「聖霊による洗礼」 使徒言行録 1:3〜5

石井和典牧師

 復活されたイエスを私達キリストの教会は、「見ないで信じる」ように召されています。聖書の記述を頼りに、また現代のクリスチャンの証しを頼りに、信じるようにと召されたわけです。ヨハネによる福音書20:29にこのように記されています。

 「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」

 復活の主を見たから信じたわけではなくて、証言を聞いて、それを信じて受け入れた人は、その証言から聞こえてくる内容をやがて自分の身で、経験するようになるからです。肉の目をもってではなくても、主なるイエスが祈りをとおして私達の言葉を聞いてくださり、ご自身のご計画を明らかにしてくださるということを経験するからです。

 ベール一枚向こう側で(別次元)で主が祈りに耳を傾けてくださっているのを体験し、実感します。

 弟子たちの復活証言を通して、「見ないのに信じ、信じたがゆえに主を体験する」。そのような歩みをしていきたいと思います。

 本日の箇所には前置きがあります。それはルカによる福音書24章です。

 聖書に記されているようにイエス様の十字架と死、復活という出来事はあらかじめ予告されていたことでした。ルカ福音書24:25で復活されたイエス様はこのようにおっしゃられています。

 ああ、物分りが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。

 これはイザヤ書の苦難の僕の預言のことを言っておられるのですが、それだけじゃなくて、イエス様がご自身でご自身の受難と復活を預言されています。しかし、弟子たちはそれらを信じることができなかったのです。そして、24:27。

 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された。

 聞いても聞けず、理解できず、受け止めることができない主イエスの復活の出来事。そのわからない人に、主は教えられました。目の閉じた、耳の閉じた状態にある弟子たちに対して、主はあきらめられません。語り続け、歩みを共にしてくださり共に食事をし、何度も、そばにおられるお方がイエスさまだと分かるようなしるしをお見せになられて、そしてやっと弟子は受け入れることができるよういになった。

 するともはや肉の目にイエス様のお姿を見ることはできなくなっていました。

 イエスさまが見えるようになるということは、実は別に肉の目が絶対的に必要というわけではないのです。

 見ていなくても信じつづけ、体験することができる。それは弟子の姿を見ればわかります。もはや何も見えなくも、彼らは信じて歩みを進めていきます。弟子に主はおっしゃられました。ルカ福音書24:46。

 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所から力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。

 ここに書かれていることは偉大なことです。新しい時代の幕開けが宣言されました。ルカ福音書を書いた人と本日読んでいます使徒言行録を書いた人は同じです。この話が、今日朗読されたところとつながっているということにお気づきでしょうか。

 約束されたものを受ける。すると証人となり、全世界の、あらゆる国の人々に悔い改めが与えられて、罪の赦しを得ることができるようになる。

 今まで神のことを知らなかった人が神の国の住人となって、神の霊にうちに住んでいただいて覆われて生きていくことができるようになる。

 罪の赦しというのは、背いてどこかに行っていた人が、神の守りを受けることができなくなってしまっていた人が、神のもとに帰って神のものとして生活を始めるということです。一言で言えば、神の民としていきるということです。

 すべての民に神の民として生きるその道に招かれていく。

 それは神の霊を受けて証人となるように召された人を通してです。

 証人というのは体験して、味わって、満たされて、いつでもどこでもその神の霊の証しを立てることができる人でなければなりません。体験していなかければ、それを伝えることはできません。だから、聖霊を受けるようにと命じられたのです。本日のところ使徒言行録1:4。

 「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」

 聖霊の洗礼を受けるとは、聖なる神の霊によって浸されるということです。神の心でみちみちてくるということです。これは、ただ約束を信じて、一つになって祈っていると経験することです。神の約束の言葉を根拠として、集まってひたすら神に心を向けていると、聖霊のバプテスマを受けます。すると心が神の思いでみちみちてくるわけです。あらゆる神の喜びが私達の内で味合われます。

 使徒言行録の1章〜2章の流れを何十回、何百回、何千回と見直していただきたい。彼らがしていたのは、神の御言葉をひたすらに信じて、一つになって熱心に祈っていたということです。自分の主義主張イデオロギー、政治思想を脇にどけてです。それが使徒言行録1:12以下に記されている、使徒たちの名前が示す意味ですね。使徒1:14。

 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。

 物事が起こるときはいつもどこでも変わりません、熱心に人々が祈りはじめたときに起こるのです。ひたすらに、専心して神にむかいはじめたときという意味ですね。

 祈りに専心するときに、神の私達への思いがしみてくるのです。神は旧約から新約まで一ミリも変わらず、民を愛しぬく決意をされてそれを実行に移されてきました。モーセと神が約束を交わされたとき、民をどのようにされるとおっしゃられたでしょうか。

 宝の民とすると言ってくださいました。何よりも大事な民です。神にとって皆様は値高いのです。この一つの心だけで、私達のこころが癒やされてきます。イザヤ書43:3。

 わたしの目にあなたは値高く、尊く/わたしはあなたを愛し

 それから、イザヤ書43:1〜2にはこのように書かれています。

 ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主は/今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず/炎はあなたに燃えつかない。

 何があっても神は民を守り抜かれるのです。

 そして、祭司の王国(神と人とを結びつける役割)、聖なる民とする(神のために用いられる民)と約束してくださっていました。それが、実は教会の誕生日であるペンテコステにおいて、聖霊なる霊がそそがれて、満たされて満ち満ちることによって実現していくというのです。主イエスはおっしゃられました。使徒1:8。

 あながたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。

 ユダヤとサマリア、分断されていた国が一つにされ、地の果てに至るまで証人となって、世界中の民を結びつける役割をする。

 神が値高いと認めてくださることには、黄金よりも高価な価値と力があります。だから、義とされて迎え入れられて神の民とされて、神に宝とされるということは、何千、何百億、何兆円よりも価値があることです。

 これが力。神が私達に価値ありと認めてくださって、恐ろしい価値を私達が自分たちの内側に有しながら歩み、実際にその人が値高いことが明かしされるのが、キリスト者の歩みだということです。世界中の民を神の言葉と祈りによって一つとする神の民の事業に用いられていきます。祭司の王国、聖なる国民です。

 心を開いて神の霊を受けましょう。隅々まで心を神に開いてください。隠し事をしているとそこに聖霊が宿らないのです。だから、主にはすべて開いてください。そして、宝の民、祭司の王国、聖なる国民として、主が願われた全世界への証人となるように、祝福いたします。アーメン。