y 大阪のそみ教会ホームページ 最近の説教から

ルカによる福音書2:22〜35 「心を刺し貫く剣」

石井和典牧師

 イエス様のご家族は、貧しいけれども神様のみ言葉に忠実に従うご家族でありました。というのも、彼らがはじめての子供、長男をささげるために神殿にイエス様を連れていっているからです。律法に定められた清めの期間が終わって、息子を神様の子供として神に捧げる心をもってエルサレムへと向かっています。

 貧しい家庭だったとなぜいえるのかといえば、山鳩か家鳩をささげるためにとだけ記されているからです。裕福な家庭は小羊を捧げました。しかし、それができない貧しい家庭でした。

 貧しさというのは非常に重要なキーポイントです。イエス様はあるときこのように言われました。マタイによる福音書19:23〜26。

 イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるだろうか」と言った。イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」

 持っているものは、何も力がない。ただ神にだけなんでもできるお力がある。富んでいる人たちは何かできると勘違いしているんです。神に自らを委ねて、神の力によってらくだが針を通るような救いをなしとげていただく。富や力を捨ててただ神に。そのような姿勢がない限り救われることはないとおっしゃられたわけです。また別のところでも。マタイ5:3。

 心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

 とおっしゃられました。心の貧しいというのは「霊の貧しい」と実際は記されています。霊が貧しいというのは、神の前で自分が貧しいものという意味です。霊は神に対峙する領域です。存在そのものが神の前で小さいものに過ぎないと自覚しているものという意味です。神の前における貧しさを自覚するものは、驚くべきことに天の国にあずかるというわけです。

 この世で大成功して元気いっぱいで充実している人。そういう人ではなくて、神の前で自分の小ささ、弱さ、力のなさ、そういう自覚をもって、神の力に頼ろうと思っている人。そういう人のところにあえて主はご自身を現してくださるのです。主イエスのご家庭が貧しかったというのはとても大きなことです。貧しさを覚えるもののところにこそ主はお越しくださるのですから。

 さらに言えば、この貧しき小さな家庭から、メシアの御業の狼煙があげられているということがとても大きなことです。シメオンという人がいました。彼は信仰あつく敬虔な人だったと記されています。この敬虔で信仰深いシメオンにとって、イスラエルがローマ帝国に支配されて自由を失っているということは我慢ならないことでした。全地全能の父なる神。その神によって導かれてきたはずのイスラエル。そのイスラエルがどうしてこのようなローマという力の支配のもとにあり続けなければならないのか。神は自由を我々に与え給わないのか。つねに、イスラエルが慰められて、神の力がそこに示されることを祈り願い続けてきた。それがシメオンでした。

 ローマによる力の支配からの自由が、この小さな家庭からもたらされる。そんなこと誰も想像できなかったはずです。あのローマ皇帝にどうやってこのイエスのご家庭が対抗できるでしょうか。しかし、神様がくださったメシアに対するご計画というのは、ローマ帝国を力によって打ち砕くというものではありませんでした。御子イエスをお送りくださり、御子によって神が私に触れてくださったのだということを、一人ひとりが経験し、御子が犠牲の小羊として捧げられるということが、イスラエルを解放する業でありました。実際にイエス様と出会うことで人々は自由になっていきました。ローマ帝国の支配はなくなりませんでしたが、信じるものはたとえ牢獄に入っていようとも、処刑されようともそこに自由を見出すことができる人になっていきました。

 メシアというのはローマ帝国からの解放者というよりも、罪からの解放者でありました。神とのパイプラインが回復されて、神に勝ち取られた人々を通して神がご自身の御業をなしていかれるという、力による支配ではなく、一人ひとりとの神がつながることで、神ご自身がご自分の業を信じるものを通してなされるという、神による統治、支配、言い換えると、愛による支配がはじめられました。

 神様のご計画というのは驚かされます。人々がこのように慰められるのだろうと考えるのとは別のところから救いを起こされます。ローマを倒すのではなく、信じるものたちを回復する救いです。勝ち取って、その信頼感の中で神の国が立て上げられていくという、人々が全く思いもしなかったような方法によってです。

 シメオンという人に聖霊が注がれました。小さな一人の人を主は選び出し、小さな一人の人の心に触れて、言葉を与え、確信を与えて主の証を立て続けられます。25〜27節まで、「聖霊」や「霊」という言葉が3度も出てきます。シメオンという一人の人の心の中に、さやかに主がご自身のご意思をお示しくださったということです。主の御業は小さな一人の人からはじめられます。一人が大事なのです。

 聖霊によって示されるということは、このところを見ますと、具体的にこのようにしなさいよということさえも示されるということも分かります。神様が、メシアに会うまでは死なないという心の内に示される啓示と確信を与えてくださっていました。

 実際にイエス様のご家族にお会いすると彼は、マリアが抱いている幼子がメシアであるということを神様から示されました。主が心の内に与えてくださった言葉と確信通りであったことを、喜びとともに告白するのです。ルカ2:28。

 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」

 しかも驚くべきことに、シメオンは目が開かれてイエス様による救いは、万民のために整えてくださった救いであると確信しています。新しい視点が開かれています。当時の宗教的指導者層であったファリサイ派や律法学者たちは、他民族、異邦人を排除していく発想が非常に強くありました。ユダヤの民からすれば愛国的な人々でありましたが、他の民族を蔑む傾向がありました。

 しかし、いにしえから受け継がれてきたアブラハム契約は決して他民族を排除し排斥していくようなものではあありません。むしろ、イスラエルの民がなぜ選ばれたのかを明らかにする契約でした。創世記12:2。

 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。

 神の霊が注がれたマリアもザカリアも、聖霊に満たされて、アブラハムの契約が成就するのが主イエスにおいてであると言っていました。そして本日のシメオンも万民のための救いが整えられているのだと悟っています。しかも、さらに言えばこれはイザヤ書の預言ともつながっています。BC750年から700年前後に書かれたであろうイザヤ書の中に、メシアが描かれており、メシアはユダヤのみならず諸国の光とはっきりと記されています。イザヤ書42:6。

 主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び/あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として/あなたを形づくり、あなたを立てた。

 さらにイザヤ書49:6。

 わたしはあなたを国々の光とし/わたしの救いを地の果まで、もたらす者とする。

 イザヤ書52:10。

 主は聖なる御腕の力を国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が/わたしたちの神の救いを仰ぐ。

 地の果てまですべての人が、その救いを仰ぐことになると預言されていました。

 救い主であるイエス様が実際に現れて公の生涯をはじめられて、皆のまえに現れますと。もちろん、弟子のように従う人たちも出てきましたが、主イエスは十字架にかけられてしまいます。ユダヤ人の王と自称したと、また神を冒涜したと、ユダヤの民が判断し、ローマの処刑方法によってローマによって殺されてしまいました。

 アダムとエバが神によって禁じられていた「善悪の知識の木」の実を取って食べた時から、人は自分の善悪の知識を持つようになり、自分で善悪の基準をもって生きるようになりました。自分が神のようになり、自分独自の善悪の基準を作って生きるようになりました。神のようになれると言ったサタンのことばが実現してしまいました。

 イエス様の御前に、聞いて従えばその人は救いに導かれます。しかし罪人であり堕落し、エデンの園を終われ、善悪の知識の木の実を食べた人間は、神を自分の善悪の基準で判断するようになりました。神ではなく自分が善悪の判断者となってイエス様を有罪としていきます。神に聞くのではなくて、自分が判断者として人をさばく人になってしまったのでした。

 シメオンはそのことも預言しています。ルカ2:34。

 「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」

 主イエスに対してどのようなスタンスを取るのかで、つねにその人が立つか倒れるのかが決まります。反対者となるのか、神の国を受け入れる人となるのか。主イエスに善悪を聞く人になるのか。それとも自分の基準でものごとを判断し、平安ではなくて裁きを得るのか。

 礼拝堂は常に十字架を中心にすべきです。ここに来て、ただひざまずきただキリストに聞くスタンスを取る必要があります。その人は神から聖霊をいただき、力をいただき、神の業をする人にやがてなります。

 しかし、ここに来たとしても、十字架にイエス様をつけた人々のように自分が判断の基準となり、自分のものさしで人を裁き、自分が善悪を知るものとして立っていますと、いつまでもひざまずくことはできません。聞く耳をもたないので神の声を聞かず、聖霊が満たされないのです。

 新旧約聖書、常にキリストの福音で満たされているのを感じます。常に人は神に聞いて歩む。それだけを中心に、第一にしているのであれば、常に変わらず神はその人々をお守りくださっていました。

 旧約聖書の王たちの歩みをみれば、常に聞いていた王ダビデを主が祝福しておられるのが分かります。聞くことではなくて、自分の力で何ができるかを考え、周りの環境に左右されていた王は、聞くことよりも別の基準で動き、神の御心を行うことができなかったわけです。

 キリストの前にきて、これまでの歩みを全部捨て、悔い改めて、主の御声に耳を傾け続ける人。その人を主はご自身の計画を実行するものとしてくださいます。そして計画の中に生き、神のアブラハム契約の実現。すべての民が福音にあずかっていく姿を自分の目で見る人となっていくのです。

 現代に働かれている主イエスの姿を今も心の内に見るのです。アーメン。