「十字架のそばで」 ヨハネによる福音書19:26〜27

石井和典牧師

 今ここに座っている隣の方が、父、母、兄弟、子どもとして見えてくる。これがキリストに従うものの歩み。偉大なキリストは信じるものすべてを子として迎え入れてくださいました。キリストの血潮によって。あまりにも大きすぎるキリストの心。

 それは、この私たちがもとは縁もゆかりもなかった者たちが家族としておることができるということです。

 キリストは私たちをどのように御覧くださっているのでしょうか。マルコ福音書3:31〜35にその答えがあります。

 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

 イエス様が肉親を大事にしていなかったということではありません。極めて重要な人それがお母様のマリアでありました。

 しかし、何もよりも重要なことは、「神の御心を行う」ことなのです。神の御心を行う所で一致していれば、その人たちは、家族として共に生きることができるからです。私たちの「仲の良さ」でまとまるのではないのです。私たちの「好き、嫌い」でまとまるのではないのです。私たちにとって益であるか、不易であるか。損か得かでまとまるのではないのです。ただ、神の御心で一つになり。家族とさせていただきます。その家族の力の原動力となるお方は主お一人です。

 だから、主に聞くということ、聖書に聞くということ、祈りの中で主の心にふれるということ、これが教会にはなければなりません。そうでなければ、たとえ正しいことを主張して、行っていると自認していても、主に聞くことなしにことを行うと、イエス様が批判した律法学者やファリサイ派のようになってしまいます。神の御言葉を持っているし、しっかり学んでいるけれども、御心を行ってはいない、なぜなら主に聞いて行っているのではないからということになってしまいます。

 神の御心を行うこととは、愛を行うことです。ヨハネの手紙一4:7節からのところにこのように記されています。

 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。

 また、主イエスはこのようにおっしゃいました。ヨハネ福音書15:13、14。

 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。

 愛するもののために命を捨てること、これが神が目指している愛であり、イエス様が私たちにお見せくださった十字架の姿です。キリストの共同体が目指す目当てです。愛する友のために命を捨てるのです。自分にとって役にたつ誰かを自分のために利用するではないのです。いや、むしろ自分が損をすることをしていく。これが我々の共同体ですね。

 今日は母の日です。母の日の創設者である、アンナ・ジャービスという方がこのような言葉を残しています。私は非常に強い感化を受けたのでご紹介させていただきます。(出典はWikipedia)

 「その白さは母の愛の真実、純粋、広い慈善をシンボライズする。その匂い、彼女の記憶、そして彼女の祈り。カーネーションは花弁を落とさず、それが枯れる(die)ときその中心(heart)にそれらをくっつけ、それだから、そのうえ、母は子を胸(heart)に抱きしめ、母の愛は決して死な(die)ない。わたしがこの花を選んだとき、わたしは白いセキチクの母のベッドを思い出していた。」

 カーネーションがなぜ母の日に選ばれているのかといえば、その花びらが子に例えられ、子(花びら)を決して落とすことなく枯れる、それを母の愛になぞらえているということなのです。母の愛は何があっても死なない。子を落とすことはないということですね。

 神の御心を行おうとする、キリストの家族のために、「決して死ぬことの無い愛」をささげる。自分の思いではありません。神の思いを求めるものたちには、このような死なない愛が芽生える。そう信じることができます。

 相手のために十字架にかかってしまうこと。相手のために処刑されてしまうこと。相手の上に自分の命をかけること、肉体の疲労や痛みや、この世の制限をすべて乗り越えて。それでも相手を大事にすること。永遠に共に生きる意思。約束を守り抜く心。力そのもの。

このように、十字架の主イエスを表現し、愛とはこうであるとしるしつづけることができます。

 対照的に、キリストを求める前の、我々の愛がいかに不完全、不十分、自分勝手か。死なない愛ではなくて、死ぬ愛ですね。

 相手によって変わってしまう愛ですね。

 愛が転換して敵意にさえなります。

 実際はそのように、死んでしまう愛というのは、キリストが私たちに与えようとされた愛ではありません。

 もし、そういう愛が神の愛であったなら、決して十字架という出来事はおこらなかったでしょう。主イエスが死を通られて、ボロボロになっても私たちに向かってくるなどということはありえなかったでしょう。

 ただただ、私たちは捨てられるしかなかったはずです。

 十字架の死を通られたキリスト、天の父、聖霊しか、まことのご愛をお持ちではありません。この御方に繋がり、この御方から愛を頂いて、私たちがその受けた愛を反映して生きる以外に人を愛することなどできません。しかし、それを行うように召されている共同体、それがキリストの共同体です。

 愛する友のために命を捨てる共同体。教会。

 カーネーションのように子を決して捨てない母の愛の共同体。

 はじめは抱いていると思っていた愛が死んでいませんか。

 それはキリストの愛ではありません。キリストは私たちを愛の共同体にしようとしておられるのです。私たちは妥協してはいけません。妥協するんだったら別に教会じゃなくて良いじゃないですか。

 

 ヨハネ福音書を書いたヨハネは、イエス様からご命令を受けて、ミッションを受けた通り、お母様を引き取って生きたと言われています。

血のつながりの無い人を、自分の母として受け入れて生きることができますか。

 しかし、ヨハネは主から受けた御心として、これを受け止めたのですね。

 イエス様のお母様のマリアも、これを神の思いと受け止めたのです。

 でなければ、ヨハネを本当に子どものように慕いながら生きることはできなかったはずです。

 この二人の姿を見て、神の心でつながるならば、あらゆるボーダーを、壁を乗り越えることができると信じることができます。主が命じられたことが実現するとはなんとすばらしいことでしょうか。光です。灯火です。子を亡くした母が、子を見出し、師を亡くした弟子が、新しい使命をつねに見出すのです。

 主イエスが、その人を母、子どもと扱ってくださるのだから、その人と共に生きていくことができます。

 神の御心、思い、使命、ビジョンでつながっている共同体です。その中にいる人達は家族となれます。

 その真中には神の心がある。それがなければ一つとなることはできません。それぞれの考えがぶつかり合って、違いが鮮明になり、対立が際立ち、それぞれ別の方向を目指すことになります。

 主イエスはご自身の血を流されながら、地縁血縁よりももっと大事な、神の心によって生きるという道を指し示されました。

 

 神の心を求め、御心を求め、ミッションでつながり、ビジョンでつながり、愛に生きるという共同体において、滅びがすべてキリストによって飲み込まれて吸い込まれて、なくなってしまいます。ヨハネ福音書19:28を見ると、主は「渇く」と言われて死んでいかれました。渇きというのは、地獄の滅びの渇きです。

 現世において、金持ちの食卓から落ちるパンを食べていたラザロが天に入れられ、逆に現世では金持ちであった人が後の世では地獄の炎で焼かれているということを主は述べられました。ルカ福音書16章19節以下です。

 滅びは渇きです。しかし、その滅びのすべてを飲み込むようにしてお引き受けになられたのが主です。「渇く」と言われて死なれました。

 御心を求める共同体には、「滅びを吸い込んで」すべて背負われた主キリストがおられます。

 母の日が出来たのは、母の日の創設者のアンナ・ジャービスのお母様、アン・リーヴス・ジャービスの心に祈りの中で霊感が与えられたからです。アン・リーヴス・ジャーヴィスは、日曜学校の祈りのあとに、このような思いが心に去来したそうです。

 わたしは希望し祈ります、だれかが、いつか、あらゆる生活分野で人類に比類の無いサーヴィスを与える母を記念する記念の母の日をつくる。彼女はその権利があります。

 そして、その子が母の日を実現し、現代の我々が覚えています。母が子に仕える姿は、主キリストのお姿と重なります。究極の姿はキリストです。地獄の滅びをその底の底から吸い取るようにして、なくしてくださいました。子が滅びることは許せなかったのですね。

 母の死なない愛と共に生きること、その愛に力づけられて、私たちも死なない愛を持つことができること。

 なんと、死んでばかりの愛がそこら中に、、、しかし、そうではない、キリストはそのような共同体をつくるためにご自身の命を捨てられたわけではない。

 母の死なない愛を宿した共同体です。キリストを中心にするならば、我々に力はなくても、神の力によってそのようにさせられることを信じます。アーメン。