ヨハネによる福音書13:21〜38 「愛する弟子」

石井和典牧師

イエスさまのイスカリオテのユダに対する悲しみの感情というのは、尋常ではないことがわかります。ヨハネ福音書13:21。

 イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」

 この言葉の中に「心を騒がせ」とありますが、他の翻訳を見てみると「霊がかき乱され」とか「霊の激動を感じて」とか訳す翻訳者もいます。いつも落ち着き払っておられるイエスさまが動揺されているということが伝わってくる言葉です。なぜ動揺されておられるのでしょうか。

 弟子の一人が完全に裏切ってしまうからです。ペトロも他の弟子たちも裏切ります。しかし、イスカリオテのユダの裏切りは別ものです。全く別の方向を向いて歩んでいってしまうからです。ユダ以外の弟子たちはやがて帰ってきます。逃げても戻ります。しかし、ユダは違うのです。もう戻ってこないのです。この別れに主は、非常に大きな動揺を覚えておられたのです。

 ペトロは言いました。イエスさまがペトロの足を洗おうとして。ヨハネ福音書13:9。

 「主よ、足だけでなく、手も頭も。」

 イエス様はこのように答えられました。

 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」

 ペトロや他の弟子たちは裏切りますが、それらは彼らが「帰ってくる」ことによってすべて帳消しにされます。主イエスの血潮が彼らを清めます。

 しかし、帰ってこなかったら清められないのです。ユダは全く別の方向を向いてしまいました。汚れの中にどっぷりと、サタン的な思いの中に、サタンの方向に歩みはじめてしまいました。

 イエス様は御自身が人であり、神であられることをはっきりと証してくださっていました。だから、この御方のところに来ることが人生の意味であるのです。しかし、ユダはイエス様の前にくるというポイントに至りながら、そこから別の方向に出ていってしまいます。

 イエスの前に来るということが、人が神の前に来るということ。その御方を無視して別の方向に歩んでいってしまっては、人が歩むべき道を外してしまうということです。イエス様ははっきりとこのようにおっしゃられていました。ヨハネ福音書13:19。

 事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。

 『わたしはある』という言葉は、神様がご自分のことをご自分で説明なさった言葉です。出エジプト記3:14。

 神はモーセに、「わたしはある。わたしはるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされるのだと。」

 イエスさまとの交わりの中に入るということが、神との関係を得るということです。

 しかし、神との交わりから落ちていってしまうユダに霊が激しく動揺させられているイエスさまの姿がここにあります。神の側に帰って来たときの恵み、それを捨ててしまう姿を思うと、いたたまれなくなるのです。

 神の側に帰ってくる恵みとそれを得ないことの落差は激しすぎるものです。永遠の世界とつながり永遠に生きていくことと、滅びとつながってしまうこととの差です。

 ユダは現実主義者だったと思われます。真面目で、実直で、信頼を受ける人だったに違いありません。というのも13:29を見ますと、このように記されています。

 ユダが金入れを預かっていたので、

 ユダがなぜ裏切ったのか。筋の通る説明もつけられるかもしれません。しかし、実際には聖書を読む限りでは、聖書の言葉が実現するために、それは御心が実現するために、ユダが裏切ることになっていた。と読むしかありません。ユダの心を想像すると様々に想像することができます。イエスさまが人々に触れ、ひとりひとりの病を癒やし、柔和な姿で仕えられたその姿から、ローマ帝国からユダヤ社会を解放する解放者メシアの姿が見えなかったからだと結論付ける人もいます。

 ここでは、「サタンが彼の中に入った」という説明がなされます。イエスさまが真のメシアだと信じさせる神の方向に歩みだす霊、すなわち聖なる霊ではなくて、サタン、イエス様がメシアではない、信仰によって歩むのではなくて、肉の、目に見える次元のことを最優先に考えて、霊である神を排除していく。

 そのような思いに溺れてしまい、汚れをまとい、泥沼にはまってしまったユダの姿が描かれています。「サタンが彼の中に入った」のです。そして、神がわからなくなった。イエス様がわからなくなった。メシアだとは思えなくなったのです。

 使徒の一人が裏切る、それは最低最悪の現状のように思えます。しかも、過越しの祭りを祝う祝いの席が重い空気で満たされました。疑心暗鬼というか、弟子たちもこのユダの行動で非常に心動揺したに違いありませんし、イエスさま御自身が心乱されているわけですから、とても、居心地の悪い、祝いの場としてはふさわしく無い空気になったに違いありません。しかし、イエスさまはこの裏切りの現場こそが、栄光が示される場所となることを、証されていきます。ヨハネ福音書13:31。

 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。

 神の栄光が、ユダの裏切りによって、十字架の血潮によって、栄光が示される。裏切りがあって、栄光が示される。苦難があって、救いがある。試練があって、主イエスが神であることが示される。こんなところに果たして神の御業など起こるのであろうか、というところに、主の御業が起こされる。信仰をもって歴史を見ますと、いつも主は試練や問題や、大変な出来事、闇の中に光を投じられる方であることがわかります。アブラハム、イサク、ヤコブも、モーセもダビデも皆、試練を経て、光を見出した人たちです。

 神の光が輝かされるために、闇を通る。その闇の中で真実が明らかにされる。闇を通って、ベールが剥ぎ取られ、隠されていた覆いがのけられて、真実の人の姿が見えるのです。そこに神の栄光が輝いていく。

 ユダが裏切るだけじゃありません。弟子たちは皆、危険が近づくと一目散に逃げていきます。命を捨てると言ったペトロも、3度弟子ではないと言います。こんな闇の中の闇でただひたすらに輝き続けているのは、主イエスの愛だけです。奴隷の姿をとって弟子の足を洗います。そして、このようにおっしゃられました。ヨハネ福音書13:34。

 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。

 イエス様が、教えてくださった旧約聖書の要約、重要な律法。それは二つにまとめられていました。マルコ福音書12:29。

 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。

 聞くことでつまずく。聞かないのです。人は神の言葉ではなく、自分の内に響く、自分の言葉を聞くのです。神を愛するのではなく、自分自身を愛し、自分の声に従ってしまう。だから、このような掟を主イエスは教えてくださった。さらに加えて、隣人を自分のように愛しなさいと教えてくださった。自分を愛するように愛しなさい。

 しかし、いまヨハネ福音書において、最後の晩餐のクライマックスでお教えくださるのは、隣人を自分のようにではなくて、イエス様が愛されたように、愛しなさいということでした。イエスさまがこの上なく、究極に愛しぬかれた姿というのは、弟子の足を洗ったお姿です。汚れに触れて、そのところを清め、自らが手ぬぐいを腰につけ、たらいを持ち、腰を低くしてお仕えなさった。

 師匠が弟子に、上の者が下の者に、神が人間に、奴隷のように仕えられる。これこそが愛の究極であるとお見せくださった。キリストの共同体の中ではそれぞれが、隣人に対して行うように。そうすれば、周りの人々は、キリストの共同体が、真のキリストの弟子であると知るようになって、キリストを知るようになる。

 仕えるということの究極は、十字架におかかりになって、ご自分が犠牲となられたということです。ヨハネ福音書13:36以下。

 シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」

 キリストを信じて、従うと思っているだけでは、キリストの道を歩むことはできません。御言葉を聞いただけではキリストについていくことができません。使徒たちの姿を見ていればそれは明らかです。あの教会の礎となる人。教会の鍵を握るペトロでさえ、ただ御言葉を聞いてついてきているという段階では、キリストのように生きることはできませんでした。

 ヨハネによる福音書14章では、聖なる霊について主が語られます。ヨハネ福音書14:15。

 あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。

 自分たちの持ち前の性格やキャラクター、能力。そういったもので掟を守ろうとしても土台無理なのです。私は、何人もの「教会につまずいた」と言って、教会から離れていった、信徒や牧師たちを知っています。主の霊が注がれなければ、私達はいくら「信じる」共同体を形作っているという自負を持っていても人をつまずかせるのです。なにより、自分で自分自身につまずきます。

 主の霊が、望み、主の力によって、主がここにおられるということだけによって歩みはじめなければ、初めの使徒たちだって同じです。ペトロは使徒の筆頭ですが、ついてくることはできないとはっきりとイエスさまに言われてしまいます。しかし、後に、主の霊を受けて、ペンテコステを経験した後の使徒たちは、自らの命をささげる人となります。十字架にかかり、人の足を洗うことができる真のキリスト者へと変わっていきました。

 真理の霊が、聖霊が私達の内にご臨在くださらなければ、私達は人につまずきを与えるだけです。土台、キリストのように生きよと言われても無理です。キリストがわが内に宿ってくださらなければ。しかし、キリストがなされたように、弟子を愛することができるようになる力を、愛を私たちの内に与えてくださると約束してくださっています。だから、このような掟を私たちに残されたのです。

 聖霊を受けましょう。神の心に満たされ浸されること。ここにキリストに向かう道があります。アーメン。