ルカによる福音書 2:8〜21 「羊飼いたちにこそ」

石井和典牧師

 羊飼いたちに、メシア誕生の知らせが届けられます。このことに特別反応したのがマリアです。羊飼いたちにこそ知らせが真っ先に伝えられたこと。これが大きなことでした。なぜなら、マリアが歌ったマリア讃歌、自分が発した預言的な言葉。そのとおりになったからです。マリア讃歌の中にこのような言葉があります。ルカ1:52、53。

 権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。

 神様は身分の低いもの、貧しいものに目を留められて、そのものにご自身の御業をおみせくださる。そのようにマリアは聖霊によって確信をもっていたのです。その証明として、羊飼いに救い主誕生の知らせが告げられました。

 羊飼いというのは、ユダヤ社会においては底辺に分類される人でありました。というのも、彼らは、町で生活するのではなくて、郊外で生活し、税金もしっかり払ってはいませんでした。ユダヤ人は十分の一税と、神殿税、大方20%をまずユダヤ社会に収めなければなりませんでした。そういったものを収めないで生活してきたのが羊飼いです。当然、ユダヤ教の礼拝には出ていませんでした。イエス様のところに来たのは、このようにユダヤ社会からは罪人と烙印を押されて、人々から軽蔑されて蔑まれている人のところでありました。

 天使を通して御子の誕生の知らせがこのような羊飼いに知らされたのには、特別な神のご意思です。すべての人を救い出すのだという熱い思いです。底の底から、身分の低いもの、貧しいものを救い出すのだ。それが主のこころなのです。

 私たちは、苦しい境遇というか、皆がそうなりたくはないと考えるような境遇の中にいたら、そこからまず出ることを考えます。出ればそれで幸いを得ることができるのではないかと思っています。

 しかし、実際に主が目を向けられる地点というのは、蔑まれているその人のところなのです。だからこそ、今の現状から抜け出すことがまずなすべきことであるのではなくて、その状況の只中で、主を求め、主を体験すること。それが主が願っておられることであると分かります。

 苦しい状況から抜け出ることよりも、まず、その状況でこそ主がお働きくださるということを信じることが大事なのです。

 マリアは聖霊によってこの確信に至ったわけです。マリア自身は特段裕福な家庭というわけではありませんでしたが、最下層の中の最下層というわけではありませんでした。しかし、彼女の意識は、自分自身が主の奴隷であるという、低さを抱いていました。その低さに主はご自身の業を注いでくださるわけです。マリアの気持ちはこの一言にあらわされています。ルカ1:37。

 わたしは主のはしためです。お言葉おどおり、この身に成りますように。

 主の「はしため」は、奴隷という意味です。主の奴隷です。主に従います。しかも、読んでいますと、喜んで自分から主の奴隷となりますというニュアンスまで伝わってきます。神の霊がとどまりありえないことが起こる。救い主がお腹に与えられる。その子によって民の運命が、自分の人生が、いままでと違ったものになってしまう。不思議で、恐ろしいけれどもすばらしい神の業が自分の人生を通して起ころうとしている。

 聖霊が与えられると、子どもが宿ったような出来事が起こる。子どもが宿ると母親の人生は一変します。聖霊が人の内に住みますと。同じように、今までと全く違う人生の局面が開かれます。しかも、この聖霊は、イエス様お誕生の時だけではなく、それ以降の教会が体験していくものです。イエス様ご自身もおっしゃられました。ルカ福音書11:9〜13。

 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者に開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供の、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。

 初代教会にも聖霊が降り、使徒たちや弟子たちは神だけを恐れて、命を捨てることさえ厭わず伝道するようになりました。聖霊に満たされると、人生が変わり、子供が生まれるような人生も運命も一変させる出来事さえ起こり、聖霊に満たされると讃美が生まれ。マリアのように預言的な言葉さえ語りだすのです。その讃美の中に、はっきりと神の御心が語られつづけていきます。2000年以上経った今も、私たちに語りかけ、私たちを動かす言葉。それがマリア讃歌、マグニフィカートです。

 聖霊によって語りだされた言葉通りのことが起こりはじめます。

 羊飼いたちに神によってスポットライトが当てられます。まず羊飼いが御子の誕生を祝うためにやってきました。これは、マリアが預言した通りです。身分の低いものをこそ主が覚えておいでであるという言葉通りです。ですから、マリアはこの一連の出来事を心に納めて、思い巡らしていたのです。それはしっかり聖書に記されています。ルカ2:19。

 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。

 神の業が起こり始めると、その一つひとつの出来事が神の力によってつながっているのがわかりますし、神の言葉通り、約束通り、何一つ神の言葉は反故にされることなく実現していくさまを見るようになります。マリアは、一連の出来事に確かに神の心が通っているということを確信して思い巡らしていたのです。

 身分の低いこの主のはしために目をとめ、権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高くあげる。羊飼いにスポットライトを神はあてる。誰もが無視してきたひとびと。これは神の心の現れ。栄光が、神のご臨在がこの羊飼いたちと共にある。

 中心地の中心的な人々、エルサレムの祭司、律法学者、ファリサイ派、サンヘドリン、の人々からすれば全く考えられないことだったに違いありません。神の業が、このような小さな存在。貧しい存在。人々が無視しているような存在からはじめられるなんて。しかし、それこそが福音です。

 神は、私たちを忘れてはおられない。むしろ、その小さな一人を用いて。今は、社会の片隅にいるようにしかみえない。しかし、弱きもの、貧しきもの、隅に追いやられているような人を通して、神が御業をなそうとしておられる。

 高ぶるものの鼻がくじかれて、低きものが高く挙げられるのです。

 ソロモンの箴言18:12にこのような言葉があります。

 破滅に先立つのは心の驕り。名誉に先立つのは謙遜。

箴言21:4。

 高慢ななまざし、傲慢な心は/神に逆らう者の灯、罪。

 神のご介入だけしか期待できない。そういう弱い人々こそ、神が求めておられる器です。羊飼いたちは、この時、明確に神に選ばれた器でした。ルカ2:14。

 いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。

 栄光は神にだけあればよいのです。人にある必要などない。人が自分の栄光を求めることが高ぶりに繋がり、ひいては神を捨てる不信仰につながっていく。そういった高ぶりを一切もちようがない、この羊飼いをこそ、御子の誕生の証言者として主は用いることをお決めになられて、「御心に適う人」と呼ばれたのです。

 彼らが特段なにか優れた倫理的基準を持っていたというわけではありません。とういうよりも、おそらく道徳的価値観においては、ユダヤ教の律法を学ぶ機会を得ていないのですから、劣っていたに違いありあせん。伝承によると、羊飼いたち同士では持ち物の所有の概念が薄く、自分のものも、他人のものもあまり、しっかりと区別しないようなところがあり、盗みのようなこともよく行われていたようです。

 しかし、主は、この低くされた人をご自身の目的、ご計画のために選ばれて用いられるのです。それらは、羊飼いたちの自己実現ということではなく、神の愛を彼らを通して世界に流し尽くすためです。神の愛が、見捨てられた人、見下げられた人、寂しさを抱いている人。オレはもうだめなんじゃないかと思っているような人。そこに届来続けるのだということを世界の民に示すために、彼らは選ばれて用いられたのです。何という幸いでしょう。

 神の愛をうつすもの。いや、神の愛そのものとして、メッセージとして彼らの存在は扱われている。彼らを思い出せば、いつも、神の愛の深さ広さに思い至る。あぁ、私も見捨てられているのではない。そう思える。

 今日から、マリアのように主の僕としての歩みをはじめ、御子に内に住んでもらいたい。聖霊を求めて。神がこのはらに宿っていることを体験したい。イエス様は求めるものすべてに聖霊が与えられると約束されています。子供を宿すような人生を一変させる出来事が起こります。その出来事を経験し、神の愛がこの体に流れていること、キリストの血がこの心に、またこの魂に流れていることを皆で味わうという、驚くべき恵みの中を歩むことを許されたのです。

 マリアは、思い巡らし、主の命がその人生にめぐっていることを味わっていました。

 今、のぞみ教会でも同じことが起こっているのを感じます。早天礼拝をはじめさせていただきましたが、私が守りましょうと言わなくても、というか私が一番体調を崩して欠席しています(汗。が、人々が御言葉を思い巡らし、その中に血が通っていることを確認し始めている。

 主の御業の胎動がはじまっているのを強く感じます。御言葉を思い巡らす黙想は誰にいわれなくても、その味を味わえばやめろと言われてもするようになる。

 マリアのように。喜びで、楽しみで、ワクワクして仕方がないのですから。アーメン。