ルカによる福音書 2:1〜7 「場所がないのに」

石井和典牧師

 憐れみという言葉は特別な言葉なのだと、先週聞きました。具体的な行動がともなうものであると。ギリシャ語の憐れみという言葉自体に、「腸がよじれる思い」という意味が込められています。「はらわたがよじれる」です。そのような心をもって共感してくださる。それが神であるというのです。だから、人々が苦しむ様を放置しておくことは神様には決してできません。

 母親が、傷んでいる子どもに走り寄るような思いをもっておられます。一人ひとりに具体的な行動を起こしてくださる。その結果、神の業が起こり、一人の人が変化する。社会や環境がかわらなくても一人の人が恐ろしく変化する。

 その様子を、ザカリアはこのように表現しました。ルカ福音書1:78〜79。

 これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。 

 高いところから、日の出のように光が暗闇の中に与えられて、心に光がやってきて、照らし、一人ひとりを導き、平和の道へと導く。聖なる霊のご臨在によって、神がおられるということによって、平和が与えられる。

 誰もが求め続けてきたものが、イエスというお方によって与えられる。

 今までさまよい続け、心に飢え渇きを感じて、求め続けてきたけれども、求めてきた渇きはこの御方によって満たされる。

 だからもう探し回らなくていい。この御方のところにだけくれば、人類に必要なもののすべてがある。そのように断言できる体験が、この御方との交わりである「祈り」の中にあります。

 ザカリアは聖霊を受けました。使徒たちも聖霊を受けました。ひたすらに心を合わせて熱心に祈っているところに主はペンテコステを起こしてくださいました。平和への道が使徒たちに開かれました。ザカリアは口がきけない状態に落とされました。しかし、その中でこそ祈り、神に立ち返ったのです。そして、聖霊に満たされました。

 神の心に打たれて、あけぼのが彼の心に上りました。自分の子供の誕生と、イエスの誕生とが、2000年前にアブラハムにおいて約束された約束の成就へと向かっていることを悟りました。

 アブラハムに約束された約束とは、アブラハムの子どもたちが「祝福の源となり、すべての民が祝福に入る」ということです。アブラハムは信仰の父です。信仰によって祝福が世界中に行き渡るようになる。その祝福がついに、アブラハムの末、ダビデの末裔である、イエスによって実現していくということです。

 アブラハム契約は未だ完全には実現していません。すべての民が祝福に入るというのがアブラハム契約です。ですから、この契約は、すべての民が祝福に入るまで実現しません。終わりの時まで継続されて、神がこの時点で終わりと定められる終末まで継続されていくものです。

 しかし、この主イエスの到来によって、決定的に終わりの始まり、ついに結論の結論。2000年来実現を待ちかねていたアブラハム契約が実現していく最終段階。人類が皆救いを得る。そういう時代に入ったということを意味しました。

 新しい時代の到来。終わりのときの宣言。最終局面。それがイエスによってはじめられたということです。もうこの世は終わるのです。なぜなら、神の救いのご計画が実現しつつあるからです。この世が残されているのは、すべての民が救いの計画の中に入るためです。

 それ以外ではありません。それがいつなのかは人間にはわかりません。しかし、時代の決定的な転換点に私たちは立っているということができます。

 神は時を選ばれます。皇帝アウグストゥスの時代を主は選ばれました。キリストのお誕生はすでに700年も前から預言されていました。ベツレヘムで救い主がお生まれになると。ミカ書5:2にその預言が記されています。

 エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。

 ベツレヘムという地名が出ているということに注目してください。ベツレヘムでイスラエルを治める者が生まれてこなければなりません。ベツレヘムにマリア、ヨセフ、イエス様のご一家が向かうという出来事が起こるためには、ローマ帝国の支配のもと、住民登録をせよとの勅令が出ていないと、ヨセフの家族がベツレヘムに戻るということはありえませんでした。身重のマリアをつれて普段住んでいたガリラヤのナザレを離れるということなどありえませんでした。

 しかし、ローマ帝国の支配のもと、小さな一家族について世界が、帝国が気を遣うことなどありませんでした。行きたくはないけれども、その道中明らかに危険が予測されるけれども。しかし、ローマ帝国の支配の中で、無理矢理に身重の妻をつれて旅行をしなければならなかったのです。

 このタイミングというのは、明らかに主がご準備なさったタイミングです。預言の成就であり。人間ではこの時間のタイミングを図ることなどできるはずもありません。預言の中にベツレヘムで救い主が生まれることになっているから、そこに行って産もうか、などという考えは彼らの心の中にはなかったはずです。

 しかし、誰がどう思おうとも、700年も前に発せられた神の言葉。その言葉通りに物事は進みます。コヘレトの言葉にこのような言葉があります。コヘレトの言葉3:11。

 神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。

 神様が時を支配しておられるとしか思えない。そのような証拠しかでてこない。世界に対する預言と計画と実現。それらを見ると、人はどうしても、神が時を超えて永遠にこの世界を統べ治められておられるとしか思えない。永遠を思うことができるように主は、時宜にかなかったことを行っておられるというのです。イエス様お誕生の場面で、不思議な神様のご計画が進んでいきます。

 小さな幼子こそが、私たちの王です。真の王。しかし、この王は、ご自身のお泊りになる場所さえ得ることができませんでした。何も力を持たない、小さな一つの家庭の中に命をあたえられました。住民登録をせよとの勅令がでていましたので、相当な喧騒の中というか、各地から戻ってきた人々が一杯で、泊まる場所もなくなっていました。

 忘れ去られた社会の片隅。そこに主イエスはお越しくださいました。決して真ん中ではありません。

 周辺、片隅、忘れ去られた場所。人々が注目しないところです!力なき所。華やかさのかけらもない場所。

 その当時の覇者であったローマ皇帝は、この世の王はどうだったでしょうか。圧倒的な力を持っていました。力によってこの平和を打ち立てたと考えていました。知力と軍事力に長けていました。パックス・ロマーナ。ローマによる平和。それはローマという超大国による力による統治でありました。

 ローマ皇帝は力の象徴。皇帝アウグストゥスは力によって平和をもたらした救い主と信じられていました。

 人々が力による救い主を信じ始めたときに、まことの救い主が力によらずに誕生なさったのでした。

 ローマによって簡単に潰されてしまう小さな赤ん坊の姿をあえて意図的におとりになって。神様のなさることはいつも驚くべきことです。

 人々が軍事力による統治を心から信じ認め始めていたときに、全く逆の姿をとり、現れなさるのです。

 実際にはローマの力を一握りでつぶす力をお持ちの神の御子です。そのお方は、小さな家族に寄り添い、力ではなく愛によってお治めくださるお方。この方こそ、この世界の中心です。世界の中心はこの神の愛にこそあったのです。愛して愛して愛し抜いて、忍耐して、忍耐して、忍耐しぬいてきた歴史が、旧約聖書に詰め込まれています。民は恐ろしいほどに堕落に堕落を重ねますが、それでも諦めない神の姿が描かれているのが旧約聖書です。国が不信仰によって滅びようとも、また何年か後に救いの御業をはじめられるのです。それが私たちの神。なるほど、その御方は、一人の人間を愛するが故に、小さな家族を選ばれるわけです。

 主イエスには泊まる場所がなかったといいます。さらには、洞穴の横穴式の家畜小屋にお生まれになられ、飼い葉桶の中に、亜麻布にくるまってお生まれになられました。しかし、これらすべてに神様のご意思が通っています。すべて意味があります。ここにというところに主はお生まれになられたのです。

 人々の喧騒の只中に、他人に気を遣ってはいられないような余裕のない、愛の無い、神の思いとはまるで違う思いを人々が抱き続ける社会の中にお生まれなさった。清潔できれいな場所ではなく、人々に追いやられるようにして家畜小屋でお生まれになられた。

 王である御方が、とても王とは言い難い環境の中に飛び込んでこられた。それらは、すべて、すべての民を救うためです。誰一人残らず救い出すためです。誰もその主イエスの救いの中に入らない人はいないとキリストははっきりと宣言なさっているのです。

 それをご自身のお生まれる場所や環境を通してお示しくださっているのです。主なる神は、その時間の選び方も、環境の整え方も、いつ生まれ、どこに生まれるかといことをもってしても、すべてが福音となって私たちに響くように選んでくださっています。

 それを受け入れて、耳を開いて聞いて、心を開いて思いを受け入れるだけです。

 皇帝アウグストゥスのために、人々は暦さえもかえました。アウグストゥスの誕生日を年のはじめとしました。この強力な皇帝によって福音がもたらされると信じようとしたからです。しかし、真の福音は目立たないところで、世界の片隅で、社会の誰もが気にしないような小さな場所でもたらされたのでした。これが福音でした。

 目立たない世界の片隅で、社会の誰もが気にしないその人に福音の芽が芽生え、花が咲き、神の業がどこにでも届いていくという神様からのメッセージです。

 天につながる歌は小さな一人の人からささげられます。皇帝のような目立つ存在がささげる必要はありません。私たちのような小さな一人が大きな声で、神に向かって讃美の歌を歌うのであれば、それが天に届き、それが信じるものたちの歌声と合わさって偉大な神の栄光をあらわします。マリアの讃美歌はマグニフィカートと呼ばれて親しまれています。これは、まことに信仰のお手本とも言うべき言葉です。

 ルカ福音書1:46。「わたしの魂は主をあがめ」というこの言葉は、主を自分の中で大きくするという意味ですが。神様は実は私たち人間たちのことを、ご自分の中で限りなく大きくし、愛すべき一人ひとりに注目し、誰一人として忘れていないのだということを伝えるために、ひとり子のお誕生の環境を選んでおられたのが分かります。

 その証拠に、神を離れて神を冒涜して行きてきた私のような異邦人に、よく分かり受け入れることができるように、話を組立っててくださっているのが分かります。そうでなかったら私は理解できなかったでしょう。マリアが神様を大きくすると歌った以前に、神様ご自身が私たちを大きくお考えくださって。救いのご計画を、信じるものがすべて預かることができるようにとご準備くださっていました。

 ひとり子イエスに、部屋をあけることができなかったかつての世。2000年前。なんと失礼なことを。

 しかし、実際どうでしょうか。2000年後の私たちも十分に主イエスのためにスペースを空けているといえるのでしょうか。

 場所があってもあけないのが人間。他のことで埋めるのです。それが人の罪。にもかかわらず主イエスはお越しくださいました。これ以上、主に対して失礼なことをしないように。主のために人生のスペースを空けたい。一度手帳に天の父なる神と、主イエスのこと、聖霊を思って祈っていた時間。自分のことや、世のことを考えていた時間をカウントしてグラフにしてみたらいいかもしれません。2000年前の主イエスを追い出した宿屋も自分もさして変わりがないことに愕然とするかもしれません。しかし、その事実に気づいて、スペースを主のために空け始めたときから。人生のすべてが変わります。アーメン。