ヨハネによる福音書12:1〜8 「葬りの準備」

石井和典牧師

礼拝の場所を準備することがいかに重要であるか。大阪のぞみ教会で味合わせていただいています。今皆様と共に行っていることは、礼拝を準備しつづけるということ。このシンプルな運動をしているという感覚を私は持っています。

すると、その礼拝の中に集められるべき方が集められてくるということを体験しています。もちろんたくさんの方が来られるように、宣伝をして広告するということも大事なのですが。もっと大事なのはその礼拝という、うたげの場を整え、そこに一人の人が神によって導かれてくるということを見る。これを続けていくということです。

実際に新しく来られる方々がなぜ来られたのか聞いてみると、それぞれに何年にもわたって導きがあり、その導きの集大成として、礼拝への参加があることが分かります。

本日の聖書箇所に出てくる人は、ラザロ、マルタ、マリア。ラザロは食卓の席についています。マルタはいつものように仕えています。マリアは、高価なナルドの壺を持ってきて、イエス様のために使い尽くしてしまって仕えます。すなわち皆が礼拝しているとも言いかえることができる。

 この人達は皆、主イエスの光の中に入れられてしまっています。主イエスの御業があったからこそ集まっている。すなわち、イエスさまを中心として、自分がそこにあつまる人となっている。

 うたげを開き、仕え、礼拝する。この中に入っていることこそ、人類の救い。

 主イエスは何をしてくださいましたか。ラザロを復活させてくださいました。

マリアも、マルタも皆、その場所にいた人々はラザロと別れに悲しみ、死が人と人とを分断し、神を信じることができない罪が、復活を信じよとイエス様に言われていながらも。信じることができず絶望に至らしめるという痛みを味わっていました。

 悲しみと痛み、彼ら自身は意識できてはいませんでしたが、罪によって死が入り込み、死が人と人とを分ける絶望を生み出してしまっていました。問題の根源は人が神から目をそらす罪でした。イエス様をしっかりと見ていなかった。言葉を受け入れていなかった。だから、絶望に落ち込む死の世界を彼らは体験していました。しかし、実際にはどうでしょう。

その現実の只中に主イエスがおられさえすれば、人は死を乗り越えることができる。肉の目をもってはこのことを理解することはできないかもしれません。目に見える現実がすべてだと考えるならば、「イエスがおられさえすれば」という世界を受け入れることができないかもしれない。しかし、主イエスを見さえすれば、主イエスは人を復活することができることが見えるようになります。主イエスの御言葉、お約束、行動、そのご存在のすべてを通して神の力のみによって復活は起こることが示されました。

もはや死は死ではなく、死は別れではないし、罪によって死してもなお、人は主イエスを信じることによって、再び命を受けることを知ることができました。

信仰によって、神を見出したものは死なないのだということを主イエスから聞きました。ヨハネ11:25。

わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。

実際に墓からラザロが出てくるのを皆で見ることができました。

家族の喜びたるや、泣きながら喜び、笑顔もたたえつつ、ラザロを包んでいた布を取り去ったのではずです。

しかし、その後の記述ですぐに、イエス様のなさった奇跡の復活の業を見たものたちが、最高法院の議論の中にその話をもっていき、しかもその年の大祭司であるカイアファが、神の名によって預言しつつ、次のように言いました。ヨハネ11:49以下。

「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」

このままイエスの力が証明されていったら、自分たちの力、権力に人々は従わなくなってしまう。新しい権力構造が出来あがったら大変なことになる。(イエス様は力によって上から押さえつけて支配するというような支配ではなく、神の国の支配を述べ伝えました。)ユダヤ教の組織体制や最高法院の権威を威厳を維持するために、一人の人を殺して体制を守るべきだと言ったのです。イエス様を殺して犠牲を払い現状を維持するほうが得策であると言っているわけです。

神がどうお考えかではない。自分たちの支配体制がどうやったら維持されるかという、その一念で一人のイエス様を殺すという闇に動いていきます。

イエス様の御業、ラザロの復活を見て信仰に至った人ももちろんいました。しかし、その光と闇は大きく分けられました。何かを持っているものたちは、闇に導かれ、何もなかったもの、希望を失っていたもの、力を失っていたものは、光に導かれました。

ヨハネ福音書の根底にはつねに、光と闇というモチーフが流れています。イエス様のところにきて、その御業を目の当たりにして、純粋に神に立ち返っていく光の子らと、イエス様の御業を目の当たりにして、イエス様を殺そうと考えたり、不信仰に至る闇を宿すもの、すなわち闇の子らに明確に分けられてしまいます。

光が来るということは、闇に支配されてしまうということはどういうことなのかがわかるようになるということでもあります。祈りの中で光を見る毎日を送っていますと、闇がなんなのかわかるようになります。闇を抱えている人も、行動も言葉もわかるようになります。自分の中にそれが入って来た時、拒否できるようになっていきます。

闇を抱いているということはどういうことか、それはイエス様の御業の傍らにいて、その御業を見ているのですが、それらを自分のこれまでのメガネ、判断基準、ものさしで測り、自分にとって都合の良いように理解するということです。

光の子たちは、何をしているのか。食卓につき、仕え、礼拝するという、礼拝的命の中に入っている。キリストがその中心にあり、自分たちではない。キリストの御業のもとに、復活させられた者たちが喜んで集い、それぞれが喜んで仕え、ささげものをささげている。この主の前にひざまずくという礼拝的命こそが、復活の命です。

誰に何をいわれずとも、毎日礼拝的な命を生きる。圧倒的に大きな恵みをすでに受け取ってしまっていて、その主のご恩に応える歩みをしはじめます。

特にわかりやすいのが、本日のところにでてきますマリアの行為です。

1リトラの香油を持ってきます。326グラム、値段に換算しますと270万程度。それらをひと思いにイエス様のために使ってしまいます。どうしてそんなことができるのか。ラザロが復活させられたことを、震えるような驚きを持って受け止めているからです。

驚きと喜びとをもって、主の業を見、主のために、持てるもののすべてをもってお仕えしたい。その思いの発露が、1リトラの香油(現代の日本円に換算すれば270万程度のもの)をいっぺんに使い尽くしてしまうということでありました。

270万を一瞬で使い尽くす、何の役にたつのか、人によっては「はてな」という内容かもしれない。イエス様の足を香油でマリアは拭います。自分の髪を使って。それは葬りのための準備だったとイエス様は言ってくださっていますが、マリアには何のためというよりも、とにかくラザロを生き返らせてくださったことへの感謝と、忠誠とを主にお捧げする行為でしかありません。

打算的な計算などそこにはありません。神の光に打ちのめされて、その光のもとに集い、光の行いの中にマリアは入っていっています。その結果、彼女の行為はイエス様の御業の一部にすでになってしまっているのです。

気づいたときには、十字架へイエス様が歩んでいかれるその道ぞなえをしている。葬りの準備をしていた。全人類の救いのためです。自分自身では気づかずに。

天地万物を造られた全能の父なる神を、主イエスを通して知ってから。自分がこれまで歩んできた自分勝手な歩み、それらが一体なんだったんだろうと思って生きるようになってしまいました。結局主の思いの中で、主のご意思にそって生きていかなければ、この後の世界にも何も残らないし、生きていることの意味さえわからなくなる。意味などないんだということを結論とする人も大勢いると思います。テレビである有名な脚本家がはっきりと、死んだら何も無いんだと言っていました。

しかし、我々は幸いなのは、主イエスの周りにあつまり、主イエスに対してひざまずき、礼拝的生を生きるのならば、その生命はいつのまにか主の業の一部となって、主とご一緒させていただけるのだということです。具体的になんのために、自分が召されているのか、はじめは分からなくても、やがてそれが明らかになり、マリアのように主の十字架の葬りの準備をいつのまにかして、人類の救いのために、また人類が主にその身をささげるときにどのようにささげたら良いのか、献身の見本となっているかもしれません。

とにかく、イエス様の栄光が表されるために、用いられることは、イエス様の周りにあつまっていれば、間違いない。イエス様の力でそれがなしとげられます。献身の思いは達せられます。私達の力ではなくて、イエス様のストーリーと、文脈と流れ、歴史の中で、偉大な主の御業の中にいれられてしまいます。イエス様は、ラザロという小さな小さな男の死さえも、神の偉大なる栄光のために用いられるのですから。そう考えると一人の人の存在は小さなものでは全くありません。極大に大きなものです。その証は偉大です。

食卓につき、仕え、礼拝し、ささげていれば主の業の一部となっていきます!光の主の一部となっていきます!

しかし、逆に礼拝的命を生きるものたちのそばで、闇が明らかにされてしまうということも確かです。闇の勢力の言葉は、イスカリオテのユダの言葉です。12:5。

「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人に施さなかったのか。」

これは、とても至極まっとうなことを言っているように見えます。しかし、イエス様の思いを全く無視した言葉。神のご計画を全く無視した言葉。ものを整えれば、貧しさが改善されられば物事はうまくいくとでも言いたげな発言です。300デナリオンを270万をセーブできて有効に使えたところで、それらはすぐに消えてなくなります。

神が与えてくださる永遠の命に至る選択。神を中心とし、キリストを中心とし、キリストに仕える生活を選びとらなかったら、いくらお金があっても無駄です。さらに言えば、神に仕えなけば、結局はお金も無駄な使い方しかできません。

キリストのために、心をささげ、香油をささげてしまったこのマリア。計算高いユダにとっては最も愚かな、最も非現実的、能力の低い、愚か者とイスカリオテのユダにはうつったでしょう。しかし、イエス様が評価し、なおかつイエス様への愛で満たされているのは、計算で考える人ではなくて、何の打算も無いマリアでした。

しかも、実際には貧しい人に対する配慮と計算からイスカリオテのユダは、このような発言をしたのではないことが聖書の記述から分かります。ヨハネ12:6。 

彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。

人を責める発言が、実は自分の自信のなさ、不義なる自分、実は正しくない自分を隠す隠れ蓑になっている場合があります。その人の中心ポイントは自分を守るためです。自分のために、人を攻めたり、自分の正しさを主張したりするのです。イエス様を殺そうとした最高法院も個人も、何のかわりもありません。

それらは神に向かう歩みではありません。神に向かうあり方というのは、ただ、主の前に共にあることであり、ただ仕えることであり、主の前にひざまずいて主の足を自分の髪で拭いながら愛を表現する。周りの人たちから見たら愚かで仕方がない、そんな歩みでしかありません。

しかし、その計算なしに仕えるという業は神の業の一部とさせられます。心無い人は馬鹿にするでしょう。闇は、そのことに批判をあびせかけるでしょう。しかし、確信していれば良いのです。これは主のためですと。涙を流しながら、感謝の応答をすればよいのです。主よ、讃美しますと。 

ただ、礼拝的生の中に入っていって、主にひざまずき、主に用いていただきましょう。シンプルです。主のところに行って、すべての重荷を捨てて主に跪けば良いのです。それだけで十分すぎるほどに十分です。主に集中いたしましょう。アーメン