝福を受ける。

 目の前にある苦難の出来事の前で、主の前に砕かれて、主に従う。

 そのものに注がれる憐れみは、聖霊がわが内に宿るという恵み。何をすべきなのかわかるようになります。ザカリアは、聖霊がやどり、心の内に喜びが満たされていたのです。主の憐れみの業が私たちにも起こりますように。アーメン。