「主の選び」 使徒言行録 1:12〜26

石井和典牧師

弟子たちは集まって祈っていました。しかし、恐れはあったのではないかと思います。というのも、キリストが十字架にかけられて処刑されてしまったあとです。その弟子たちが集まっていることが知れ渡ったら一体どんなことが起こるのでありましょうか。しかし、彼らには主の約束の言葉が与えられていました。使徒言行録1:4。

 「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」

 また、こうもおっしゃられました。使徒言行録1:8。

 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。

 信仰に生きるということは、約束の言葉ありきで、主の言葉に向かって生きるということです。それがいかにはじめは受け入れるのが難しかったとしても、信じるのに抵抗があったとしてもです。

 恐れはあっただろうと言いましたが、実際には彼らには最強の武器が与えられていました。それは、復活の主イエスと出会ったという事実です。

 この事実があったからこそ、エルサレムにとどまっていることができた。主イエスのみ言葉に従うことができたと言えます。もし、そうでなかったら蜘蛛の子を散らすように各地に逃げていたに違いありません。

 復活の出来事、復活の事実が、信仰者の最大の武器です。

 これが心にあればどんな難問も乗り超えて行くことができます。

 復活の事実と、復活の命が皆の内に「信仰によって」宿るのであると主イエスは証ししてくださいました。ヨハネによる福音書11:25。

 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

 復活の命を受け入れると、人は変わってしまいます。イエスさまがおっしゃられた通り、復活の命が内にやどり、その命によって死なないものとなるのです。肉においては死ぬでしょう。しかし、霊においてはもはや死ぬことはありません。このことを信じるかと主に聞かれて、信じますと答えた人々は、何があっても生きます。

 それは私たちの言葉ではなく、信念ではなく、ただ主イエスの約束だからです。根拠はすべて、主イエスの側にあります。

 イエス様は実際にご自身の姿を現してくださって、復活が起こるのだということを見せてくださいました。それゆえに、弟子たちは恐れることなく、エルサレムにとどまることができました。

 何より、この交わりの中にイエスさまのご家族がいることが、復活が事実であったことを指し示します。タルムード(口伝律法)によると、ユダヤ人は自分の夫や妻、子どもが十字架刑に処されたら、その町にとどまっていることはできず、他の町にうつらなければなりませんでした。十字架につけられた人ののろいがその町にとどまると考えられていたからです。町に戻ることができるのは、肉体が腐敗し、骸骨になってからです。そのためには少なくとも40日間は必要でした。しかし、そんな口伝律法のおしえにもかかわらず、お母様のマリアとイエス様の兄弟は、エルサレムに残って祈っていました。

 あえてそれらを無視していたのでしょうか。違います。彼らは復活を目の当たりにしたのです。イエス様は十字架にかけられたけれども、のろわれたまま朽ちていくのではなくて、復活の体をもって、そばにこられ、生きていることが証しされた。すなわち、主イエスは死んだのではなく、生きていると受け止めたから町にとどまっていたのです。

 彼らにとって肉体の復活は、揺るぎない事実であったということを指し示します。ユダを除いた11人と、その他にも沢山の人々が集まって祈っていました。使徒言行録1:14。

 心を合わせて熱心に祈っていた。

 と記されています。徴税人のマタイから熱心党のシモン、政治的な立場ですと、左から右と言ったらよろしいのでしょうか。真逆の人々が集められていました。自分たちの力では決してひとつになることができない人々が、主イエスの復活の出来事の前で一つになるのです。

 彼らは、ただキリストの復活という事実の前でひざまずいていた人です。神の業の前に驚き、自分をささげていくことを願った人たちでした。このような姿を見ていると、人は態度一つ、顔色一つ、行動一つで証しができるということがわかります。この人は神を畏れていたのだなということが誰の目にも明らかになる日が来ます。

 彼ら使徒たちの顔ぶれを見ると、明らかに人間的な仲の良さとか、同じイデオロギーであつまっているとか、地縁血縁があるとか、そういったことではまったくありませんでした。とうよりも、考え方などてんでバラバラ、心の内側は全然理解しあえないけれども、神の出来事の前にいる人々でありました。

 神の御業の前にただただ恐れをもって、祈る心をもっている。神の御言葉による命令によってただ、そのご命令に従って皆が集まっている。すべての主導権はただ、主にだけある。

 

 主が聖霊を注いで教会を建てあげてくださらなければ何も起こらない。弟子たち自身には、復活の事実を知って、心は燃えていましたでしょうけれども、心の内に何かをなそうなどという気持ちはなかったはずです。ただ、キリストの前にいるという意識だけです。

 ただ、御言葉が実現することを求めて祈りをささげて待っているという状態です。それから、自分たちにできること、小さなことをささげながらいただけです。

 使徒の欠員がでてしまったので、その欠員を埋めるくじを引いていました。

 神の言葉による語りかけに応えて、新しい歩みを始めるための準備をしていたということです。しかも、すべて神の言葉を根拠として、詩篇を預言として与えられていたものとして受け止めて、大事な使徒を新しく選ぼうということになっていきました。すべての主導権は主なる神、御言葉です。二人の人が立てられますが、この二人の特徴を見てみてください。特徴といっても、名前からしかその特徴は見えてきません。しかし、その名前が多くを語っています。

 ヨセフという人と、マティアという人が使徒の候補として立てられましたが、ヨセフという人にはあだ名がありました。それはバルサバというものと、ユストというあだ名です。バルサバというのは「安息日の子」という意味で、ユストというのは「正義の人」という意味です。すごいあだ名がつけられた人です。安息日を大切にして、神の義を守る、すなわち律法を聖書をよく学んでいたと人ということがわかります。

 正義の人と人々に言わしめているのですから、学んでいるだけじゃなくて、実際に神の御言葉を実行し、正義に生きていた人のはずです。

 マティアという人にはあだ名がありません。聖書にその行状がでてくるわけではないので、強いて言えば目立たない特徴のなかった人ということができるかもしれません。マティアはという名前は「賜物」という意味があることも覚えておくべきです。

 おそらく普通に人間が選ぶとしたら、人気投票をしたら。。。安息日の子、正義の人であるヨセフを選んだ方がこの共同体にとって益となると推測されて選ばれたことでしょう。

 しかし、どちらを使徒として立てるかは、彼らは自分たちがどう思うか、ということではなく、ただくじによって、神の選びに信頼して決めようとしたのでした。徹底しているのです。ただ神の主導権によって。

 そうでなければ、ローマが十字架にかけたイエスが率いる共同体が、人間の力でどうやってローマの中で伝道することができるでしょうか。ただ神の力、神の導きによらなければローマの力をかいくぐって伝道はできないのです。

 ならば、自分たちの思いによる民主的な方法ではなくて、くじによって、すなわち神の主導権によって選ぼうということになったのです。人間の思いを排して、神の思いに従ったのです。 

 人々の信頼によって多数決で決めた方がうまくいくとは考えなかった。そもそもうまくいくなどということを彼らは考えていなかったと思います。ただ神の支配があるように、神の国が広まるように。復活という出来事によって新しく神の力によって神の国がはじめられようとしている。その神の力強いお働きの前に、自分たちの力を捨てて、自分を虚しくして、政治思想や主義主張、イデオロギー、出自、地縁血縁など一切関係なく、ただただ、神の国の支配の前に、復活の出来事の前に、自分をすてて、祈りに専心し続けたのです。そして、目立たないマティアが選ばれました。マティアが選ばれたのはその名前が示すとおり、神からの賜物でありました。

 その人々のところに賜物である聖霊がくだりました。

 神が示してくださっている出来事の前に、ただただ畏れかしこみ、自分を捨て、自分に死ぬという、十字架を担っているものたちのところに聖霊がくだりました。主イエスがおっしゃられたことが実現しています。ルカによる福音書9:23。

 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

 自分を捨てるから一緒に祈ることができ。自分に死んでいるからこそ、誰が適任かどうかなど、すべて主に委ねることができたのです。

 そのように従うものたちに、主は聖霊という力を注いでくださいました。十字架による罪の赦しが実際に受け止められているところ、さらに、自分の十字架を背負うという応答が起こります。受け止めていなかったら応答は起こらないのです。主に従うということも起こらないのです。しかし、はじめの教会においてはそれが起こっていました。

 皆が十字架と復活を心から受け入れたがゆえに、自分を捨てたのです。そこに驚くべき、力が注がれました。

 聖霊は力です。力はデュナミスです。ダイナマイトの語源になった言葉です。爆発するような力が与えられるのです。そこから世界が変わってしまいました。神の国の支配は時代を飛び越えました。今でもそれ味わうことができる世界になってしまいました。この力こそ、デュナミス、ダイナマイト、聖霊の力です。アーメン。