「わたしに従いなさい」 ヨハネによる福音書21:15〜19

石井和典牧師

 ヨハネ福音書というのは不思議な書物です。その結論部分で、二回結びの言葉が記されます。その二つの結びの言葉に触れたいと思います。ヨハネ福音書20:30〜31。

 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

 ここで一度閉じられているのですヨハネ福音書は。このはじめの結びのところで、書物の目的が記されています。この書物の目的は何かと言うと。「イエスを神の子メシアと信じて、イエスの名によって命を受けるため」です。しかし、不思議なことに一度閉じられた書物が再び始められています。

 どうしてなのでしょう。

 このままで終われなかったのですね。

 なぜこのままで終われなかったのかというと、その理由は二回目の結論部分にまとめられています。ヨハネ福音書20:25。

 イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。

 復活の主イエスが現れてくださる。この事実は、あまりにもおびただしく様々なところで起こるので、もう書物に収めきれないということです。出来事の一つ一つを記していくのだけれども、まだまだこれだけではないことを、この結びの言葉は証ししているわけです。

 ヨハネ福音書はとても面白いです。使徒として召されたはずだったペトロが、漁をするためにガリラヤに帰ってしまっています。彼はかつて漁師でありました。イエスさまにこのように言われたのです。マタイ4:19。

 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」

 この言葉に従って、人間をとる漁師として、伝道師として宣教者としての役割を担うはずだった。しかし、故郷に帰ってきて人間をとる漁師ではなくて、魚をとる漁師に戻ってしまっている。それが21章のはじめに記されている内容です。

 弟子たちはイエス様に息を吹きかけていただいていたはずなのです。聖霊を頂いて力を頂いて、新しい歩みをその聖霊の力によってなすことができるはずでした。ヨハネ福音書20:22。

 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。

 ヨハネ福音書のペンテコステ、聖霊降臨と呼ばれるぐらいここはとても大事な箇所ですし、たしかに使徒たちは聖霊を受けたはずです。

 しかし、そんな彼らが自分たちの使命を忘れて、自分たちの故郷に帰って、自分の生業のために、その歩みをはじめてしまっている。

 これは、実際に主の言葉を聞いて、それを即座に行動していかないとどうなるかということが示されている。私たちへの教訓です。

 しかし、そんな使命を忘れてしまっている弟子たちをイエスさまは叱責するわけでもなく、そばにおられたのでした。漁にご一緒してくださっていました。復活された主が。

 ルカ福音書5:1以下には、かつて同じように弟子たちが全く魚が捕れなくて困っていたところに、イエスさまがこられると大漁になったという記事が記されています。

 彼らはこの出来事を十字架の死、復活の後、主と出会った後また、経験しているのです。漁師では無いはずなのですもはや。しかし漁師に戻っている。さらに、驚くべきはあれだけ様々な出来事があったはずなのに、主イエスがそばにおられることに気づいていないということです。しかし、漁が大漁であったことをもって、かつて、親しく私に出会ってくださって使命を与えてくださって召しい出してくださったことを思い起こします。

 神が私の良心にこれをせよと教えてくださっているのに、それをどこかに押しやって忘れたことはなにかないですか。実際には、主イエスは見ようとすればそばにおられるのに、見ていないという自分はいないですか。

 以前から礼拝で度々申していますように、一人ひとりに分かるように、しかもそれぞれの人生の物語の中に、特別な出来事として、あなたにしかわからないように。あなたに対する特別な出来事として、復活の主との出会いが与えられていきます。

 ペトロは故郷に帰って来ました。主イエスの十字架と復活、大変なことがいろいろあったけれども、一段落落ちつて、落ち着いてから物事はじめていこう、そんなふうに思っていたのです。

 かつて自分が慣れ親しんでいた漁に久しぶりに出てみた。しかし、主イエスはそこにおられて、彼が本当になさなければならない使命に立ち返ってくるように、導かれました。

 主はご自身のお与えになる使命のために間髪入れずにペトロを導かれていかれます。

 使命に生きる、ミッションに生きる、ビジョンに生きる。

 復活の主がペトロと出会われて、そのペトロに三度も「わたしを愛しているか」と聞かれて、三度もペトロの使命に言及されます。漁師ではなくて、「私の羊を飼いなさい」と。

 主イエスを愛するということは、具体的に委ねられた実在のそこにある存在である羊を愛するということです。目の前のキリストに愛された羊を愛すること。それがイエス様を愛するということです。それがペトロの使命でした。

 しかし、ペトロはその使命よりも別のこと、漁に出ること、そのたもろもろのことに心が奪われてしまいました。様々に彼は故郷に帰って静かに考え始めていたことでありましょう。しかし、主は断言されるのです。あなたの使命は神の羊を飼うことであると。目の前に羊飼いを失った羊のようになっている一人ひとりがいる。その一人ひとりを具体的にお世話をしていくのだといこと。これこそが、主を愛するということであることを気づかせられるのです。

 この三度も、というのは、あの大祭司カイアファの邸宅において、自分を守るために三度知らないと言ってしまったことに対する、主の応答です。三度裏切ったことに対する赦しを込めて、主がご準備くださったことです。

 かつて三度知らないと言ってしまったとき、そこに焚き火があったように、この場面でも目の前に焚き火があるというシチュエーションを主はご準備くださいました。主はここまで一人ひとりのためにご準備くださるお方です。

 ペトロは裏切ったのです。しかし、主は使命に立つように、帰ってくるように呼びかけられます。しかも光栄な神の業のために、立つようにと召してくださるのです。

 裏切りの僕としてではなくて、栄光に輝く主の御力をうちに宿したものとして。主のしもべとして立つことができるように、三度裏切ったという出来事を、三度主から使命を受け取るという場面に主は変えてくださったのです。

 復活の主に出会うということは、なんと恐ろしいことでしょうか。私たちが闇だと感じていた自分の歴史、黒歴史とかいう言葉が流行っていますね。そんな出来事。だれもが背負っております。しかし、その黒歴史の只中で主との出会いが起こります。だれにも言いたくなかったこと、ひたすらに隠してきたこと、そういったものさえも、主の使命を宿すもの、主の使命のために使われるもの、愛するもの、小羊を愛するためのエッセンスに変えられます。

 復活の主に出会ったら、人生が変わってしまいます。あなたが触れてほしくなかったそのところに、主は入ってこられて、このあなたがひたすらに隠そうとしてきたこのことを通して、しかし、そこにあなたの使命を授けると言ってくださるのです。

 苦しみや悲しみや嘆きやつぶやきが、これらが実は反転して主に従うための使命に変えられてしまいます。

 体全体が、人生全体が変わります。

 引きずるようにして、、、重い重しをのせながらの息も絶え絶えだったような歩みが、急に反転して、主の使命のために立ち上がる人になります。

 そうなるからこそ、すべての人と出逢い、またもう書ききれないほどの主との出会いがあるはずだとヨハネ福音書は最後に記したのです。復活の主はあなたと出会ってくださっています。どうぞ心を開いて、主を見出してください。闇は使命に変えられます。アーメン。