ヨハネによる福音書13章1〜20節 「足を洗い合う」

石井和典牧師

イエス様の公のご生涯の3年。その最後の時が近づきつつありました。この年の過越の祭りに、ご自分の命をささげようとされていました。だから、最後の時に、言葉を選び、弟子たちを後の教会の礎とするために、すぐそばにいた弟子たちを教え、愛するということに専念されます。ヨハネ13:1。

イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。

と記しています。この世での命の終わりを悟り、最後の思いを込めて、弟子たちを究極に愛し抜かれた。それが本日読んでいます姿。この姿を、キリスト者は追い求めています。究極的に愛しぬくという姿はどんな姿なのでしょう。

食事の時に、次のような行動をイエス様はとられました。13:4。

食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。

この光景は、ありえない光景なんです。普通は、家のしもべが、奴隷がこの仕事につくはずなのです。イエス様はこの食事の場の主人であり、中心でした。しかし、主は率先してご自分からしもべの姿をとられたということです。このお姿をパウロはこのように言葉にしました。フィリピの信徒への手紙2:6〜8。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。

この高低差こそ愛ゆえにできることです。愛がなければできません。いかに愛するもののためにひざまずくことができるか。これこそが、愛です。特に神の愛というものは、底なしに深い。というのも、最も高い高貴なお方が、もっとも聖さから離れた所で、地を這うように生きている人間のところまで下るということですから。的を外しまくって、本質を外しまくって、自分のやりたいように生きている。それがどれだけ罪深いかもわからずに、自分が罪のうちにあるとさえ気づかない歩み。それが人間の歩みです。

その只中に降りて来てくださる。無限の高低差あるところを下りに下ってお越しくださる。それがキリストが私達のためにお越しくださったということの意味。

セイフティネットの編みに引っかかって、底の底でやっと救われたものとして、十字架の前に立って、自分こそが誰よりも赦されていることを体感します。だから、キリスト者は人に仕えることができます。自分が底の底、自分がまっさきに一番赦しを受け取るべき人間だと。十字架に前に来て、常に思っているのですから。底の底からみたらすべての人が自分よりも優れているように見えてきます。この直前のところに、このように記されています。フィリピ2:3〜4。

何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。

人に対する態度が、十字架の前に、キリストの前に立っているかどうかを証しています。

イスカリオテのユダが、この中にいることをわかった上でイエス様はお仕えくださいました。悪魔に影響を受けて、魂のよすがをそこにみつけ、行動も思いも神とは逆の方向、すなわち悪い方向にユダは傾いていってしまっていました。

しかし、考えてみれば、この人の行動がなければキリストは十字架への道を歩むことはなかった。というよりも、神の計画の内側に、この悪魔的な行為も織り込み済みであり、イスカリオテのユダさえも、神の計画に用いられているとも言えます。

キリストへの思いによってではない、別の思いのなにかに影響を受けながら歩むものが出てきます。キリストの歩み、またキリスト者の歩みを邪魔するようなものが出てきます。それは常にそうなのです。それでも神の計画がさえぎられることはありません。その妨害を用いてさえも、神は御自身の御業を行うことができる。

だから、重要なのは、ひたすらに神様のご意思はなにかと思い、神のご意思、思い、心、そのご愛をうつすところに走っていくといことです。イエス様はただひたすらに、横に裏切るもの、サタンに影響を受けたもの、神とは逆に歩みだすものがいたとしても、この上なく弟子たちを愛しぬくということに集中なさいました。イエス様が私達に教えてくださっています。どちらに集中すべきなのかと。

神の御業というのは、本当に恐ろしいです。畏れるべきは神の業です。私達は悪いものによって妨害があったら、そこで何か物事が頓挫してしまうのではないかと考えてしまい、そのことに必死で抵抗しようとしますが、実際に起こること、歴史、その全ては、神のご計画の内側に常にあり続け、起こっている出来事です。それがたとえ人の目に悪くうつったとしても、神の業が行われるのです。主イエスは、イスカリオテの妨害によって、十字架への道、救いの道を歩みはじめられました。

ペトロが「わたしの足など、決して洗わないでください」と言って、イエス様のご厚意を拒否しようとします。というのも、それは当然な思いだろうと思います。自分の主(しゅ)と思っているのですから。私の上にお立ちくださるかたにそんな奴隷になっていただくなんてありえないということです。しかし、主は、どのようなお方であるかと言えば、パウロが記したように、徹底的に仕え尽くしてくださる主。それが主イエス・キリストです。

けれども、ペトロは、自分の主が尊敬すべきお方が、奴隷の姿になることが許せないのです。おそらく、このイエス様のたらいをもって腰に手ぬぐいをつけ、低くなるという見えるスタイルこそが、彼にとっては引っかかる原因だったでしょう。奴隷のようになったというのは、心理的に低くなったというのではなく、実際に奴隷のスタイルでイエス様がお仕えになられたのでした。

イエス様御自身のことは、イエス様御自身が決せられるのです。こちら側がどうこういって、師匠たるものもこうあるべしとは言えません。そんなことわかりきっているはずなのに、ペトロは自分の先入観から抜け出すことができませんでした。

ペトロは洗わないでくださいと言いましたが、イエス様は一歩も譲られません。ペトロが受けるべきは、師匠が自分の足を洗ってくださったという、尊い経験です。彼の義侠心とか、彼の謙遜さとか、彼の思い込みとか、そういったものは重要ではないとは言いませんが、それよりももっと大事なものは、主が差し出してくださっていることをそのままに受け止めるということです。主のご厚意を抱きしめて、神に仕えていただいたんだという経験をもとに生きていくということです。彼はイエス様が自分の足を奴隷の姿で洗ってくださったということをこれから先何年も、後続に、また、知り合う人全てに、語りに語り尽くしたに違いありません。それが私達まで届きました。ヨハネ13:8。

もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。

主イエスが差し出してくださるものを受け取ったならば、その交わりは、恐ろしいほど大きな広がりを見せる交わりとなります。主イエスとのかかわりは、まずペトロとの間につくられ、その交わりは他の人にまで広がっていって、極東の日本人である私達にまでペトロの存在と証が影響を与えて、まさに神の業。神の証、神の行動。イエス様ととことん関係のある人物としてペトロは伝えられていきます。

そこまでペトロを通して関わりが大きく広がってしまうのです。だから、ポイントは、主イエスが差し出してくださっていることを、ペトロのように自分でそれはいりませんだとか、そういう主は信じられませんとか、こういう主を私は自分なりに信じたいとかいうのではなくて、仕えてくださる主。足を洗ってくださった主。奴隷の姿に私の前でなってくださった主。自己開示してくださった主をそのまま受け止めて。その主の前で主の思いを味わい続けることこそ大事なのです。

主であるイエス様がそのようにしてくださった。その記憶が深く深く染みていきますと。もう、人に仕えないではおれなくなります。主であり、神であるそのお方が私の足を洗ってくださったのです。その記憶があるのならば、人に仕えないということが逆にできなくなります。この人には仕えて、この人には仕えないなどという愚かなこともできません。手放しですべての人に、たとえ裏切ると分かっている人にも仕えなければ申し訳なくてキリストの前には決して立つことはできません。

ただ、主が命ぜられた次の御言葉に従うのみです。ヨハネ13:14。

ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。

イエス様はまた、詩篇41:9を引用してダビデが息子アブサロムに裏切られて謀反を起こされたことを思い起こしています。ヨハネ13:18。

しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。

ダビデが子どもに裏切られたということです。同じ食卓についているものこそが裏切るのです。ダビデの末裔であるイエス様においても、同じように弟子たちこそが裏切るということが起こる。それが大前提なのです。裏切りは起こるべくして起こってきました。

しかしその裏切る相手にさえ仕えることができる。それが神の国そのものである主イエスのお姿です。それがキリストの体である教会の姿です。裏切るから仕えないではないのです。裏切ると分かっていて仕えるのです。これが聖霊の満ちる神の国の基準です。

『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。 

裏切るものがおりながらも、最上級の愛をそこに注ぎ続け、仕え続けることができる。これが可能になる世界というのは、神の世界しかありません。全世界を造られ、人間を創造され、その人間の親として、父として、愛して愛し抜いて、何千年も忍耐し、忍耐し、立ち返ってくることだけを求め、預言者を送り、預言者が殺され続けてもまだあきらめずに、最後には御子さえも送ってしまって、その御子は十字架にかけられてしまうという。

狂おしいほどまでの、この底なしの愛がなければ、「裏切るもののために奴隷の姿をとる」などということを行うことは不可能。

全地をすべおさめ、歴史を支配し、子を愛し、将来のビジョンまで持っておられる。大きな主。その御方以外、敵を愛するなどということは不可能です。

神がここにおられるのです。父がおられるのです。すべてを知った上で迎え入れてくださる方がここにおられるのです。それがイエス様。このイエス様にこそ父の大きさを見た人は、父に迎え入れられます。ヨハネによる福音書13:20。

はっきり言っておく。わたしを遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。

アーメン。キリストこそ神です。主よ私達を受け入れてください。