ヨハネによる福音書18:12〜27

石井和典牧師

 神の御子であるイエス様が逮捕されるということはあってはならないことです。ただしいお方はイエスただお一人であるからです。ただしい人を十字架にかけるということが世の姿でした。教会に来て気付かされたことは、あらゆる意識が転倒していた、逆さまになっていたということです。自分が生きていると思っていましたが、実際は生かされていました。努力によって世界は変えられると思っていましたが、実際は主のご意思の中、時を支配しておられる主の御心が実現していくということを知りました。すべて、自分の目から見える視点で物事を考えておりましたが、神様が聖書を通してどのように世界を見ておられるのかを知りました。自分がスタートで物事を考えることは誤りであり、主なる神スタートで世界は動いていることを知りました。

 すべてが転倒して逆になっているので、もう一度もとにもどす歩みを始めた。それが罪の悔い改めでありました。神に向かっていく的を外して来ましたが、主イエスのお語りになられた言葉。その態度によって何が誤りで何がただしいのかを知りました。

 今日の箇所を読んでいても、皆がただしいと思っていたその人が誤っていることを教えられます。

 イエス様の前に大祭司が現れます。イエス様を尋問するためです。アンナスという人は、大祭司カイアファの妻のお父さんです。本来大祭司は一人のはずです。そしてその職務は終身制です。しかし、当時ユダヤはローマに支配されていました。ローマ帝国は、この大祭司を時々交代させていました。というのも一人の強力な指導者によって、ユダヤが強くなってしまうことを避けたかったからです。ですから、実際に大祭司の職務というのは、本来神が命じられた旧約の律法から離れてものに既になってしまっていました。

 そういった関係で、大祭司は世襲になり、かつて大祭司を経験したアンナスも皆が大祭司として認めていたようです。神殿関係のことは、すべてのこのアンナスの家族に集中して管理されていたようです。

 イエス様は神殿の現状を批判しました。ですから、実際アンナスの家族を大祭司一家を批判したということになるわけです。マルコによる福音書11章にこのように記されています。

 それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。

 人々は神殿に献げ物をするためにやってきました。その時に大祭司がチェックした大祭司印の献げ物しかささげることができなくなっていました。その献げ物は普段の販売価格に利益が上乗せされていて、その利益は間接的に大祭司一家のもとにまで届くことになっていました。さらに、献金をするときに、ローマの貨幣ではなくてユダヤの貨幣を使わなければなりませんでした。その両替に対しても利益がでるように、大祭司が牛耳っていたのです。だからイエス様はおっしゃられました。マルコによる福音書11:17。

 そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。

 そして、この批判を自分に向けられているだと理解した人々は、悔い改めるのではなくて、イエスさまを殺そうと決意しました。マルコ福音書11:18。

 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。

 殺そうと考えているその人々の力の只中に、犠牲のこひつじが投入されてしまった。それが本日の記事の内容です。先週の記事で、イエス様が弟子たちの前に出て盾になるようにして「わたしである」と宣言しつずけられました。先週は触れませんでしたが、これは「わたしはある」という言葉です。わたしはあるという言葉は、モーセに神様がご自身をお示しくださったときの名ですね。それは私こそが存在の根拠であるという意味があります。神様がおられなかった、この世は存在しないからです。

 だから、イエス様はこの逮捕されて、犠牲のこひつじとして屠られようとしているご自身こそが、神そのものであられることをお示しくださっていたということなのです。弟子たちの前に出ていって、あえて逮捕され。殺そうと企む人間たちの前にでていって、そのモノたちによって屠られる。それが犠牲のこひつじ。全人類の救いのために捧げられるなだめの供え物。その供え物は、主ご自身がご準備くださったのでした。この出来事は、あのアブラハムがイサクをささげたという出来事につながっていきます。

 アブラハムは自分の子供をささげました。神さまの御命令に従って。どうして、こんな恐ろしい話が、聖書に記されているのか。創世記22章を読む度に思うことでしょう。自分の独り子を捧げるなどあってはならないと。たしかにあってはならないこと。しかし、主のお望みであるのならば、それをしましょうと歩みだしたアブラハムに主は寄り添うようにして、それをやめさせたのです。

 実はアブラハムが独り子イサクを捧げるということは、天の父なる神が、御子イエスをお捧げするということのモデル、型であったということがわかります。天の父なる神は、やがてくる御子の十字架ということをお思いになられながら、その事が後に起こった時に、これが全能の神の導きによってなされたことであることを、信じるものすべてが理解できるように。そのイスラエルの歴史の始めから、歴史を導き、ご自身の御業を指し示し。そのモデルを示し続けてくださっていたのでした。イエスさまから更に2000年も前の話です。

 天の父は、ご自分も独り子をやがて捧げられるということを分かっておられて、そして、信仰の父であるアブラハムに寄り添って、主の心を示してくださっていたと理解することができます。創世記22:16以下でこのように主はアブラハムにおっしゃられました。

 「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがたわたしの声に聞き従ったからである。」

 主ご自身が、人類のために、ご自身の御子をささげ、その痛みを背負われるお方であるから、このアブラハムが神のために痛みを背負う覚悟をした時に、その痛みに寄り添いつつ、神がアブラハムを祝福されたのです。2000年前に、2000年後のご自分のことを思いながら、行動されるのが主です。主イエスは私たちにとっては2019年ほど前にこの地上を歩まれたお方。この御方の言葉と行動を拝見させていただければ、これからも同じ主が、共におられて同じように行動してくださるということを信じることができます。現代から2000年後はどうなるのかわかりませんが、主はそのことをも視野にいれつつ、私達を通してご自身の御業をなされるお方でもあるということです。

 御心は貫徹されます。アブラハムの記事を残していったものは、それが天の父と独り子イエスを指し示すなどと思わずに、これを残していったことでしょう。しかし、そこに流れているご自身が犠牲を払われるという思いは決して変わることはないのです。だから、実現していく。主が願われていることであれば、実現し、主はその主の思いに寄り添うものを喜び祝福してくださるのです。

 

 弟子の筆頭であるペトロが裏切るということもご計画の内にありました。それを既にヨハネ福音書13:38で読んでおりました。

 「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

 ペトロが裏切るであろうこと。その最低な自分を主の前で認めて、それを民に述べ伝え、主の憐れみを語る事ができることを、それらペトロの全ては主はご存知で、ご計画をなされて。ペトロの失敗を通して、教会に偉大なる信仰の資産が受け継がれていくことを主は見ておられるのです。

 自分の失敗を認め、それを回心のチャンスとして、生まれ変わることができる。この勇気を主はペトロにお授けになる。聖霊に力によって恐ろしいほどの飛躍を使徒たちは遂げることになるのです。

 自己正当化の行動を一切とらなくてよくなる恵み。

 これまでの自分というのは、どうでしょう人によって差はあるのかもしれませんが。自分の良きところを見せ、自分がただしいということを見せ。人よりも多少はましであることを見せ、満足し、胸をなでおろす。そんな人生であったかもしれない。

 しかし、主イエスははっきりとそのような者たちにたいして「偽善者よ」と語りかけ。偽善者よというのはヒュポクリテースというギリシャ語で「役者よ」というような言葉です。本来の自分とは違うものを必死で演じて、自己正当化しようとしている。そういうことですね。

 しかし、主イエスの御もとに来ますと。十字架のもとに来ますと。もう既に主イエスは十字架におかかりになってくださっていて。犠牲が捧げられて。命が捧げつくされて、私達の存在の根底から、主の赦しが注がれ、神にすべてを受け入れていただいているということを知るのです。十字架の血潮によって真っ白くされている。もう、自分のただしさを立てることによって、自分のただしさを人に証明する必要は全くなくなりました。もう、キリストの血の功績に頼り切って、そこにだけただしさがあると信じてきって、自分の不義にふれることができるようになりました。

 もう、ただしいものであるかのように演じて、それで自分の義を守る必要などなくなったのです。ペトロが自分の裏切りを勇気をもって語ったように、自分のダメさ加減を主のみ光のもとで大胆に語ることさえできる。なぜなら、もう自分のただしさは、主イエスのもとにだけあるということを知っているからです。

 

 大祭司たちに尋問を主イエスは受けます。しかし、もう既に彼らに必要なことは語られていました。「祈りの宮を自分の利得のために汚した」ことを主イエスははっきりと言っておられました。しかし、彼らはそのことを聞きません。非を悟らせるために主イエスが、神が語っても聞かないのです。

 御言葉は聞こうとすれば、そこら中に回心のチャンスが溢れていることに気づきます。毎日が、主からの諭しを受け取る時となります。しかし、聞かなかったらどうなるか。同じところでつまずきつずけ、ペトロのようにつまずきから救われて、自分の非を語ることさえできるようになった人は非常に大きな主の道につながっていきますが。そこでも人を責めるような言葉に溺れるものは、そのまま落ちていくのです。

 神の語りかけは実は、ずっとあります。そのことに後から気付かされます。ペトロは確かにそれを自分への語りとして、イエスの言葉を受け止めました。だから、自分にとってマイナスな情報をも流して、主の御力を証することがゆるされました。

 

 大祭司のように自らの非を認めず、キリストを責めつづけるのでしょうか。それとも、ペトロのように自分の恥ずかしさをキリストの栄光の姿とともに語り伝えるのでしょうか。

 自分の胸を貼るのではなく、主イエスにひざまずきたいと思います。アーメン。