「見ないで信じる」 ヨハネによる福音書20:24〜29

石井和典牧師

復活の後にイエス様が弟子に現れてくださいました。しかし、彼らは家の扉に鍵をかけて怯えて縮こまっていました。無理もありません。中心である主イエスが処刑されたのですから、自分たちも処刑されるかもしれない。もしくはひどい目にあうのではないかと容易に予測できました。

 しかし、後に変化する弟子たちの姿を見てください。彼らは家に閉じこもっているのではなくて、全世界に出ていって、世界に自分自身を開いていったので、ほとんどすべてのものが殉教してしまいました。

 彼らには、「他者のために命を捨てても構わない」と思えるほどの愛がその内側に流れていました。これこそがキリストの教会です。

 自分の命よりも隣人が福音に触れることができ、生まれ変わることができるように。それは弟子たちの内側にあった弟子たちの人類愛というものではなくて、聖霊によって与えられる神からの愛でありました。

 イエス様を裏切って、捨てて、逃げた弟子たちの共同体に主イエスがお越しくださるはずもなかろうに。そのように思えてしまう現実の只中に主イエスはお越しくださいました。一度のみならずヨハネ福音書には三度、復活のイエス様が現れてくださったことが記されて、さらにヨハネ福音書はその後も記されるわけですが、とにかく神様の数字である3を指し示して、すべての人のところに復活の主イエスが現れてくださるのだということを書き残したのです。

 主は何度も現れてくださいます。しかし、その主のご好意に気づけないのです。主がそこにおられても気がつかない、それが私たちの問題点です。その人間の姿が、復活の主を前にしても、描かれています。

 マグダラのマリアは、主を裏切りはしませんでした。心の底から主を愛しておりました。だから、主が肉の命を断たれて後、葬られ、墓にまで来て主を慕っているのです。しかし、彼女が完璧であったかといえばそうではありません。主がおっしゃられたことを受けとめていませんでした。

 主は十字架におかかりになられる前から、三度もご自分の死と復活とを預言しておられました。マタイも、マルコも、ルカも同じようにイエス様が三度死と復活を予告したと記しています(マタイ20:17〜、マルコ10:32〜、ルカ18:31〜)。しかし、その重要な主イエスの発言、三度も言われたその発言はどこかに吹き飛んでしまっているような状態でありました。三度言われるということにも特別な意味がありました。神様の数字です。完全数に合わせて主は発言されているわけです。しかし、感情の渦の中にのみこまれてしまい、御言葉がどこかに吹き飛んでいってしまっているといいましょうか。そんなマグダラのマリアの状態だったのです。しかし、主はマリアに現れておっしゃられます。ヨハネ20:15。

 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」

 泣かなくて良いことなのに、泣いている。その問題の只中に入り込み、その答えに直撃する言葉を主はくださっています。喜びはすぐここにあるのです。しかし、それに悲しみのあまり気づかない。だから、マリアに分かるように「マリア」という一言で主はマリアを目覚めさせるわけです。

 名前を一言呼ばれて、それですべてにあたりがついて気づき、目が醒める。なんとドラマチックなのでしょうか。しかし、主においては、こういったたったひとことで物事の真実にたどり着くということが起こるのです。だから、感情に揺さぶられて感情に溺れてしまうのではなくて、主の約束の言葉とはなんだろうか。主は、私の近くにおられるのではないか。主は私に分かるようにご自身を示してくださっているのではないか。

 そう思って祈って見ていただきたいと思います。そうすれば、あらゆるものの見え方が変わってきます。すべての時が主との対話の時となります。

 さらに、ヨハネ福音書20:19節以下を見ますと。「家に鍵をかけている弟子」の姿が記されています。彼らはまさに主イエスを置き去りにして、逃げ去ったものたちです。恐れに囚われて自分たちの家の戸に鍵をかけていました。

 人は、主に捕らえられているか、他のなにかに捕らえられているかです。(これは何度も強調して言わなければならない)

 主に捕らえられていなかったら、他の何かに捕らえられているのです。それが分かるのが、「閉じこもっているか」「開けているか」です。というのも、神は全知全能の父なる神だからです。全世界の神です。全宇宙の神です。この御方のご愛にふれれば当然ながら、この御方が愛そうとされている方のところに目がいきます。どんどん視点は他者のためにというところに行きます。しかも、それは何か義務的な義憤に燃えて他者のところにということ以上に、心のうちに喜びが満ち溢れて、天の力に満たされて出ていくという形になる。それが「聖霊に満たされて」ということです。

 部屋に鍵をかけて閉じこもっているわけにはいかなくなります。しかし、心の内側に聖霊が注がれてこないと、恐れに囚われた状態から解き放たれることはありません。恐れから解き放たれると、神様が遣わしてくださっている場所を見出して、そこに出て行くことができるようになります。使命のために命を投ずることができるようになります。自分を守って閉じこもってということではなくて、命に溢れてしまって、愛するために出ていくしかなくなり、出ていったら、命を手渡すために、自分の肉の命さえ与えてしまうような状態になる。これこそ、求めていた命の世界。小さなころから、私の良心はこのような世界を求めてにもとめていました。しかし、いつしかこの眼鏡に現実というモヤがかかり、固定観念というモヤがかかり、生活の保守というモヤがかかり、見えなくなっていましたが、イエス様が、使徒たちの姿がそのモヤを払ってくれます。

 そのためには、この扉に鍵をかけて閉じこもっていた、わたしのこころに主がお入りくださることを受け入れる必要があります。とりわけ、恐れやその他の何かによって心の扉に鍵をかけていたことを認めて、そこを明け渡すことです。主は、その中に入ってきてくださいます。不思議な方法をもって。

 人に見せられない最悪にカッコ悪い自分。ここを明け渡すことができたら、そこに主がお入りくださり、実はその忌々しい自分の嫌な部分こそが、そこから救われて恵みを味わう場所になっていることを発見します。

 教会が持っている力って私は恐ろしいものがあると思います。忌々しい心や現実や、どうしても払い除けたい闇や苦しみ。そういったところにダイレクトにアプローチすることができて、むしろ、そういったところに主がお越しくださるのだと信じることができ、祈り、実際に立ち上がる人を見ることができる。それがイエスの御名による祈りがある共同体ですね。まことの教会です。ですから、どうぞ、問題を抱えていたら、その問題こそが、主との出会いの場、癒しの場、その癒しで恐ろしく深い主のご愛と、主のちから強さを体験するのだと信じて、「祈ってください」と私のところにお越しくださればと思います。

 トマスのところに主イエスはお越しくださいました。トマスにとって問題だったのは「自我」でした。自分がこう思っているというこだわりですね。主イエスが復活して現れた??しかも弟子たちのところに??こんな裏切り者集団のところに??ありえない。いやもし来られたとしても赦されるはずも無かろうに。

 恐ろしい罪を犯したのだ。そして、結局は、我々が逃げたことも、また主が死なれたことも、救い主の御業のようには見えなかった。結局敗北したのだ。このようには記されてはいないので、トマス自身が何を実際には考えていたのかは、深くはわかりません。ヨハネ福音書20:25。

 「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

 この言葉から察するしかありません。こんな私のところに、復活のイエスが来るはずもなかろうに。人が言ったことじゃ信じない、自分がそれを見なければ信じない。しかし、トマスは、主イエスと出会ってすぐに復活の主を受け入れています。ということは、受け入れたい、信じたい、という思いが背後にはあったのだということが推測することができます。しかし、彼にとってその信じたいという思いを邪魔するものは何だったのかというと「自分はこう思う」という自我だったということなのです。

 聖書の記述をいくら読んでも、人から聞き続けていても、実際体験して、それが骨身にしみてくるまでは決して信じない。そんなことあり得るのか、ありえない。聖書の記述は眉唾ものである。そんなふうに思っている人がたくさんいます。

 しかし、聖書に記されていることは実際に起こり、体験するものです。

 イエス様は確かに、復活の体をもっておられて、その復活がまさに事実だったことを物語るために、家の戸がしまっているにもかかわらず、そこに現れてくださって、十字架が勝利であったことを宣言するため「あなたがたに平和があるように」と、「シャローム」と宣言してくださいました。

 確かに、自分の人生に主が働いてくださることを信じて受け入れて、実際に体験すればよろしいのです。

 しかし、その入口はどこかというと、主イエスがおっしゃられた言葉に要約されます。ヨハネ20:27、29。

 信じない者ではなく、信じる者になりなさい。

 わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。

 

 わたしは信仰がこんなに力強いものだとは知りませんでした。命の終わりのその瞬間にもまっすぐに主がご準備くださった道を見て歩むことができるのです。肉の命がだめになりそうなときにこそ、その力に浴することができます。

 見ないのに信じる人は幸いである。アーメン。