ヨハネによる福音書15:11〜17 「友のために命を捨てる」

石井和典牧師

 

 最後の晩餐で、弟子を主イエスは「この上なく愛し抜かれ」ました。究極的に愛しぬいた、その姿はしもべのすがた。奴隷の姿でした。たらいを持って、手ぬぐいで、師であられるイエス様が、弟子の足を洗い始められました。全く別の方向を向いて裏切ってしまうユダを筆頭に、裏切りから裏切りの歩みをしてしまう不完全で弱い弟子たちでした。にもかかわらず、裏切るとわかった上で足を洗い続ける姿。そこに愛がありました。

 弟子たちがこのように奴隷の姿をとって互いに仕え合うことを主は、弟子の共同体である教会にお求めになられました。ヨハネ福音書13:34〜35。

 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。

 自分を愛するように、人を愛するということだけでなく、イエス様がおっしゃられたのは、イエス様が弟子を愛されたように、互いに愛し合いなさいということでした。それは、裏切られることも顧みることなく、それが分かっていても、低くひざまずいて相手の一番汚い部分にふれてそれを洗い流しなさいということです。それは、母親が自分の子どものおむつを交換したりおしりを拭いたりするような愛がそこになければ到底できることではありません。これが、教会に対する主イエスの御命令です。

 本日読んでいます所にも繰り返し御命令なされたさまが記されています。ヨハネ福音書15:12〜13。

 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

 更に進んで、「命を捨てる」ということまで入っているということがわかります。イエスさまがおっしゃる「愛する」ということは、奴隷となり仕えるということ以上です。十字架におかかりになられて、「自分の命を捧げて」相手を愛するということまでも含んでいます。教会に対して、主イエスが願っている基準というものは、非常に高い。究極的に高い。主イエスの愛そのものを宿すようにと言われているのがわかります。この愛を実行するためには、この直前に記されているように、「喜び」がなければなりません。ヨハネ福音書15:11。

 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。

 喜びが内側にあるように。それがなければ愛することはできない。喜びを得るためには、どうするのか。それは主イエスといつでも、どんなときでもつながり続けるということをもって達成されます。それが「イエスはまことのぶどうの木」という本日の聖書箇所のすこし前のところに記されていることです。ヨハネ福音書15:4〜5。

 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる。

 イエスさまにつながって、イエスさまの言葉が「常に」内側になるのならば、言葉どおり「常に」です。一週間に日曜日の1時間だけではありません。「常に」御言葉が内側にあるのならば、望むものはなんでも願いなさい。それは必ずかなえられる。主イエスのお約束の言葉です。祈りが叶えられることによって神の栄光が表される。喜びが満ち溢れて、友のために命を捨てても惜しくないほどに、喜びが内側に満ちてくるのだと教えてくださいました。祈りがなければ喜びが満ち溢れてくることは無いことがわかります。イエス様につながって、イエス様の言葉が満ちて来て、祈りの中で命の水が内側にみちみちてきて、祈りが聞かれ、満たされるべきものでつぎつぎに満たされていくので、自分の命さえも人に与えることができるというほどまでに、その人の内側に力とエネルギーと愛が満ちてくる。

 滅私奉公して、内側はからっからに干上がって、義を実現するために、命の最後の灯火を振り絞って、というような命のささげかたではありません。豊かで満ち満ちてです。それは肉的な外面の富ではありません。内側にあふれでる霊的な命です。心の内側から溢れ出る豊かさです。

 十字架上のイエスさまをご想像いただければ、その命の豊かさがわかります。肉的には非常に惨めな干上がるほどの貧しさを呈しておられました。十字架上で丸裸にされて、皮膚は引き裂かれ、血だらけで、肉が見えているというひどい状況でした。命の限界が、死が目の前にありました。しかし、こころの内側は、霊は、目の前の兵士や群衆に対する愛にあふれておられました。ルカ福音書23:34。

 そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

 主イエスを呪う、敵のような相手を目の前にして、赦しのために祈っています。これこそが神の国であり、霊的な命、豊かさそのものです。使徒言行録でも、ステファノの殉教シーンで、命が見えてきます。使徒言行録7:54以下。

 人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石をなげつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。

 イエスさまがステファノを御覧くださっている。その姿が見えるのです。命の世界が、霊の世界が見えます。暴力のただなかにあって、なおその場所を神の支配の場。神の国とすることができる。それが真のキリスト者に与えられる聖霊の力であり、豊かさであり、命の水です。ステファノがすごいのでは全くありません。ステファノは私達と何も変わらない人間です。その内側に溢れている主の命が恐ろしく力強いのです。内側に命の水が溢れながれていますと、その枝が実らせるみのりは、2千年をも飛び越えて、後の世代の信仰者たちの心に火をつける働きまでしてしまいます。

 教会に足を踏み入れて、聖書と出会い、ステファノの記事を読んだときに、心が燃える経験をさせていただきました。しかし、それからキリスト者として歩んでいきますと、いつしか自分自身の限界や弱さ、教会共同体の弱さなどにふれて、諦めが心を支配するようになってしまいました。こんなきよいキリスト者は本当にいるのかと思うようになってしまった。人間に期待していては、そのような思いにかられるのは当然かもしれません。ステファノのように悪意の炎をすべて打ち消すようにして、善だけをもとめて、自分の命を捧げてしまうことができる人間などほとんどいません。

 しかし聖書には、はっきりと「聖霊に満たされ」と書いてあります。

 聖霊は、信じるものに与えられる神からの賜物です。主イエスがこのようにおっしゃられました。ルカ福音書11:13。

 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。

 その聖霊をステファノは受けていただけです。ステファノ自身のキャラクターというよりも、内側に通っている命が問題なのです。水がなければ実をならせることはできません。水が通っているかどうかが問題なのです。ステファノにはキリストの命が通っていました。

 ぶどうの木である命の源、キリストに繋がり、喜びがこみ上げて来て、霊の実りがそこに与えられて、驚くほどに豊かである。そのような状態にさせていただいたときに、キリストが愛されたように隣人を愛することができる。

 

 ヨハネ福音書15:14。

 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。

 父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。

 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。

 選び、天の父から聞いた知るべきことをすべて教えてくださり、友のために命を捨てることができるほどまでにその内側に愛が溢れてくる。

 聖書という書物は恐ろしい書物です。神の友となる道が記されている。今までとは全く別人のようになる道です。この言葉一つ一つを味わい、反芻し、この言葉のみによって生きるのならば、今までとは全く違う、天の父に従う道に導かれるのです。

 今までは、肉の欲求に従って歩んできました。自分自身の腹を神として、自分を満足させるために歩んできました。しかし、もうこれからは違うのです。全地を作られた主のご意思に従って、主の心を実現することを求め、主の働きのために出ていき、主に友と呼ばれ、主が選ばれたところ、いつも使命が伴いますが、使命の中を生かされ、行って実を結び、その実が残り続けるように、主が道を整えてくださっているのです。それは今までとは全く違う道です。

 聖書に記されているこの新しい道を見出した人は、他のすべてのものを脇にどけてこのことに集中します。イエスさまはこのようにおっしゃられました。マタイ福音書13:44。

 天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。

 十字架にかかられた主イエスの心がわが内にあり、故に、我は世のために命をささぐる愛に燃やされている。キリストはキリスト者がそこまで成長するビジョンをもっておられました。だから、友と呼ばれるのです。そうでなければ、友とは呼ばれないでしょう。友として歩むため、聖霊を求めて、自分の力ではなく、ひたすらに主の霊を受けることを求め、神の力に頼り歩みたいと思います。アーメン。