ヨハネによる福音書 18:28〜38 「神の国」

石井和典牧師

 主イエスがお話になられた言葉はすべて実現します。そうでなければ、メシアでもなければ、神の御子でもありません。ですから、必ず実現します。実際にこれまでもそうであったし、これからもそうです。イエス様が十字架におかかりになられるということも、ご自身の御言葉の実現です。ヨハネ福音書18:32。

 それは、ご自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。

 イエス様はすでに、ご自分が「どのような死を遂げる」かをお語りくださっていました。その箇所はヨハネ福音書3:14、15。

 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子もあげられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

 ですから、これらはすべて神様があらかじめご計画くださっていた贖罪のわざなのです。その神のご計画どおりにものごとが進んでいく様が、十字架へ向かう主イエスが歩まれた道です。人の子があげられるためには、十字架刑でなければなりません。ユダヤの処刑方法である石打の刑ではいけません。ということは、ユダヤ人の手によってとらえられて、ローマの手に渡されるというその道筋までも、主イエスはよく分かっておられたということです。

 十字架の道のりというのは、非常に厳しい道程でありますので、真っ暗な闇の中を歩んでいるように見えます。確かに、人間の悪意が渦巻いています。罪人の姿が描かれています。しかし、主イエスお一人は、確信に満ちて主の道を歩み、落ち着いて主のご愛を弟子たちに変わらずお見せくださっています。何があっても、この世が終わるようなことがあっても、一切ブレることの無い神の心と御業があり続けることがわかります。これは、十字架の時も、今も、昔も、終わりの時にいたるまで変わりません。主はおかわりにならないからです。この主のお心にふれて、この主のお心にだけ頼って、この方によりそって、そのこころをいただきたいと思います。

 捕らえられる時も、ゲッセマネの園で、弟子の盾となりご自身が前にでられました。その確信に満ちた様によって、捕まえにきて武装してきた兵隊たちが、丸腰のイエス様に恐れをなして倒れたのです。弟子たちは必死の抵抗を兵隊たちに見せましたが、イエス様はこのように言われました。ヨハネ福音書18:11。

 イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は飲むべきではないか。」

 この捕縛も、十字架も、主がお与えになられた杯であることを主イエスは確信しておられたのです。すべてが主のご計画の中にあることです。このご計画の中で、主イエスは弟子たちをお見捨てになられません。計画は全くぶれませんが、弟子たちの心はぶれていました。ペトロは知らないと言ってしまいます。イエス様はペトロのことをご自分から知らないなどとは決しておっしゃられないでしょう。しかし、ペトロは状況によって変化してしまうのです。自分の命が危なくなったら、それで自分の言葉を変えてしまいます。それでも、神のご計画は変わらず遂行されていきます。こんな人間たちのために、独り子の命をささげるなどあってはならない。だから、やめた!などということには決してならない。恐ろしいほど堅い神の人間に対する救いの意思がここにあります。恐ろしいほど堅いというか、絶対になにがあっても変わることはありません。御子をささげてしまうのですから。

 だから、こそ安心して常に、どんな時も変わらず主のみもとに来ることができます。私たちは揺れて、ぶれて、肉に起こるすべてのことでもうヘロヘロと言いますか、大変な疲れを覚えている。信仰に生きたいと願いながらも、肉の限界の中、罪によってまたブレにぶれている。しかし、その姿をペトロのように神の前にさらしながら、主の全く変わらない思いの中に入ってきて、その思いによって癒やされて力をいただいたら良いのです。力がないからこそ、この全く揺れない主の思いのところに来なければならない。人々の救いのために、すべてをささげられる主イエスのお心は一ミリたりとて変わらないのです。

 イエス様が捕らえられて、イエス様が祭司長たち、アンナスとカイアファのところで圧迫面接をうけて、追い詰められているかのように見えますが、実際は違います。神の裁きのことばが宣言されているのです。もうすでに、神殿がどれだけ汚れたものになっているのか、神殿で主イエスはこのように言っておられました。それを思い出すようにと逆に迫っていたのです。マタイ福音書21:13。

 『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。』

 祭司長たち、アンナスとカイアファの家族にとって利益が出るような場所となっていた。それを主イエスが、純粋に祈りの家と呼ばれるべきだと指摘したわけです。図星をつかれた祭司長一族は、イエス様を殺すことを決断したのです。だから、イエス様はこのように祭司長たちに言われました。イエス様は捕らえられてお縄をかけられている状態でした。ヨハネ福音書18:20。

 「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」

 神殿で、暴れまわって、そこら中の商売をしている屋台を倒して歩かれたイエス様。この神殿は祈りの宮と呼ばれるべきだと。これは自分のことを言われていると感づいた商売をしていた祭司長たちは悔い改めるチャンスを主からいただいていました。しかし、彼らは一切主イエスの言葉に耳を傾けませんでした。

 しかし、これらの一連の流れも、すべて主のご計画の内でありました。なぜなら、彼らがローマの総督のもとに連れて来るから、石打になるのではなくて、十字架刑に処せられるのですが、このユダヤの主だった人々がローマのところに来るといことまで、主イエスにははっきりと見えていたから、ご自身が十字架におかかりになられることも分かっていて。ヨハネ福音書3:14で、すでに。

 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子もあげられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

 とおっしゃられていたわけです。

 実際にローマ総督のところに彼らが来た時に、ユダヤの人々が言った罪状というのは、あまりにもおかしな内容であることがわかります。29節。

 そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」というと、

 法廷に物事を訴える時、大事なのが、罪状です。これが提出されないと裁判も何もはじまりません。その上で、証拠がなければなりません。しかし、ユダヤ人の指導者たちは、その罪状さえも、適当に「悪いことをした」としか、言うことができませんでした。こんな裁きはじめから成り立たないのです。罪状がなければ、その罪状を立証する証拠もなにも無いでしょう。ただ怒りや感情にまかせて、私は不快におもったではなにも話が通らないのです。しかし、それを通そうとするなど狂気の沙汰です。しかし、この狂気の沙汰が通ると思い込んでいるユダヤ人の指導者たちの愚かさにもかかわらず、そのまま受け入れられていってしまいます。ここにも、人智を超えた神のわざ。というよりも、神がこの話をすべて導いておられるから、このような本来ならありえないことでさえ通ってしまうということです。

 主の心であれば、起こりそうもないことが起こる。論理を超えてしまっていることが起こる。主のみ心が成就するのです。

 ピラトに対する主イエスの言葉。この言葉は非常に含蓄のこもったもの。私たちと主イエスとの対話。御言葉と私たちとの対話。神と私たちの対話。そういったものを映し出すものです。

 ピラトは非常に重要で的確で、まさに人が聞くべき問いを主イエスにぶつけます。18:33。

 「お前がユダヤ人の王なのか」

 ユダヤ人の王はだれなのか、まことの王はだれなのか。この問い自体は非常に重要であり、信仰にかかわる問題であり、物事の芯をつく問いです。ピラトのこれからにもかかわるし、裁判をどうするのかということも、これからの未来にもかかわることです。その問いを彼は発することができました。その問いに対して主イエスはこのようにお応えくださっています。

 ヨハネ福音書18:34。

 「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」

 主イエスが王であるということ、ユダヤ人の王であること。これは自分で聞いて受け止めて、信じて、そう言っているのか、それとも誰かがそのように言っていたと言っているだけなのか。自分の心で受け止めて信じたのか、それとも、そうではないのか。そう聞いているわけですね。裁かれる側である主イエスが、信仰の問いをピラトに発して、ピラトが自分でメシアと向き合うことができるように問いかけているのです。

 主イエスは、ピラトの問いに重要な真理をもってお応えになられました。これは実際は信仰問答ですね。このように応えられました。ヨハネ福音書18:36。

 「私の国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」

 この世の支配権ではない、神の国の支配を宣べ伝えるために主イエスは来られたのです。この中心の中心、永遠の命にかかわること、これらの信仰において芯の芯をつくような応えを、主イエスはピラトにきかせてくださったのです。

 ピラトは「それではやはり王なのか」とまた問います。すると、さらに主イエスは真理の御言葉をこのピラトに開示してくださいました。

 「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」

 わたしが王だとは、あなたが言っていることです。とはまことに意味深なことばです。様々に理解できます。ピラトは主イエスが真の王であると、人々の証言を聞いて、またイエス様御本人を前にして、信じ始めていたから、王であるとピラト自身が思っているということに目覚めさせる言葉なのか、それとも、この世の王であるかどうかは、主イエスにとってはどちらでも良いことであるということを言いたいのか。はっきりとはわかりません。

 しかし、真剣に主イエスと向き合うピラトに、主イエスは、真理の言葉をもってのぞんでくださっています。

 真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。

 と、真理というのは神と、主イエス御本人です。この神に属するものは、主イエスの声を聞くというのです。神様の国に属しておられる方がこられて、また、この方に属するものが明らかにされて、それは主イエスの言葉に耳を傾けるものですが、そのものたちは、実はもうすでに神の国に属するものであることが証しされている。

 それは主イエスの言葉に耳を傾けるということをもって示される。

 主イエスの言葉を信じ自分への語りとして聞いて、受け止める、すると他者に御言葉を語りだすと、その語りだされた相手も御言葉を聞く人なので、喜びが生まれ共有される。そこで天が味あわれます。

 主イエスが捕らえられ、尋問を受ける、しかもローマの総督によってという非常に暗い話の中で、実は主イエスはそれを神の御心と受け止めながらも、ピラトと信仰の対話をしつつ、ピラトが立ち返るように、御言葉をくださっていた。という驚くべき主のご愛を知ります。