「イエスの死」 ヨハネによる福音書 19:28〜42

石井和典牧師

イエス様は十字架の上で私たちが負うべき「神の怒り」をその身にお引き受けになられました。私たちは神を怒らせ、神に背き、神を無視して歩んできました。この世界の中心は神です。だから、主を中心にしてこなかったものたちの罪は、つもり重なって数えられないほどたくさ積み上げられてしまっている。その刑罰を受けなければならない。

 私たちはどのような裁きを受けなければならないのか。想像もできないような重い裁きでありましょう。キリストが十字架につかなければならなかったように。

 目が開かれる、霊が復活する。神のもとでの命が復活する。これが私たちに与えられていることです。

 それは自分自身がいかに神に背いているのかというその視座をえるところからはじまります。目が開かれていないと、自分が神に背いているなどとつゆとも思わないものです。自分が罪人?そんなことあるはずがないじゃないか。そう言いたくなるのです。

 しかし、目が開かれて、神が見えていますと、どう考えても神を無視して歩んできたこと、また今も、自分の思いに溺れて神を見失うことが多々あることを認めざるを得ないのです。そこから回心がはじまります。

 今日も十字架の記事を読むことによって、心をあらためていきたいと思います。

 今日は特に十字架に注目して、十字架の上で主が発せられた言葉に集中します。ヨハネ福音書で主イエスが十字架上で発せられた言葉は2つ記されています。一つは「渇く」です。もう一つは「成し遂げられた」です。この2つの言葉に注目してお話を進めていきます。

 「渇く」ですが。なぜ「渇く」と言われたのか。それは、大量の出血と十字架刑による激痛によるものであると言えます。しかし、これは身体的な要因によるものだけではありません。主イエスは、主から頂いた使命の中に立っておられました。だから、この「渇き」は主のご使命に由来するものでもあります。その使命とはなにか、それは地獄の刑罰をその身に負われるという使命です。滅びるものが背負うものです。滅びの痛みというのは「渇き」へと至ります。ルカによる福音書16:24を読みますと、地獄に落ちた金持ちが燃える炎の中で苦しみ、渇きをいやされたいと願っています。このように言います。

 『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』

 神の裁きを受け、地獄で経験する苦しみ。それは「渇き」です。地獄から天にいるアブラハム、そして貧しきものであったけれども天にあげられたラザロを呼んでいる、そんな場面です。地獄は炎にやかれ渇きつつける場所のようです。

 主イエスはこの「渇き」のすべてを十字架において背負われたのです。それは私たちが神の怒りから解放されるためです。神の御子が身代わりになられて、私たちへの神の怒りをお引き受けになられた、地獄を背負われたのです。だから、「渇く」とおっしゃられたのです。茨の冠をかぶせられ、茨は呪いを象徴しますが、呪いのすべてを背負われて「渇く」とおっしゃられました。

 神様の聖なるお姿の前で、罪なしといえるものはいません。罪人です。しかし、キリストは私たちが背負うべきものをすべてご自分の身に負われようと決意され、実行され、メシアとしてご自身の使命を果たされたのです。

 この御方のところにどうしてもおりたい。この御方だけは私をお守りくださる。この御方だけが、私を救い出す力をお持ちです。この御方だけがこれから私たちの行くべき道を指し示すことがおできになる。この御方だけが私たちがどのような使命を担う必要があるのかをご存知です。

 私たちの代わりにすべてを背負う覚悟でおられつづけるこの御方の所にとにかく逃げるようにして来ればよろしいのです。この御方の心をこの心に目一杯受けて、そこから命を頂いて歩みだすのです。主イエスはこのようにおっしゃられました。これは主イエスの言葉ですから、約束の言葉です。ヨハネ福音書7:37〜39。

 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人のうちから生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。

 イエスさまのところに行って、命の水を飲めば良いと言われています。すると地獄の渇きが癒やされます。では、どこに行けばよいのか。それはマタイによる福音書18:19〜20に記されています。

 また、はっきり言っておくが、どんな願いごとであれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。

 イエスの名によって集まるところ。それはイエスの名によって祈る共同体のことです。今このところです。キリストを信じるものが何人いればいいのですか?1000人ですか、10000人ですか。二人か三人です。それで良いのです。そこにイエスさまがおられます。私たちはただイエス様のお名前のゆえにあつまっています。それ以外ではありません。はじめは様々な動機で教会に集まるものです。しかし、教会があつまるのは、主イエスの御名をあがめるためです。主イエスのもとにあつまり、主イエスがそこにご臨在くださると信じる信仰のゆえです。主にひざまずき、主に従う。ここで私たちは渇きを癒やす聖霊を受けたらよろしいのです。ここで命の水を受けて、心に霊にいのちの水が満ちて、満たされてからこの世に出ていかなければなりません。

 主イエスの名によって祈るこの祈りの中で満たされる以外に、私たちの満たしはありえません。

 渇くという言葉は、聖書の言葉が実現するためであったと記されています。ヨハネ福音書19:28。

 この後イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして聖書の言葉が実現した。

 この聖書の実現というのは、詩篇22篇15〜15、69篇22節のことをさしています。両方とも、王の中の王、ダビデの歌です。

 わたしは水となって注ぎだされ/骨はことごとくはずれ/心は胸の中で蝋のように溶ける。/口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎にはり付く。/あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。

 人はわたしに苦いものをたべさせようとし/渇くわたしに酢を飲ませようとします。

 両方の詩とも、最後には主の救いの希望が語られています。詩篇22篇28節。

 地の果てまですべての人が主を認め、御もとに立ち帰り/国々の民が御前にひれ伏しますように。王権は主にあり、主は国々を治められます。命に溢れてこの地の者はことごとく主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身をかがめます。

 詩篇69篇35〜37節。

 天よ地よ、主を賛美せよ/海も、その中にうごめくものもすべて/神は必ずシオンを救い/ユダの町々を再建してくださる。彼らはその地に住み、その地を継ぐ。主の僕らの子孫はそこを嗣業とし/御名を愛する人々はその地に住み着く。

 全世界に出ていく福音のしらべ、そして神殿のあるシオンを回復してくださるという約束。これは実際に歴史を通して実現されていくことでもあり、主はキリスト者を全世界にお立てになることをもって、神殿であるそれぞれの祈りを回復してくださっています。十字架のイエスさまの言葉から、全世界への福音が広まり、神の御心が実現していくのだということを知ります。詩篇であらかじめ祈られていたことが、主イエスの十字架によって実現していきます。

 十字架上の主イエスの言葉、もう一つは「成し遂げられた」です。この言葉はギリシャ語でテテレスタイという言葉で。これは、負っていた負債がすべて完済されたという意味です。神に対する負債です。旧約聖書でイスラエルの民は、動物の犠牲を捧げて贖いとしていましたが、あの献げ物は完璧ではありません。

 罪の完全なる許しを与えるものではありませんでした。額が小さすぎるのです。手付金にすぎません。だから、何度も何度もささげ続ける必要がありました。

 しかし、主イエスがご自分の命をお捧げされた時、十分な支払いがなされて、負債が完済され、帳消しにされて、完了しました。だから「成し遂げられた」テテレスタイ。完済した!なのです。

 

主は息を引き取られました。息を引き取るというのは極めて日本語的な表現ですが。これは原文に忠実に訳すと、「霊をお渡しになった」の方がもとの意味をしっかり反映させています。この表現は、復活の主がなさったことにつながっていく表現です。どこにつながっていくのかと言いますとヨハネ福音書20:22です。復活の主と弟子たちとが出会っているところです。イエス様は御自分の息を弟子たちに吹きかけられました。息というのは霊です。

 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 主イエスは十字架の上で息を天の父にお渡しになられて、また、キリスト者は後に主イエスから息を受けて生きるものとなるのです。神の霊は息です。それを受けることを止めてはなりません。息をしつづけなければ、命が保たれないのと同じように、霊を受け続けなければ信仰の命を保ちつづけることはできません。

 聖霊を受けても、求め続けないと息をしていることになりません。息を一度いただいても、息を求めず、聖霊の力がやどっていないものがいる。それが現実の我々です。神の息吹を目いっぱいに吸い込んで、吸い込み続けなければ、永遠の世界を内に宿して生きることはできません。息をするイメージと信仰とはつながっています。

 私たちが経験するすべてのことは、神と結びつくためのもの、信仰をうつしているものと捉えると、この世の謎がどんどん氷解していきます。

 十字架にかけられたイエス様のすねの骨は折られませんでした。左右にかけられた囚人のすねの骨は折られました。十字架にかけられたもののすねをおるのは死ぬのを早めるためです。すねをおると体をささえる力がなくなって呼吸困難に陥り、死にます。

 イエス様のすねの骨は折られませんでした。というのも主イエスの死には特別な意味があるからです。出エジプト記12:46を見るとそれがわかります。律法の中には、過越の小羊の骨は折ってはならないという規定があり、主イエスが過越の小羊として屠られただということを神様が示されるために、このように左右の犯罪者の骨は折られましたが、主イエス骨は折られなかったのです。過越の小羊の骨はおってはならないからです。このような状況すべてに神様からのメッセージが込められているのがわかります。

 アリマタヤのヨセフと、ニコデモがイエスさまの御遺体を引き取りにやってきます。彼らはユダヤ教最高法院の議員でした。ですから、もしもイエスに与したことが周りに知れ渡ったら大変なことになります。

 彼らは、それまで自分が主イエスを信じるものであるといことを隠していました。しかし、主イエスの御業が完了し、主イエスが真の王として全世界に受け入れられていくその時、彼らは恐れを乗り越えて、主イエスを自分の墓に迎え入れるという驚くべきことを行います。アリマタヤのヨセフの墓地に葬られました。こんなことをしてしまってはユダヤ教最高法院の議員であるアリマタヤのヨセフはどうなるのか。彼のみならず、親族もみなこれからどんな目に合うのかわからない。

 しかし、彼らは、自分を守ることよりも、主を愛することを選び取ったのです。

 彼らの人生は全く変化してしまいました。

 「渇く」と言われて、地獄を背負われたイエス。「成し遂げられた」と言われ、負債がすべて返済されたと宣言されたイエス。この十字架のイエスにどんな態度をとるのか。その選択ですべてが決まります。

 天を目指すのか、天の命が流れ込むのか、主が息を弟子たちに吹きかけたその息吹を命を受け取るものとなるのか。どうぞ天を選び取ってください。主が差し出してくださるものを受け取りますと言うだけで良いのです。聖霊を受けてください。これまでの罪に埋もれていた人生ではなくて、主に信仰をささげる歩みの中に入ってください。アーメン。