ヨハネによる福音書 11:38〜44 「墓から出る」

石井和典牧師

 死が私たちを分断するのではありません。私たちの「信じない思い」が私たちを分断します。イエス様が怒っておられる場面が描かれています。イエス様は怒っておられるのです。死によって人々が分けられてしまうことを。葬りの式が絶望の場所になってしまうことを。

 キリストの教会は幸いです。葬りの式は絶望の場所ではありません。やがて再会する希望の場所となっています。

 病気や死は絶望ではなくて、神の栄光が表されるためにすべて用いられるということを知らなければなりません。しかし、死という圧倒的な現実の前に、人々はイエス様の言葉を忘れてしまっていたのです。イエス様はこのようにおっしゃられました。ヨハネ福音書11:4。

 イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」

 病気は死で終わらない。神の子が栄光を受ける。病気にも死にもキリストが関わってくださって、御自身の栄光の場としてくださる。先にこのように宣言してくださっているのに、その言葉や思いを受け取りきれずに、忘れる。主の思いによって絆が繋がれるのではなくて、主の思いを忘れ、肉の目に見えることで物事を判断し、死が人間と人間を分断する。

 この現実に、信じるものたちの不信仰にイエス様は怒っておられるのです。主イエスの方を向いていれば、何度も復活の命があることを言っておられるのがわかります。ヨハネ福音書11:25。

 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

 死んでも生きる。死なない。肉体において死んでも生きる。神のもとで生きる。死なない。イエス様は「決して」と断言してくださっています。あなたたちはこのイエス様の思いの中で生きるのかと問われている。

 しかし、亡くなったラザロという人を前にして、姉妹であるマルタとマリアは「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言いました。命を司り、命を誰にでも望むままにお与えになることがおできになるお方の前で、死ですべてが終ってしまいましたと言う。そんな対話です。

 パンを与えることができる。パンでいっぱい満たされている。パンをいっぱいもっている。その御方の前でパンがないパンがないと言って「死ぬというテンション」で不安を述べ続けているようなものです。

 主よ、命を注いでください。主よ、復活させてください。その一言で良かったはずです。

 目の前に危機があると、大問題があると、どうして主に求めることを忘れてしまうのでしょうか。あらゆる問題に対応し、あらゆる力の源であり、知恵の源であり、宇宙を造られ、私たち人間を御自身の似姿に形作ってくださったお方。その御方のところにただ、ひれ伏して、「命を与えてください」この一言で良いのに、どうして、右往左往、あたふたあわてふためき、まるで世の終わりでもあるかのような顔をして、他者をさばき、傷つけ、のたうち回って、叫びまわらなければならないのでしょうか。

 ただ、信ぜよ。ただ、信ぜよ。主イエスの御言葉を。命を与える真の父の言葉を。

 死という問題が、いかに人々との間を引き裂いてしまうか、その現実に憤りを持たれ、主はラザロの墓に行かれました。

 この流れを見ていきますと、この兄弟姉妹も、家族も、周りの人々も、イエス様が「死んでも生きる」と言われても、誰もそれが実際に起こるとは本気では信じていなかったようです。

 だからこそ、復活の出来事を実際に目の前でお見せくださり、記述として残し、後の時代の人々も味わうことができるようにしてくださったのです。信じると言って、受け止めているように見せかけて、実は何も信じていない。これが、聖霊が降る前の信仰者の状況であったことがよく分かります。

 しかし、心の底では信じていないものたちをイエス様はお見捨てにならずに、信じないからこそ、分断を生み出している現実に怒りを覚えて、問題の只中にお入りくださいます。墓までこられて、「実際に墓をあけられるところまでお付き合い」くださいます。

 信仰がなければ、墓を開けること、こういったことは絶対にできません。もしイエス様がご一緒してくださらなかったら、マルタもマリアも、ラザロの墓を開けることなどなかったはずです。イエス様がマルタとマリアの一族のために寄り添い信仰を与えてくださっています。

 イエス様というお方は、まことにインマヌエル。私たちと共にいてくださるお方。私たちが信じることができなくても、その不信仰の現場にさえいてくださってお付き合いくださっている。それがインマヌエルです!

 不信仰の現場。洗礼を受けて、公に信仰告白をしたその時から、どれだけ多く重ね続けてきてしまったことか。と、今更ながらに私は思っています。信じると言いながら、実際には信じてはいない。そのような現実の只中に主イエスはお入りくださっている。そのところに共にいてくださる。

 だからこそ、不完全ながらも信仰の歩みを続けてくることができました。マルタ、マリアの姉妹の傍らにいてくださったように、決して人に見せられないその不誠実な現実の傍らに実は、主はつねにおられたのではないかと思わされるのです。

 そして、タイミングを見計らってくださり、ここで気づくというタイミニングで!マルタとマリアには実際にラザロが死ぬという究極の局面でなければなりませんでしたが、主イエスはご自分の思いをこの姉妹にわかるようにお伝えくださいました。彼女らは、これが主の業でしかないと、大きく世界に、周りの人々に伝えなければならないと思うように至りました。その証を立てることができるように、主イエスがこのタイミングを。苦しみの現実をご準備くださっていたと信じることができます。

 泣きそうになる現実が押し寄せてくるとき。その時こそ、実は主イエスの言葉一つ一つを思い起こすべき時です。泣きそうになる現実こそ、主の言葉が実現するということを「体の隅々まで、心の隅々まで、霊の奥底まで」味わうその時です。

 栄光が表されると約束されている。その結末に向かっています。

 イエス様は私たちの不信仰の、また分断される現実に怒り、しかし、悲しみに打ちひしがれる一人の魂によりそい、ご一緒に涙を共有してくださいます。その現実の只中に御自身の御業がわかるように、ご準備くださっています。私たちが目を開くのならば、その涙しそうな現実はじつは栄光に向かう、光をはなつ、主がご支配くださる現実であったのだと気づくのです。

 イエス様はおっしゃられました。ヨハネ11:40。

 「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか。」

 神の栄光は見えます。

 信仰がいかに重要であるか。いや人間にできることは信じるということだけでしかありません。信仰のみ。聖書のみ、救いのみ。この確信にたって私たちプロテスタント教会は歩んできました。信じるならば、神の栄光を見ることができるのです。神の御業を見ることができるのです。死を乗り越えてしまう圧倒的な力を体験させていただけるのです。それはただ信じるだけで!です。イエス様は常に、「あなたの信仰があなたを救った」と言ってくださいます。実際に救う力は神の側にしかありません。しかし、信仰が神の力が表される扉を開くのです。信仰だけです。

 信仰の具体的な行動の発露は、「祈り」です。イエス様はどんなときも祈るために退かれて、喧騒から一時はなれられて祈られました。人々がイエス様に従ってお墓の石を取り除けられると、その信仰マルタ、マリア、周辺の人々の信仰に応えられてイエス様は祈りをおささげになられました。このように祈られました。ヨハネ福音書11:41。

 イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」

 天の父を信じ、その信仰の発露である祈りをささげ、実際にそのとおりに主イエスが願われたことのすべてを聞いてかなえてくださる主の力を皆が信じるように。祈りがすべて聞かれることを信じるように。主イエスが遣わされてこられたものであり。天の父のみぎに座しておられた方であることを知るように。その主イエスの名で、主イエスを通して祈った祈りのすべてが天の父に届けられることを知るように。

 信じ祈る、その思いは、天の父に届いている。

 本気で信じ祈る民が集められてきたら、神の御業の始まりを感じ、予感することができます。聖書に記されている通り、主イエスのお働きがそこに起こり始めるのを期待することができます。

 イエス様が「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれるとそのとおりになりました。ラザロが手と足とを布で巻かれたままに出て来ました。

 ラザロの手と足とに巻かれた布を皆でほどいてやりなさいとイエス様はお命じになられます。この時のラザロの心境はどんなものか、いろいろ想像しますがわかりません。もしかしたらボケっとしていたかもしれませんし、力に満たされて顔が輝いているというかエナジーに満ちていたかもしれません。分かりません。

 しかし、わかるのは、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた、ラザロ以外の人々。特にラザロの家族。この驚くばかりの出来事に、ラザロが復活したという喜びの中に打ちのめされるような思いだったんじゃないか。喜びにむせびなき、しかし、ラザロの顔を見ることができるという喜びに、皆が笑顔だったのではないかと想像いたします。

 私は今まで教会で捧げられる葬儀で同じような場面を経験してきました。皆涙しながらも、しかし、笑顔を浮かべているお姿。なお、司式をする私も、つねに「またお会いしましょうね」と言って棺を閉じることが許されている。

 ここで今命をとじても、やがて、おぉぉ、またお会いしましたね。ハレルヤと叫ぶことができる出会いがここにあることを信じることができます。

 死んでも生きる。死んでも生きる。主に従って参りたい。信じたい。祈りたいと思います。アーメン。