ヨハネによる福音書3:1〜16 「一人も滅びないで」

石井和典牧師

 ニコデモは神学教師であり、ユダヤ教の議会サンヘドリンの議員でもありました。老齢で経験豊な信仰者です。しかも、聖書のギリシャ語の言葉を詳しく調べてみると、神学校の校長であったのではないかとさえ考えることもできます。その人が、イエス様のところに来ました。イエス様のところに行ったら、ユダヤ教の人々から異端扱いされかねない。そのような状況であったにもかかわらずです。

 ある夜、イエスのもとに来て言った。

 というヨハネ3:2の言葉がその事情を物語っています。このときは、まだニコデモは人の目を避けていました。しかし、この人は後にイエス様の御遺体を引き取って、墓に埋葬する人です。目立ち、リスクのある行動を取ることさえできる人となります。主のあかしびととなりました。

 ニコデモはファリサイ派の教師として、権威ある立場を得ていたのでしょう。人に立てらるということを、身をもって体感していた人です。尊敬されて、教えを請われるということが多かった。だから、イエス様に対してどのように謙譲するべきかよくわきまえていました。だからこそ、このような言葉が彼から出てきたわけです。ヨハネ3:2。

 「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」

 ニコデモは自分自身が神学教師でありましたから、その教師が「先生」と呼んでイエス様に教えを乞うということが特別なことであることをよく理解して、最善の敬意をあらわしたわけです。しかし、イエス様はすぐさまこのようにお答えになられました。ヨハネ3:3。

 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

 イエス様を立てる言葉をつかうニコデモに対して、応答の言葉として噛み合わない言葉です。しかし、イエス様はニコデモの心の奥底にある関心の中心の中心を、真芯をイエス様はついて発言なされます。

 挨拶に対してこのように答えるというのは、普通はあまりない会話ですね。しかし、イエス様はニコデモの心の奥底にある欲求をよくご存知でした。神の国、神の支配、神がおられるということ、ニコデモは神学教師でありながら、神をその身をもって体験していなかった。勉強は一生懸命していたでしょう。律法にも詳しかった。しかし、彼には神を体験する。神の支配を見る。神をありありとその場に感じる。といったことが無かったのです。だから、神の支配を体験するために、新たに生まれなければならないことをイエス様はお教えくださいました。

 新たに生まれ、神の国を見る。これがイエス様がお考えになられていた信仰の世界でした。しかし、人々はニコデモと同じように、「しるしを見たから信じる」信仰にとどまってしまっていたようです。その信仰にイエス様はご自身を委ねることはなさいませんでした。それが本日の聖書箇所のすぐまえのところに記されている内容で、非常に重要な内容がサラッと記されているところでもあります。ヨハネによる福音書2:23〜25。

 イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証してもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。

 多くの人がイエスの名を信じたけれども、イエス様御自身は「信用されなかった」と記されていますが。「信用されなかった」というのは「信じなかった」とも訳せる言葉が使われています。人々はイエス様を信じ始めていましたが、イエス様はその人達の信仰がまだまだ不完全であることがよくわかっていました。人の心の中にあることをイエス様はご存知であられたからです。

 イエスの名と力を信じはじめていても、まだまだ人々の心の中にある信仰は、イエス様をこころの中心に据えるような信仰ではなかったのです。心の中心には依然として自分自身が座っているだけである。そのような信仰であったのです。そうではなくて、新たに生まれるようなこと、全く別人になるようなことが起こらなければいけない。心の中心が自分に向いているのではなくて、神に向いている状態。

 それは全く別人の歩みです。

 神のもとで新たに生まれるという180度の方向転換が起こらないかぎり、そのようになることは不可能です。神を人生の中心に迎え入れたときに、神のご支配、神の国がそこかしこにあったことに気づき、いまさらながらに悔い改めるということを経験していきます。

 新たに生まれるということはより具体的にイエス様が説明されておられます。ヨハネ3:5。

 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。

 十字架と復活、昇天、聖霊降臨であるペンテコステ。イエス様が与えてくださる恵みについて教会は目が開かれました。このことを知っている人間が、このイエス様の言葉を聞けば。水による洗礼、バプテスマ。聖霊による洗礼、聖霊のバプテスマのことをおっしゃられていることが分かりますが、これを聞いていたニコデモにはその時にはよく理解できなかったようです。霊によって新たに生まれるとはなんのことだか見当がつかなかったことでしょう。

 霊によって生まれたものはどのようになるのかというと、8節以下。

 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くのかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。

 風というのは神の霊です。神の霊に満たされるという体験は、それをコントロールすることができません。主の主導権によって神の霊は思いのままにそこら中を吹き荒れています。

 神の霊が働き、その霊の動きによって動かされている人々には、思いもよらないことが起こっていきます。初代の教会が出来上がったというのがその最たるものです。人々の間に主に対する熱意と御言葉の説教とがあふれました。使徒言行録2:42を見ますと。

 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。

 と記され。持ち物を持ち寄って財産までも共有し、毎日神殿に参り、喜びと真心とをもって一緒に食事をし、神を讃美していたので、民衆全体から好意を寄せられたとしるされています。

 水による洗礼、聖霊による洗礼。それらによって人が新たに生まれるということが起こり、神の国を見る人々が出てくる。そのような視座をイエス様はニコデモに教えてくださったのです。しかし、ニコデモは理解できなかった。理解できなかったけれども、この言葉がずっと心に引っかかった。ほとんどすべてを記憶していました。だから聖書に残っているのです。神の言葉が語られ、その人に語りかけが起こると、その人自身すぐに意味が理解できなくても、その記憶が残り続けます。神の霊の働きによって、皆様に神様からの語りかけが起こりますと、どんな小さなことであったとしても、それが記憶として残り、意味がわからなかったとしても、それが後にわかるようになって、人生を大きく変えて行くということが起こります。それがニコデモにおいて起こったことです。

 信仰生活というのは不思議です。いくら聖書を読んでいたり、人から話を聞いていたとしても、自分のほうが半信半疑というか中途半端な姿勢できいていますと、言い換えますと、「神にすべてを委ねて神が語りたもうことを信じようとして」聞いていませんと、聖書の言葉が全く記憶にも残らないし、何の引っ掛かりも生み出さない。自分を変えない。

 それを何年もの間、私は経験してきてしまった気がします。しかし、一度、こちらが神に期待し、神を喜びとし、讃美しはじめると、毎日毎日が生まれ変わりのときとなります。新しいメッセージを主からいただいて、変化します。生まれ変わりの日となっていきます。驚くほどに、そのこころの内にある主に対する思いによって、同じことを聞いていても全く別の響きをもって受け止められるのを感じます。霊の生まれ変わりを経験するのです。

 ここに記されているニコデモに言われた主の御言葉はすべて違わず、後に信じるものたちに適用されています。ニコデモ自身が記憶し、ニコデモを変え、ニコデモを新しい歩みに導きました。新しく生まれる霊を受けたものは新しく生まれる聖霊の風を受けることになります。

 聖霊の風を受けることができるようになり、人々の内に命が宿る。この視野は、主イエスの十字架を通してだけ可能になる道です。それを主はこのように言われます。ヨハネ3:14〜16。

 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 永遠の命とは何か。ヨハネ17:3。

 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたをお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。

 と記されています。天の父と、イエス・キリストを知ることが永遠の命です。どのように知るのですか。それは十字架にかけられた主イエスの霊に満たされることによってです。主イエスの心がわが内に宿っていることを味わうことによって。私の内に、私のそばに、天の父と御子がおられることを知ること。

 キリストが十字架にかけられたのは、それを見上げたもの、信じて従ったものすべてに命が得られるように、神がご準備くださったもの。それはモーセが荒れ野で蛇を上げた時から、同じようにキリストを十字架において掲げられることによってここに集まる者たちに永遠の命を与えると主がお決めになられたのです。

 幸い、主が命をかけて私たちへの愛を示してくださったおかげで、私たちも命をかけて主に向き合わなけばならないようになっています。十字架を知るものは、自分のすべてを投げ出して、主に従わなければいけないようになっているのです。つまり、キリストが中心に。心の底の底からすべてを覆して作り変えられるように、その御業自体がなっているのです。福音自体が命がけであるようにとなっています。

 主が十字架におかかりになられた見るも無残なお姿を知れば知るほどに、黙想するほどに、私たちが全身全霊をもって主の御前に行く必要があることが分かります。自然な成り行きとして、すべての重荷を主の御前に投げ出しつつ、主にすべてをさらけだすしかないようになっています。

 十字架の御もとに行けば、最終的にはあのニコデモも外聞や人の目を気にする人ではなくて、そういったものを投げ出して主イエスの御遺体をお受けして葬りたいと思うにようになるのです。

 命がやどり、キリストの十字架の御まえにあつまり、心の底からへりくだって、ひざまずくものに聖霊を与え、主がそばにおられるという強い確信を与え、永遠の命がわが内にという、神の国の住人を主はおつくりになられます。主に心の中心にお立ちいただきましょう。都合の良い部分だけ信じて、良いことが起こることばかり考えるのではなくて、主のために自らリスクを背負うことさえできるような、主が心の中心である信仰に立つことが許されるように祈りましょう。アーメン。