ヨハネによる福音書19:1―16 「十字架への道」

石井和典牧師

 イエス様によって、全能の父なる神の栄光、力、権威が示されていました。弟子たちはそれを味わいました。神が私に触れてくださる。この小さな存在に目をとめてくださって、足を洗ってくださり、ご自身の命を注いでくださる。その驚くべき恵みを体験していました。しかし、世はイエスさまを逆に罪人と判断しました。裁かれる側の人間が裁き主である主イエスを判断したのです。裁いたのです。

 イエスさまこそ、神様を十全にあらわし、その行動、言葉をもって神を讃美しておられたのに、世はイエスさまが罪を犯していると断定しました。だから十字架につけろ、十字架につけろと人々は叫ぶことができたのです。

 レビ記24:15以下を根拠に、人間が主イエスが死罪だと言いました。

 神を冒涜する者はだれでも、その罪を負う。主の御名を呪う者は死罪に処せられる。共同体全体が彼を石で打ち殺す。

 この御言葉が適用されて、有罪と判断されました。しかし、一番有罪という判決から遠いお方がイエスさまであられるのに、彼らはこれをイエスさまに適用したのです。考えられないような転倒が起こっている。それが私たち人類に起こっていた、また「いる」ことです。最もただしいお方が、罪に定められる。それはあってはならないことでありましたが、不思議なことに、この出来事を通して、私たちの救いは達成されました。神の怒りを鎮めるためのなだめの供え物としてイエス様がささげられていきました。

 これは人間の悪意によるものからスタートしているかに見えました。祭司長、律法学者たちが結託してイエスさまを十字架にかけて、なんとも恐ろしい、おぞましいことが行われた。しかし、そんな凄惨な場面こそが、主の栄光を現す現場となりました。

 神に対して真実に生きようとすればするほど、世はぶつかってきます。それは今も昔も変わらない。現在のこの世があるかぎり、人の罪がある限り、そうです。主イエスを十字架にかける世です。聖書を聞いて、それを受け止め、聖書に従おうとすればするほど、それが純真な思いであればあるほど、対立してくるものが出てきます。しかし、その時にこそ、キリストの十字架の深さ、恵み、を味わう時であることが、主イエスのお姿からわかります。十字架は主イエスにとられましては痛みの場ですが私たちにとっては最大の恵みの場所となりました。

 この主のお姿から、痛みを通して私たちにあたらしい主の業を行わせてくださると信じることができます。この地上にある限りなにかを生み出すときには、痛みを伴うものです。しかし、その痛みのすべてはキリストが経験なされ、キリストが通られ、痛みを通してキリストにつながるものであることを理解できるのです。

 ピラトはイエスさまを鞭で打つことを命じました。ローマの鉤爪や動物の骨が先にくくりつけられている鞭です。それで一度人の素肌を叩きつければ、皮膚が裂け、肉が見える。そのような恐ろしい鞭です。恐ろしい暴力の犠牲となられたお方。それが私たちの御子イエス・キリストです。

 しかし、それは主の御言葉が実現するためでありました。イザヤ書53:5に次のように記されています。

 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられた/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

主イエスが犠牲の小羊となられ、捧げられ、血が流され、その血によって赦され迎え入れられると、驚くべきことに、偉大なる変化がその人に与えられます。神様と和解し、関係が回復し、祈りが回復し、主イエスの御名によって祈ることができるようになりますと、すばらしいことが起こり始めます。

 私たちに平和が与えられたと記されていますが、この平和という言葉はギリシャ語でエイレネー、旧約聖書の言葉であるヘブライ語で言えば、シャロームです。このシャロームという言葉は、絶対平和主義者たちが言うような平和という概念を超えています。人がつくり出す平和ではなくて、主の平和です。主が与えてくださることすべてがここに含まれている。新旧約聖書で民が受け取ったもの、4000年以上に渡って信じる者たちが受け取ってきたもの。そのすべてがこの言葉に含まれていると言ってしまってもいいぐらいだと思います。それゆえ、現代においてもイスラエルの人々はシャロームが挨拶の言葉「こんにちは」なわけです。

 神との和解、国の間の和解、隣人との和解、個人的な平安、商業的な繁栄、霊的な健康、肉体的な健康、命の充足、霊的な悟り、学問的な開眼、救い、罪と世に対する勝利。こういったこと、すべてが含まれている言葉です。それを、主イエスはご自分が懲らしめを変わりにうけられることで、すべての人がシャロームを受け取ることができるようにしてくださったのです。

 神との和解、祈りの生活。祈りの宮を前にした生活。神殿を前にした、主の臨在の中を生きる生活。いつでも主の御名によって叫び求めることが許された。このことだけで、絶大に大きな一人の人の変化が与えられることを我々は経験しています。命がやどり、復活し、天を見出し、力が注がれてくるのを経験します。

 イエスの御業を感謝して受け止め、イエスの御名によって叫び求めましょう。この呼びかけだけで十分です。与えてくださった恵みの大きさを味わい知りましょう。御子の受けられた傷が私たちのいやしです。御子が知らない痛みはこの世にありません。すべてを御子のもとにもって祈り、御子の名によって、天の父なる神と繋がりましょう。シャローム。

 ピラトは主イエスが無罪であることに気づいていました。マルコによる福音書15:10にこのように記されています。

 祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。

 祭司長たちがイエスさまを殺そうと決意したのは、今読んでいますヨハネ福音書によると、イエス様が現在の神殿のあり方を批判したからでした。しかしなお、その事情を知っているか知らないかわからないピラトも、イエスさまが尊い業を行う方であり、皆が尊敬し従っていこうとしているということを知っていましたので、祭司長たちはイエス様が無罪であるにもかかわらず皆で有罪に仕立て上げようとしているということに気づいていたのです。ヨハネ福音書ではピラトはこのように言っています。ヨハネ福音書19:4。

 ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」

 この時には、もうすでにイエス様の皮膚はローマの鞭によってボロボロにさかれ、茨の冠を兵士たちによって被せられていました。紫の服をまといながら、内側は血だらけでありました。茨の冠、紫の服、内側は真っ赤に血で染まっている。この一つ一つのことにも意味があります。ですから、これらはすべて主なる神様の導きであることがわかります。兵隊たちは、あざけって、ふざけて、ユダヤ人の王と自称しているから、王のような姿ととって前にださせてやろうと考えたのでしょう。しかし、そのすべてが主なる神の導きでした。

 茨の冠ということにも大きな意味があります。茨というのは呪いの象徴です。なぜそう言うことができるのかというと、創世記にこのような記述があるからです。3章です。

 アダムが犯した罪のゆえに、土地が呪われてしまった結果、茨がはえるようになってしまいました。創世記3:17。

 神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。

 この呪いの象徴でできた茨の冠をイエスさまはかぶられたのです。それは罪のもたらす呪いを一身に受ける王として主が選ばれたことを意味します。主イエスが呪いのすべてを受け取ってくださったのです。私たちが受け取るべきものを。だから、私たちはいやされるのです。ということは、キリスト者にとってこの世で受ける苦しみは、もう呪いではない。呪いは完全に主イエスが受け止めてくださったのです。それを確信して良いのです。ならば、わたしたちが受け取っている苦しみは一体何かと言えば、それはヘブライ人への手紙12:5、6に記されています。

 わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。

 鞭打たれるような苦しみを受けていると感じるならば、それらはすべて主の鍛錬です。懲らしめられても、それを通して成長するための道のり。主との関係性が築かれることがないのならば、このように受け入れることは困難でしょう。しかし、キリスト者にとってはあらゆる懲らしめは、主からの懲らしめであって、私たちが変化し、私たちが成長するためのものです。11、12節。

 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。

 試練の中を通られた方々が見出だすのは、義です。義とは主の前でのただしさです。主のただしさでもあります。それは主の前にある時にだけ得られるものです。だから、主とのただしい関係のことを義と言います。主に対して生きることができるようになる。それまではできなかった。旧約の民も罪のゆえに、主の前に行くと死ぬと教えられていました。主の御前に行くことができるということはとりわけ特別なことだったのです。だから、試練の後に主を信じるものたちが経験することは、その苦しみの中で主を見出すということ。主との関係がより深くただしいものとなっていく。すでに与えられているキリストの十字架の血潮のちからをあらたに見出すといことです。

 ピラトがいくらイエス様が無罪だと思っていようが、ユダヤの指導者たちは引き下がりません。神の言葉である律法を引用しつつ、イエス様が処刑されるべきであるという思いから一歩も引きません。そのことにピラトは恐ろしくなってしまいました。ピラトが今この中で、もちろんイエスさまをのぞいて、力ある存在です。ローマ帝国の権威を身におびています。しかし、この祭司長たちの訴えに恐れをなして屈従せざるを得なくなってしまいます。

 ピラトはイエスを釈放しようと努めた。

 と記されています。そして、最終的には決定的に不信仰な言葉によってユダヤの祭司長たちは、イエスさまを十字架へと押し込んでいきます。ヨハネ福音書19:15。

 「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません。」と答えた。そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。

 ローマ皇帝の権威を侮辱するものがイエスであるという論調も、彼らは持ってきた。それゆえ、イエスを敵としなければ、間接的にローマ皇帝をも侮辱することになるという論法でピラトを追い詰めて、イエスさまを十字架へと押し込んでいきます。

 これによって、イエスさまの死が確定しました。と同時に、私たちの救いが確定しました。

 ローマ皇帝の権威を身に帯びたピラトが勝利するのではなくて、呪いの冠をかぶった真の王、神の独り子イエスが、勝利をおさめ、私たちを神のもとに勝ち取ってくださいました。この死によって、私たちが神の国に入ることができるということが確定しました。天の次元を回復しました。天の御国、神の国の福音。天を故郷とするものたちが生まれるようになりました。ピラトも、祭司長も、律法学者もイエスさまの敵とも言うべき一人ひとりが、実は小羊を屠るという主の御業のために必要な道具とされてしまっているのがわかります。この人々の恐れや妬みや、偽りの権威や、ローマ皇帝にひざまずくような心がなければ、イエス様が十字架にかけられるということはなかった。だから、すべて、負の要素というものも、主イエスは用いられるのだということがわかります。負の要素さえ用いられて、それらが主の業につながる。全能なる神の業となる。そのように受け止めていけばいくほどに、主イエスの御名に頼るものは敗北することはないことを悟ります。主の導きの中、負けたと思った瞬間に勝つ。それがキリスト者の歩みです。

 茨の冠を被せられても、それが勝利であった。呪いの象徴をかぶってもそれが勝利であった。勝ったように見えても、負けたように見えても、主の勝利がある。アーメン。