「必ず復活する」 ヨハネによる福音書 20:1〜10

石井和典牧師

主は復活なさいました。主は初穂となってくださいました。その後に続くものたちに実りがつぎつぎと生み出されます。コリントの信徒への手紙 15:20〜21。

しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。

また、主イエスはこのように断言されました。ヨハネ福音書11:25〜26。

わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じるものはだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。

肉は死にます。しかし、主を信じるものは霊が死にません。イエス様がおっしゃられたとり「肉において生きていて、わたしを信じて、霊が復活したものは、霊において死ぬことはない」という意味です。

墓が空になり、御遺体を包んでいた布が、遺体が巻かれていたという形を残しつつ地面に落ちていました。御遺体が口を開いた状態になってしまわないように、開いてしまう顎を閉めておくために必要だった布が、少しはなれたところに置いてありました。

イエスさまの墓は、墓泥棒が入って荒らしたわけではないことが、布が残っているという事実が証明していました。当時の人々にとって亜麻布は高価ものであり、取り残していくはずなどありませんでした。

だから、この墓の内部の光景を見た弟子は、イエスさまがこの布から抜け出て、あぁそのままこれを置いていってしまったんだなと、理解できました。イエス様ご自身が復活されると約束されていたことを思い起こして、信じたのです。

復活が事実であったことは、彼らの証言と、何よりも、彼らの後の行動を通して証しが立てられていることからわかります。信じた人がどのように行動したかが、その信じている内容が真実であるかどうかを証明します。

本日のところに出てきます弟子はペトロとヨハネです。それからマグラダラのマリアです。

ヨハネは、イエスさまのお母様を引き取りました。主イエスの十字架の死の後です。彼の言葉と行動には一貫性があります。そのこころに信仰が宿っていることはもちろんですが、それが単に思い込みの妄想であったというものでは全くないと判断せざるを得ないと思います。ある種の共同幻想的な物語を守り抜くために、イエスさまのお母様の人生を引き受け一生面倒をみるなどということはありえない。嘘なら途中で嫌になると思います。

ヨハネは、唯一使徒の中で殉教しなかった弟子ですが、イエスさまがお命じになられた使命を果たし続けました。イエス様は十字架の上でこのようにヨハネにお命じになられました。血を流し、痛みに耐え、息も絶え絶えで言われたことでしょう。その言葉はひどくヨハネの心の残り続けたに違いありません。

ヨハネ福音書19:26〜27。

イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

死ぬまで彼はこの使命に忠実に生きようとしました。途中、ローマ帝国の力によってパトモス島に島流しにあいましたが、その後も主イエスが再び来られる未来のことについての記述を残しました。ヨハネの黙示録です。

ヨハネの福音書の言葉を残していきながら、イエスさまのお母様の面倒を見て、島流しにあって帰ってきたらまた、ヨハネ黙示録を残し。もう彼の人生のすべてがイエスさまに関することになってしまっているじゃないですか。

しかも、命を賭けて彼はこれに徹したのです。ヨハネ福音書を読みますと、その彼のこころと、天への思いと、天の空気と力とを感じます。この世だけを見ているひとの言葉ではありません。そのスピリットがわが内に流れ込んでくるのを感じます。

ところどころ、イエスの愛しておられた弟子と言って、自分のことをちょこちょこと、はっきりと書かずに遠慮がちに書いているのですが、なんだかそういった彼の控えめだけれども大胆な心がまた愛おしくなってきます。

聖書にかかれていることは、この出来事を通して人生が全く変わってしまった人たちの記録です。回心したものはこの記述がたまらなく愛おしくなるものです。というのも、自分のことが書かれていることがひしひしと伝わってくるからです。

マグダラのマリアは墓の石がどけてあるさまを目の当たりにしてしまいました。墓の石にはローマのシーリングがしてあったはずです。横穴式の墓でしたが、墓の入口に大きな石が転がしてあって、たすき掛けにロープがかけられ蝋でローマの印が押され、その前をローマ兵が守っている。このシーリングを破ったものは、ローマの権威にたてつくことになりますから、厳罰がまっている。死刑に処せられたかもしれない。ローマ兵もこの場所を守ることができなかったら、処刑されてしまう。命がけの任務です。

しかし、その墓には不思議なことにだれもおらず、墓石がどけられていました。普通だったら絶対にありえないことが起こった。これができるのは、神しかおられません。そういった人生におけるだれものけることのできない重しをのけることができる。主の復活のちからによって。

人間にとって絶対に破ることができない壁が死です。しかし、死の壁を破ることができる。ただ、主のお力によって。イエス様はそのように宣言され、天の父は実際に死の象徴である墓の石を破り、ローマのシーリングを破り、主イエスを復活させられました。あらゆる壁を主は打ち破ることがおできになります。

教会が伝えることができる福音は、肉の滅びの只中でも、生き返ることができるということです。肉が今、また次の瞬間滅びても、いま霊において生き返ることができる。霊においてよみがえれば、何があっても死なない。

心に天の風が流れ込むと、どれだけ清々しい毎日を送ることができることか、味わっていただきたいです。肉に疲れを覚えていても、霊が燃えたぎっているという状態がありえる。肉がボロボロでも、今生き返っているという状態がありえます。

聖書を記したヨハネの心は燃えに燃えていたに違いありません。でないと、こんなすぐに信じたがたいような奇跡の出来事をつぎつぎと記す気になどならないはずです。墓が開けられ、遺体が消えていたですって、そんな馬鹿な、ありえない。墓泥棒の仕業かユダヤ当局の陰謀だろう。そんなふうに世間は片付けたでしょう。

しかし、彼らには、神の御手が見えていました。

復活の命が内側にやどっていますと、ものの見え方は全く変わります。神のお働きを見るようになりますので、不平不満が一切消えていきます。なぜなら、主の業だから、文句を言っても仕方がないと思うようになるんですね。そして、特別な意味がすべてのことにあるので、その一つ一つから主のご意向を聞こうとするようになります。祈りの中で、主の御声が聞こえてきて、その意味も分かるようになります。

聖書の記述は、よくもまぁこんなに詳しく記したものだと思わされます。しかし、これを記述した人は、あらゆるところに主のご支配とご計画があることを思っていましたので、詳細に、神が働かれた記述を残していっているのです。

今抱えている重しは、墓穴の石は打ち破ることができます。天の父の御手が見えることによって、神の息が心にながれこむことによって、信じられないような力が内側から湧いてきます。アーメン。祈りましょう。